第158話:静寂の処議、あるいは愛の断絶
1. 六日目の厄災:反転する聴覚
記憶の雨が止むことなく降り続く中、六日目の夜明けと共に世界から意味のある音が完全に消失した。 境界の道化ファンタズムが指先で音の理をかき回した結果、地上の音はすべて肉体を物理的に切り裂くノイズへと変換されたのだ。
蓮が「ユリア!」と叫ぼうとすれば、その声は彼女の耳元で巨大な鉄鋸が挽かれるような不協和音となり、彼女の鼓膜を内側から破壊する。 母親が子供を抱きしめようと漏らす吐息ですら、赤ん坊の脳内では猛獣の断末魔として響き渡る。 愛を伝えようとすればするほど、言葉は相手を殺す刃となる。開拓地「ゼロ」は、意思疎通そのものが最大の禁忌とされる、静寂の処刑場へと変貌した。
2. 影祈の徒:無音の舞踏
この絶望的な沈黙の中で、影祈の徒たちは狂ったように踊り続けていた。 彼らは一切の声を出さず、ただ恍惚とした表情で、自らの耳をゆっくりと指で引き千切る。
「……っ!!」
声にならない悲鳴を上げたのは、近くにいた開拓民の一人だった。因果の完全同期により、刺客が耳を失うと同時に、無実の避難民の耳からも鮮血が噴き出し、聴覚が永遠に失われる。
蓮は右腕の白銀の虚無を握りしめ、歯が砕けるほど噛み締めて立ち尽くしていた。 目の前の刺客を吹き飛ばせば、その衝撃波の音だけで周囲の民の頭薬は粉砕される。 虚無で概念を消そうとすれば、同期しているユリアの「存在定義」まで削り取ってしまう。 修行で得た最高点の本気が、神々の定義した沈黙のルールによって、一歩も動けない呪縛へと変わっていた。
3. 神々の円卓:不協和音の品評会
大天の円卓では、四神がモニターに映し出される「無音の地獄」を、至高の芸術として鑑賞していた。
ファンタズム: 見てよ、あのレンの顔! 何か叫びたいのに、口を開けば周りがミンチになるから、唇を噛み切りすぎて顔中血まみれじゃないか! 最高だ、期待以上の反応だよ!
ヴェスペラ: ええ、本当に。愛する人を呼ぶことさえ許されない絶望。これこそが私の望んでいた、究極の『安らぎ』への一歩だわ。
秩序の神ゼテスは、優雅にチェスの駒を動かすように指先を走らせ、冷徹に付け加える。
ゼテス: 彼はまだ、解決策を探しているようですね。ですが、この『同期の呪い』と『音の反転』は、私が定義した絶対的な秩序です。彼が生きようと足掻くエネルギーそのものが、周囲を死に追いやる燃料となる。……さて、次は何を奪いましょうか。
4. 傲慢の解析、あるいは歪な忠告
背後で状況を監視し続けていた傲慢は、冷汗を流しながらも、その瞳は機械的な精密さで蓮のデータを更新し続けていた。
(……神崎蓮。血圧、危険域。精神汚染、深度7。このままでは、奴が自分自身を『否定』して消滅しかねん)
傲慢は苛立ちを隠さず、自らの影から「沈黙の波」を放ち、周囲の音の衝撃を僅かに相殺する。だが、それも焼け石に水だった。
「おい、神崎蓮……。聞こえんとは思うが、一度だけ言ってやる。……神が『意味』を奪うというなら、貴様は『無意味』になれ。……貴様のその白銀の虚無は、まだ完成していないはずだ……」
傲慢の言葉はノイズとなって蓮の耳を打つ。だが、その背後に込められた執念の重みが、蓮の意識の奥底に僅かな波紋を広げた。
5. 七日目へのカウントダウン:秩序という名の監獄
蓮は、血の涙を流しながら、膝をついて泥を掴んだ。 目の前では、ユリアが自分の喉を掻き切るような幻覚に襲われ、もがき苦しんでいる。 影祈の徒たちが、今度は自分の指を、一本ずつ、ゆっくりと折り始めた。
パキッ、と無機質な音が響く。 それと同時に、広場にいた十数人の民たちの指が、同じ角度で、一斉に逆方向に折れ曲がった。
誰も救えない。 何一つ言葉を届けられない。 神々の陰湿な悪意が、ついに英雄の精神を、最深部から叩き折ろうとしていた。




