第154話:ヴェスペラの揺り籠、あるいは慈悲という名の尊厳死
1. 浸食する「安寧」
「掃除針」がもたらした自己嫌悪の毒は、一晩で開拓地「ゼロ」の活気を完全に削ぎ落としていた。広場には、亡霊となった翔太がうずくまり、見えない上司に謝罪し続けている。その姿を見るたびに、民たちは自分たちの惨めな境遇を突きつけられ、戦う気力を失っていく。
だが、地獄はまだ始まったばかりだった。 二日目の夜明けと共に、大天から降り注いだのは、淡い紫色の柔らかな光の粒子――四神が一人、ヴェスペラによる「揺り籠」の権能だった。
「……何だ、この感覚は。体が、温かい……?」
前日まで重傷を負っていた開拓民の一人が、不思議そうに自分の傷口をなぞった。痛みは消え、深い安らぎが全身を包み込む。だが、その瞳からは「生」への執着が、潮が引くように消え失せていた。
2. 親愛を切り裂く「静かな殺意」
ヴェスペラの災厄は、肉体ではなく「絆」を標的にしていた。 神々が定義する慈悲とは、苦しみからの解放。そして、生きること、誰かを愛することこそが最大の苦しみであるという歪んだ論理に基づいている。
広場の一角で、一人の母親が泣き叫ぶ我が子を見つめていた。以前なら必死に抱きしめていただろう。だが、今の彼女の瞳に宿るのは、冷徹なまでの「平穏への渇望」だった。
「……ああ、この子が泣いているのは、生きているからなのね。生きるという苦痛から、この子を解放してあげなければ」
彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、我が子の首に手を伸ばした。そこには憎しみも怒りもない。ただ、ヴェスペラが流し込んだ「安楽死」という名の、あまりにも純粋で陰湿な殺意だけがあった。
あちこちで、看病していた者が患者の呼吸を止め、恋人たちが「永遠の平穏」のために心中を選ぼうとする。血の流れない、静寂に包まれた虐殺。開拓地は、生きながらにして死を望む「静かな墓場」へと変貌しつつあった。
3. 解決策の模索:虚無の限界
「……くそっ、止めろ! 離せ、それはお前の子供だぞ!」
蓮が駆け寄り、虚無を纏った右腕で母親の腕を弾き飛ばす。だが、母親は痛みを感じることなく、ただ困ったように蓮を見つめるだけだった。
「どうして邪魔をするのですか? この子は、もう十分苦しんだわ。……貴方も、そんなに震えて、生きるのが辛いのでしょう?」
「……っ!!」
背後では、亡霊の翔太が「ほら、死んじゃえば楽になれるよ。謝る必要もなくなるんだ」と耳元で囁き続けている。 蓮の「虚無」は、敵を否定する力だ。しかし、この場に明確な「敵」はいない。ヴェスペラが植え付けたのは、人々の心の内側から湧き出る「救済」の形をした狂気。虚無で弾こうとすれば、救おうとしている民たちの心そのものを消し去ることになってしまう。
4. 傲慢なる分析と、アルマの示唆
「……滑稽だな。神の慈愛とは、魂の自死を促す甘い毒か」
傲慢は、混乱する広場を見下ろしながら冷笑を浮かべた。彼は自らの影から、変質させた「怠惰」の波を放ち、周囲の「安寧」を強制的に相殺して回っているが、それも一時しのぎに過ぎない。
「神崎蓮。貴様のその甘い虚無では、この毒は消せん。……この災厄を止めるには、彼らの心に『生存という名の不協和音』を無理やり叩き込むしかない」
「……生存の不協和音?」
蓮が問い返すと、今まで沈黙を守っていたアルマが、赤い糸を一筋、空へと伸ばした。
「ヴェスペラは、人々の『意味』を奪って、綺麗な布に織り直そうとしているわ。……だったら、蓮。貴方がすべきなのは、消去じゃない。彼らの心に、消えない『汚れ』を、生きるための『痛み』を再定義することよ」
「痛み……を、再定義する?」
「そう。死にたくなるほどの平穏を、生きるための怒りで塗り潰すの」
アルマの助言は、かつての聖女とは思えぬほど苛烈だった。 亡霊の翔太(過去の弱さ)を消し去るのではなく、その弱さを「生きるための屈辱」として燃やし尽くす。蓮は、右腕に溜まった白銀の虚無を見つめ、一つの賭けに出ることを決意した。
「……分かった。……傲慢、ユリア。協力を頼む。……俺は、この『掃除針』を逆用して、皆に『地獄を生きる呪い』をかけてやる」




