第156話:摩耗する魂、あるいは狂乱の産声
1. 終わりのない消耗戦
開拓地「ゼロ」に、四日目の朝が訪れる。だが、そこには希望の光など微塵もなかった。 ゼテスが書き換えた「秩序」により、人々の食卓からは一切の味が消え失せていた。どれほど芳醇な肉を焼こうと、瑞々しい果実を口に運ぼうと、舌に触れるのはただの**「乾いた砂」**の感触のみ。
「……ハァ、ハァ……。みんな、諦めるな。これは神様のまやかしだ。俺たちが生きようとする意志を捨てなければ、道は必ず……!」
蓮は、自分自身を鼓舞するように声を張り上げる。彼の右腕から放たれる白銀の虚無は、人々の心に「生きるための痛み」を刻みつけ、ヴェスペラの甘い眠りの誘惑をかろうじて押し留めていた。
だが、蓮は気づいていない。 自分たちがどれほど歯を食いしばり、血を吐くような思いで耐え抜こうとも、その必死な姿そのものが、大天の円卓に座る神々にとっての**「最高のスパイス」**として消費されていることに。
2. 決壊した精神の器
地獄のような沈黙が続く中、ついにその「音」が響いた。
「――はは。あははははは!!」
乾いた笑い声。それは、蓮を慕い、共に開拓地を切り拓いてきた若い兵士、カルトのものだった。 彼は皿に盛られた「砂」を、狂ったように両手で掴み、口へと詰め込んでいる。喉に詰まり、血が混じった砂を吐き出しながら、彼はなおも笑い続けた。
「なんだ、そうか。最初から、味なんてなかったんだ。俺たちの人生も、努力も、ユリア様への忠誠も……全部、砂だったんだよ!」
カルトの瞳からは光が消え、代わりにドロドロとした暗紫色の魔力が溢れ出していた。 神々の災厄は、個別の攻撃ではない。「トラウマ」「安寧の誘惑」「味覚の欠如」「秩序の重圧」。これらが数日間にわたって積み重なり、ついに彼の精神の「継ぎ目」を完全に引き千切ったのだ。
3. 狂乱の連鎖
「カルト、やめろ! 正気に戻れ!」
蓮が駆け寄るが、カルトは手にした農具を、隣にいた仲間に向かって躊躇なく振り下ろした。
「救ってやるよ! 砂を食うだけの毎日から! 寝れば死ねる、死ねば楽になれるんだろ!? 神様がそう言ってるんだ、正解なんだよ!!」
悲鳴。 そして、一人の狂乱を皮切りに、耐えていた民たちの均衡が次々と崩れ始めた。 「安寧」を求めて自らの喉を掻き切る者。 「秩序」に従わない者を、異端として糾弾し殴り殺す者。 蓮の「痛みの再定義」は、極限まで追い詰められた彼らにとって、逆に「最後の一押し」となる絶望の火種へと変質してしまった。
4. 神々の喝采:無邪気な観測
「おぉ……見事です。あの歪な『結び目』が弾ける瞬間。これこそ、私の望んでいた新説ですよ」
大天の円卓で、ファンタズムが手を叩いて喜んでいる。 彼らの前には、地上の惨状がホログラムのように映し出されていた。カルトが仲間を手にかけ、蓮が絶望に顔を歪めるその一瞬一瞬が、神々にとっては「極上の演劇」のクライマックスであった。
「ヴェスペラ、貴女の霧が効いていますね。絶望の中に一滴の『快楽』を混ぜたことで、彼らの狂乱はより美しく、より純粋になった」
「ふふ、ゼテス様。あの子、蓮でしたっけ? 彼、まだ気づいていないのね。自分がみんなを励ませば励ますほど、その『期待』が人々の心を壊す重石になっていることに」
ヴェスペラは、グラスの中の紅い液体を揺らしながら、慈愛に満ちた(醜悪な)微笑を浮かべた。
「頑張れば頑張るほど、犠牲者が増えていく。……ねえ、彼はいつまで耐えられるかしら? 自分の手が、守りたかった人々の血で染まっていくその感触に」
5. 泥濘の絶望
地上では、蓮が血を流すカルトを右腕で押さえつけ、絶叫していた。
「……なんでだ……! なんで、救えないんだ……!!」
傲慢は、冷徹にその光景を見つめている。彼だけは、この災厄の背後に透けて見える「神々の悪意の質」に気づき始めていたが、それを今の蓮に伝える術はなかった。




