第132話:救済の代償、泥濘に埋もれた機織り歌
空の亀裂から降り注ぐ白い塵を見つめながら、アルマの瞳は焦点を取り戻せないまま、遠い記憶の底へと沈んでいた。彼女が抱える「救済」という名の権能。それは神から授かった奇跡などではなく、凄惨な泥濘の中で産声を上げた、呪いに等しい執着の産物だった。
数百年、あるいはもっと昔のこと。彼女がまだ「アルマ」という名すら持たない、ただの村娘だった頃の話だ。
中世の面影を残すその村は、飢饉と、そして名もなき疫病に侵されていた。乾いた土からは緑が消え、代わりに腐乱した家畜と人間の臭いが立ち込めていた。教会の神父は「神の試練」だと説いたが、その神父自身も、喉をかきむしり、どす黒い血を吐きながら、数日前に共同墓地の穴へ放り込まれた。
村人たちの目は、飢えと恐怖で濁っていた。石灰を撒いても追いつかない死体の山。その傍らで、幼い彼女は「糸」を紡いでいた。
彼女の家は、村で唯一の織物屋だった。だが、羊はとうに死に絶え、綿も尽きた。彼女に課せられた役目は、死んだ者たちのボロ布を解き、それを繋ぎ合わせ、生き残った者のための「埋葬布」を縫うことだった。
「救いなど、どこにもない……」
そう嘆く母親の指は、連日の作業で爪が剥がれ、膿んでいた。村の掟は残酷だった。疫病で死にかけた者は、まだ息があっても墓穴に放り込まれる。穴の底から聞こえる、土を掻く音と、家族を呼ぶ掠れた悲鳴。それを聞きながら、彼女は針を刺し続けた。
ある夜、狂気に駆られた村人たちが彼女の家になだれ込んできた。 「織り手の娘なら、命も繋げるはずだ」 「俺の息子を、死から縫い戻せ」
彼らが差し出したのは、すでに腐敗が始まり、肌が剥がれ落ちた子供の死体だった。拒めば殺される。彼女は震える手で、自分の髪を切り、それを糸として針に通した。
生々しい肉の感触。腐った脂肪の滑り。 彼女は泣きながら、死者の傷口を縫い合わせた。一針ごとに、自分の爪が剥がれ、指先から鉄の匂いのする血が溢れた。その血が髪の糸を赤く染め、死体と彼女の指を物理的に繋いでいく。
その時、異変が起きた。 彼女の血を通じ、死者の絶望と、死の冷たさが、彼女の体内に逆流してきたのだ。 死体は動かなかった。だが、死体が持っていた「死の運命」だけが、彼女の因果の中に編み込まれてしまった。
「……あぁ、これなら、死ななくて済む」
口走ったのは、彼女だったのか。それとも、彼女に取り憑いた死者の残響だったのか。 彼女は自分の皮膚を裂き、そこに死者の指を、耳を、他人の生への執着を、一つ一つ縫い付けていった。
自分の体を苗床にして、他人の死を「肩代わり」する。 それが、彼女が初めて覚えた救済の形だった。
村は救われなかった。結局、全員が死に絶えた。 だが、山のような死体の中で、たった一人、全身を「赤く染まった糸」で縫い合わされた少女だけが、心臓を動かし続けていた。 彼女の体内には、数千人の死者の呪詛と、生きるための未練が、極彩色の糸となって渦巻いていた。
「蓮、私たちがしていることは、あの時の私と同じなのよ」
アルマの掠れた声が、現実の荒野に響く。 彼女が編み上げたこの新世界。それは、神に殺されるはずだった人類という「死体」を、彼女自身の命を糸にして無理やり縫い合わせた、巨大な埋葬布に過ぎない。
「私は救いたかった。でも、無理やり繋ぎ止めた命は、いつか腐敗を始める。……見て。私の糸が、赤く変質し始めているわ」
アルマの指先から、一本の細い糸が伸びていた。 それは、かつて彼女が死体を縫い合わせた、あの忌まわしい銅の色。 そしてその糸の先は、俺の背後で眠るユリアの影へと、深く、深く食い込んでいた。




