第136話:虚無の器、簒奪の再誕
1. 精神の深淵、亡霊の叱咤
白銀の虚無が、蓮の意識を飲み込んでいく。右腕から流れ出す「定義」の奔流は、もはや彼自身の輪郭を保つことすら許さない。その混濁した視界の先に、一人の女が立っていた。
かつての黒髪をなびかせ、凛とした佇まいで俺を睨みつける、ユリア。それは俺が無理やり生かし続けている「抜け殻」ではなく、俺の記憶の奥底に刻まれた、誇り高き騎士としての彼女の幻影であった。
「情けない男。いつまで私の死を、自分のエゴで汚し続けるつもりですか」
幻影のユリアの声は、冷徹な刃となって蓮の胸を貫く。
「神を殺し、世界を掴み取った男が、死体の温もりに縋り付いて自分を削るなど……。そんな無様な姿を見るために、私は貴方の剣になったのではありません。目を覚ましなさい、神崎蓮。貴方が今、守るべきものは私という過去ではないはずだ」
鋭い平手打ちが、蓮の魂を叩き起こす。痛覚はない。だが、その叱咤は、泥濘に沈んでいた彼の理性を強引に引きずり出した。
2. 現実の残響、卑怯者の謝罪
虚無の防壁の向こう側から、掠れた叫びが届く。
「蓮! 戻ってきてよ、蓮!!」 「……蓮さん。貴方が消えるのを、ただ見ていることなんてできません……!」 「計算……不可能です。貴方がいなくなれば、この新世界を誰が定義するというのですか!」
リサの咆哮、フィーネの祈り、セラフィナの悲鳴。 生者たちの熱い吐息が、蓮の凍りついた右腕を溶かしていく。ユリアという死者に囚われ、現実から目を背けていた己の卑怯さが、熱を帯びた恥辱となって全身を駆け巡った。
蓮は、腕の中で崩れかけていた白髪のユリアを、静かに、しかし決然と大地へ横たえた。
「……すまない。待たせたな」
掠れた声。それは、自分を犠牲にすることで責任を果たそうとしていた王の、あまりにも遅すぎた謝罪であった。蓮は立ち上がる。右腕の黒い痣は消えない。だが、その目はもはや、死者の幻影を追ってはいなかった。
3. 黄金の再誕、裏切り者の執着
その時、閉ざされたはずの蒼穹が、再び黄金の光に焼き切られた。
アルマが封印し、蓮が虚無で呑み込んだはずの「簒奪」の理。それが、アレックスという男の底なしの野心と結びつき、より醜悪な、より巨大な呪いとなって顕現した。 空を覆うのは、無数の黄金の歯車と、かつてのアレックスの貌を模した巨大な肉の塊。
「……神殺しの英雄。お前の虚無も、私の欲望を呑み込むには小さすぎたようだな」
空を揺らす重低音。アレックスは、自ら標本にした民たちの魂を燃料とし、神の残骸を取り込んで「新世界の支配者」として再誕していた。大地を黄金の結晶が侵食し、逃げ惑う民たちを無慈悲に「静止」させていく。
「アレックス。お前との決着を、あやふやにしたままにしたのが、俺の最後のミスだ」
蓮は、折れた剣の柄を握りしめた。右腕の虚無が、アレックスの簒奪に呼応して、黒い業火を吹き上げる。
4. 救世主の静観、アルマの天秤
戦場の中心で、白髪のアルマが静かに佇んでいた。 彼女は蓮を助ける素振りも見せず、かといってアレックスに加担するわけでもない。ただ、指先から伸ばした透明な糸を、崩壊する世界の四隅に繋ぎ止め、何事かを観測し続けている。
「……蓮。貴方は自分の記憶を捨てて死者を救おうとした。アレックスは他人の命を奪って神になろうとした」
アルマの蒼い瞳には、光が宿っていない。だが、その言葉には、新世界の全権を握る者だけが持つ、冷徹な重みがあった。
「私は、この世界の『存続』だけを願う。……勝った方を、私は新しい世界の理として編み込むわ。それが、貴方でも、あの簒奪者でもね」
彼女が味方なのか、あるいは別の絶望への序曲なのか。今の蓮には知る由もない。
「……好きにしろ、アルマ。俺はただ、あいつを地獄に叩き落とす。今度は、塵一つ残さずにな」
蓮は地を蹴った。 漆黒の虚無が、黄金の天を切り裂く。




