第131話:摩耗する日常、砂の城の微熱
朝食のスープを啜る音が、やけに耳に刺さる。 焚き火の爆ぜる音、リサがパンをかじる音、セラフィナが資料をめくるカサついた音。すべてが日常の音のはずなのに、俺の胃の奥には、鉛を飲み込んだような重苦しさが居座っていた。
「……蓮、スープ冷めちゃうよ? ほら、あーんしてあげようか?」
リサが茶化すようにスプーンを差し出してくる。耳をぴょこぴょこと動かし、いつもの明るい笑顔。だが、その瞳の奥には、俺の右腕に隠された「痣」を嗅ぎ取ろうとする、獣特有の鋭い不安が張り付いていた。
「……いいよ、自分で食う」
俺は素っ気なく答えて、スプーンを口に運ぶ。 味がしない。 正確には、味覚はあるはずなのに、脳がそれを「栄養」として認識することを拒絶しているようだった。
ふと視線を落とすと、俺が握っている木製のスプーンの先が、わずかに白く、粉を吹いたように脆くなっている。神の「滅菌」の塵。それが、この新世界のあらゆる物質を、音もなく砂へと変え始めていた。
「……ねえ、蓮さん。昨日、西側の開拓区で、少し変なことがあったのです」
フィーネが、祈るように組んでいた手をほどき、静かに切り出した。彼女の透き通るような肌には、昨日まではなかった薄い「灰色の染み」が浮かんでいる。
「開拓に使っていた道具が、一晩で全部砂になったそうです。それだけじゃない……そこにいた人たちの、数人の『名前』を、誰も思い出せなくなっている。まるで、最初からいなかったみたいに」
食卓が凍りついた。 セラフィナが震える指で眼鏡を押し上げ、手元の計算機を叩く。だが、その画面には「ERROR」の文字が虚しく明滅するだけだった。
「物理法則が、計算を拒否しています。この世界には、もう『保存』という概念が残っていない……。使えば減る。触れれば壊れる。そして、壊れたものは二度と修復できない。これが、神の管理を外れた不純物たちが辿る、熱力学的な末路だと言うのですか?」
セラフィナの声は、悲鳴に近い。 論理で世界を測ってきた彼女にとって、この「理不尽な消失」は、死よりも恐ろしい屈辱なのだろう。
「……みんな、大丈夫だよ」
沈黙を破ったのは、ユリアだった。 彼女は俺の右手に、自分の両手をそっと重ねた。その手のひらは、驚くほど熱い。まるで、自分の命を燃やして、俺の冷え切った虚無を温めようとしているみたいだ。
「世界が壊れていくなら、その都度、私たちが作り直せばいいだけです。蓮様が神様を倒してくださったのは、私たちが『自分の手で』苦労するためだったはずですから。……そうでしょう?」
ユリアの微笑みは、残酷なほどに純粋だった。 彼女は気づいている。自分の体力が日に日に落ちていることも、その温もりが「命の削りカス」であることも。それでも彼女は、俺のために、一人の「女」として、この砂の城の上でダンスを踊り続けている。
俺は、重ねられた彼女の手を握り返した。 だが、その感触は、どこか遠い。 自分の皮膚が、彼女との境界線を失い、徐々に世界の「外」へと溶け出していくような感覚。
「……ああ。そうだな。ユリアの言う通りだ」
俺は嘘をついた。 空の亀裂は広がり、そこから漏れ出す「赤い糸」が、アルマの背後で巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされている。 そして、その糸の先端が、今まさに俺の足元にまで伸びてきていることを、彼女たちには言えなかった。
神に勝ったんじゃない。 俺たちは、ただ「死に方」を選ぶ権利を勝ち取っただけだ。
「蓮……手が、冷たいよ」
リサが不安げに俺の袖を引く。 俺はその手を振り払うことができず、ただ、いつ崩れるとも知れないこの温かな地獄を、少しでも長く繋ぎ止めようと、力一杯彼女たちを抱き寄せた。
剥がれ落ちる蒼穹。降り積もる白い塵。 俺たちの「日常」が、砂の音を立てて崩壊し始めるまで、あとわずか。




