第134話:断罪の右腕、救済の終わり
俺の右腕が、内側から爆ぜるような熱を帯びる。神を殺した時のような全能感ではない。もっと暗く、冷たく、泥のように重い執念が、血管を逆流して拳に集まっていく。
「……蓮、様……やめて……」
ベッドの上で、砂を吐き出しながらユリアが弱々しく手を伸ばす。彼女の指先はすでに形を失いかけ、俺の服に触れたそばから、サラサラと音を立てて崩れていく。 それを見ていることなんて、到底できなかった。
「黙ってろ、ユリア。お前がどんな理屈で生かされていようが、俺には関係ない。……こんな血生臭い糸に縛られたまま、他人の命を啜って生きるなんて、お前には似合わないんだよ」
俺はアルマに向かって踏み出した。 彼女の体から溢れ出す無数の赤い糸が、生き物のようにうねり、俺の全身に絡みつく。糸が皮膚に触れるたび、そこから俺の記憶や感情が吸い出されるような、不快な寒気が走った。
「来なさい、蓮。私の救済を……この呪われた機織りを、貴方の虚無で終わらせて」
アルマは逃げなかった。ただ、自らの肉体を構成する「縫い目」を剥き出しにし、死者の叫びを纏った糸の渦の中心で、聖母のような慈悲を湛えて立っていた。
「定義……いや、そんな言葉遊びはいらない。消えろ。この世界の『帳尻合わせ』も、アルマ、お前の自己犠牲も……全部まとめて、俺が否定してやる!」
俺は右腕を振り抜いた。 漆黒の虚無が、物理的な質量を持って空間を薙ぎ払う。 ガィィィン、という、金属が軋むような、あるいは生身の神経を断ち切るような、凄惨な音が響き渡った。
糸が一本、また一本と弾け飛ぶ。そのたびに、アルマの喉から血の混じった悲鳴が漏れた。 彼女の肩が裂け、そこから古い布切れと、かつての村人たちの怨念が黒い霧となって噴き出す。だが、俺は止まらなかった。ユリアに繋がった「死のバイパス」を、一本残らず、力任せに引き千切った。
「あ、が……っ!!」
最後の太い糸が断たれた瞬間、アルマの体が糸の束から解き放たれ、人形のように地面に転がった。 同時に、テントを、そして開拓地を覆っていた蒼い光が、ガラスが砕けるような音を立てて消失した。
静寂が訪れる。 だが、それは救いの静寂ではなかった。
「……蓮、空が……」
リサの震える声に、俺は顔を上げた。 アルマという「柱」を失ったことで、この世界の偽りの安定が完全に崩壊したのだ。 亀裂の走っていた蒼穹は、今や真っ黒な泥のような空へと変質し、そこから巨大な「黄金の腕」が、地上を掴み取ろうと降りてきていた。
「……アレックス……」
俺は、意識を失ったアルマの傍らで、吐き捨てるようにその名を呼んだ。 アルマが封印していたはずの「簒奪」の呪いが、救済の糸が切れたことで解放されたのだ。
「ゲホッ……ハァ、ハァ……。蓮、様……?」
ベッドの上で、ユリアが上体を起こした。 その瞳から漆黒の淀みが消え、元の澄んだ色が戻っている。だが、彼女の体は驚くほど白く、透き通っていた。アルマの糸による「命の補給」を絶たれた彼女は、今、自らの魂を燃料にして、消えゆく蝋燭のように灯っているに過ぎない。
「……終わったよ、ユリア。もう、誰の犠牲もいらない」
俺は彼女を抱きしめた。 その感触は、今にも壊れそうなほどに脆い。だが、確かに彼女自身の鼓動が、俺の胸を叩いていた。
「蓮……。私、嬉しいです。……やっと、一人の女の子として、貴方の隣にいられる気がして」
ユリアの微笑みは、夜明け前の星のように静かだった。 だが、その背後で、アレックスの残滓が天を覆い、新世界を再び「標本箱」へと変えようと蠢いている。
神を殺し、救済を断ち切った。 後に残ったのは、絶望的なまでに不完全な、剥き出しの「今」だけだ。
「リサ、フィーネ、セラフィナ。……アルマを連れて、方舟の中へ逃げろ」
俺は、折れたガイウスの剣を手に取り、立ち上がった。 右腕の痣は、今や肩まで広がり、俺の命そのものを虚無に変えようとしている。
「あいつの裏切りの続きを、ここで終わらせる」




