第151話:深淵の研磨、あるいは不純物の鍛錬
1. 「神無き空白」の静寂
大天の第一層から這い戻った開拓地「ゼロ」は、不気味なほど静まり返っていた。 空に刻まれた巨大な亀裂からは、依然として「多層的不協和音織」の断片が、オーロラのように美しくも禍々しく溢れ出している。しかし、アルマの言った通り、この世界は蓮がかつて神を屠ったことで生まれた**「主不在の空白地」**。他層の神々が安易に手を伸ばせぬ、法に守られた治外法権の檻であった。
「……ひとまずは、安全ってわけか。皮肉なもんだな。俺たちがこの理不尽な世界で息をしていられる理由が、神殺しの副産物だなんてよ」
蓮は崩れた煉瓦の上に腰を下ろし、震える右腕を抑えた。虚無の残滓が疼き、記憶の断片が砂のように脳裏を掠めては消えていく。
「休んでいる暇はないわよ、蓮。猶予はそう長くは続かない」
アルマが赤い糸を指先で弄びながら、冷徹に告げた。彼女の瞳には、休息を楽しむような慈愛は一切ない。そこにあるのは、次の「テスト」に向けて刃を研ぎ澄まそうとする、職人の執念だけだ。
2. 傲慢なるコーチング:歪な復讐者の論理
「おい、神崎蓮。いつまでその無様な腕を眺めている」
少し離れた場所で、蓮の脈動から視線の動きに至るまでを「観測」し続けていた傲慢が、苛立ちを隠さずに歩み寄ってきた。彼は懐から、変質させた「怠惰」と「暴食」の力が渦巻く魔力結晶を取り出す。
「貴様の虚無は、ただ消し去るだけの粗末な力だ。それでは大天の不協和音を『相殺』できても、書き換えることはできん。……私の復讐を完遂させるためには、貴様にはもっとマシな『器』になってもらわねば困るのだ」
「……復讐、ね。お前、さっきから俺を助けてばっかりじゃないか」
蓮の皮肉に、傲慢は一瞬だけ表情を強張らせ、すぐさま傲慢な嘲笑を浮かべた。
「勘違いするな! 私が貴様を鍛えるのは、貴様を殺す時の『手応え』を担保するためだ! 弱り切った獲物を屠っても、我が同胞たちの無念は晴れん。……この魔力結晶を喰らえ。貴様の虚無という空洞に、大罪の毒を叩き込んで安定させてやる」
それは、復讐という名の献身的なサポートであった。傲慢は、かつて自分が蓮に敗れた要因を徹底的に分析し、それを逆に蓮の「補強」に充てるという、極めて偏執的で効率的な特訓を蓮に強いた。
3. ユリアの覚醒:鏡合わせの聖女
一方、ユリアはアルマと共に、開拓地の奥深くにある「意味の断層」へと向かっていた。
「……ユリア。貴方がエレオノーラ相手に見せたあの動き。あれは単なる剣技ではないわ」
アルマは足を止め、自分と瓜二つの容姿を持つ、しかし決定的に「熱量」の異なる少女を見つめた。
「貴方は蓮の虚無によって繋ぎ止められた際、この世界の『不純物』として再定義された。……いいえ、正確には大天の神々が忌み嫌う、図案を乱す『結び目』そのものになったのよ」
ユリアは静かに自分の掌を見つめた。そこには、以前にはなかった微かな、しかし力強い拍動が宿っている。
「私は……蓮様の隣にいたいだけです。そのために必要なのが、神々の図案を切り裂く力だというのなら、私は喜んでその『結び目』になりましょう」
ユリアの放つ気圧は、本気を出していないアルマのそれと不気味なほどに同調し、反発し合っていた。かつて守られるだけだった騎士団長は、今や「大天」の法則を内側から食い破る、特異な生命体へと変質しつつあった。
4. 修行の泥濘:再構築の始まり
「さあ、始めましょうか」
アルマが合図を送ると、赤い糸が世界全体を包み込み、開拓地「ゼロ」を巨大な**「概念的鍛錬場」**へと変容させた。
蓮は傲慢が放つ七大罪の猛毒を虚無で受け流し、自らの内側に「芯」を作るための地獄の組手を繰り返す。 ユリアはアルマが作り出す「疑似的な神の重圧」の中で、概念を切り裂くための剣を振るい続ける。
それぞれが、己の限界を最高点まで引き上げ、理不尽の箱庭に穴を開けるための刃となる。 神が不在の、静寂に満ちたこの「空白地」で、彼らは人であることを止め、世界を救うための、あるいは愛を奪い返すための「凶器」へと研ぎ澄まされていく。
「……見ていなさい、理不尽の化身たち。次は、一方的に編まれるだけの糸ではないわよ」




