第148話:不協和音の聖域、慈悲という名の冒涜
1. 意味の剥離、大天の深淵
亀裂を超えた先。そこには空も大地も存在しなかった。 視界に広がるのは、白銀の虚空に無数に走る「糸」の激流。一本一本の糸が誰かの人生であり、一国の歴史であり、それらが強引にねじ曲げられ、交差させられることで、この世界の景色(布)が形作られている。
「……これが、世界の裏側。俺たちが『運命』と呼んでいたものの正体か」
蓮はユリアの肩を抱き寄せ、足元に流れる「意味の奔流」を見下ろした。ここには重力も空気もない。ただ神々が紡ぐ「概念」が満ちている。
「蓮様、見てください。あちらの糸が……」
ユリアが指差した先では、数本の糸が無理やり結び付けられ、摩擦で火花を散らしている。それは、どこかの街で起きている理不尽な戦争か、あるいは悲恋の結末を神々が「面白半分に」書き換えている様だった。
2. 傲慢なる「監視」と、隠しきれない執着
「ふん。ただの機織り小屋ではないか。神などというから期待したが、案外と世俗的な趣味だ」
傲慢は鼻を鳴らし、蓮の背後三歩の距離を維持しながら歩く。その視線は鋭く、蓮の右腕の脈動から、歩幅、僅かな呼吸の乱れに至るまで、執拗なまでに「観測」し続けていた。
(……脈拍、上昇。虚無の残滓による汚染、深度4。回復傾向にあるが、依然として神経系に微細な震えが見られるな……)
傲慢の脳内では、蓮のステータスが常にリアルタイムで更新されている。 かつて復讐のために蓮の所在を追い続けた日々。その過程で身につけた「神崎蓮追跡技術」は、今や無意識のうちに作動していた。
「おい、傲慢。さっきからジロジロ見すぎだ。そんなに俺に復讐したいのか?」
蓮が怪訝そうに振り返ると、傲慢は一瞬だけ表情を強張らせ、すぐに不敵な冷笑で上書きした。
「……勘違いするな。私が貴様を注視しているのは、貴様がいつ、どのタイミングで私に首を差し出すのに最適な『熟成』を迎えるかを見定めているだけだ。貴様の健康状態を把握しているのは、あくまで万全の状態で殺すため。……決して、貴様の背後が隙だらけで心配だなどという、低俗な理由ではない!!」
「……誰もそこまで言ってねえよ。まあいい、後ろは任せたぞ」
「任せるな、と言っているだろうが!!」
傲慢は苛立ち紛れに黒紫の雷鳴を散らすが、その足取りは決して蓮の「保護圏内」から外れることはなかった。
3. 慈悲深き神、エレオノーラ
「――ああ、可哀想に。迷える小羊たちが、こんな奈落まで堕ちてきてしまうなんて」
不協和音の中に、不意に清らかな歌声のような声が響いた。 糸の奔流が分かれ、そこから一人の女神が姿を現した。千の目を持つ衣を纏い、その瞳すべてから慈愛の涙を流している。大天に住まう数少ない「優しい神」、慈悲の神エレオノーラ。
「アルマ、愛しい子。貴方が失った『未来』を嘆く声は、ここまで届いていましたよ。だから、私が救ってあげましょう」
彼女が手を差し伸べると、周囲の不協和音が和らぎ、蓮たちの体を温かな光が包み込む。だが、アルマはその光を冷たく拒絶し、糸を構えた。
「エレオノーラ。貴方の『慈悲』が、どれほど人を絶望させるか忘れたわけじゃないわ」
「あら、どうして? 私はただ、これ以上貴方たちが傷つかないように、その魂を永遠に美しい『静止した糸』として、私のコレクションに加えてあげようと言っているのよ。……死も、別れも、老いも存在しない、完璧な救済。これ以上の慈愛があるかしら?」
エレオノーラの微笑みは純粋だった。純粋すぎて、そこには「人間の意思」を尊重するという概念が欠落していた。彼女にとっての救済とは、人間を「標本」として永久保存することと同義。アレックスの簒奪と、本質的には何も変わらない理不尽であった。
4. アルマの逆鱗
「……それが、貴方たちのやり方ね。いつだって自分たちの描く『図案』の美しさのために、私たちの熱量を奪っていく」
アルマが赤い糸を激しく弾く。 「私の欲しい『終わり』は、貴方の棚に飾られることじゃない! 愛する人と共に枯れ、土に還るという、残酷で、けれど美しい時間の流れそのものなのよ!!」
アルマの咆哮に呼応するように、蓮の右腕が黒い虚無の炎を上げ、傲慢が変質させた七大罪の影を背後に現出させた。
「慈悲だか何だか知らねえが……。俺たちは、糸じゃない。この『布』をズタズタに切り裂いてでも、自分の足で行きたい場所へ行く。……行くぞ、傲慢、ユリア!!」
「命令するなと言っている! ……だが、あの神の『所有欲』は、私の傲慢さを刺激して止まないな。……消え失せろ、慈悲の亡者め!!」
大天の第一層。慈悲という名の冒涜を振りかざす女神に対し、傲慢なる人間と、人間以上の傲慢さを抱く罪が、真っ向から牙を剥いた。




