第130話:綻びる蒼穹、敗北の残り香
昨夜の熱が嘘のように、朝の空気は冷淡だった。テントの薄い布越しに差し込む光は、かつての神聖な白ではなく、どこか病的な黄色を帯びている。
俺の腕の中では、まだユリアが微かな寝息を立てていた。リサの尻尾が俺の足に絡まり、反対側ではフィーネが俺の服を握りしめたまま、眉を寄せて眠っている。セラフィナは俺の背中に顔を埋めたまま動かない。彼女たちの体温は確かにここにある。だが、その温もりを感じるたびに、言いようのない不安が胸の奥を逆なでした。
ふと、自分の右腕に目をやる。 神を殺した漆黒の虚無。かつては万物を消し去る絶対の力だったそれが、今はただの、どす黒い痣のような模様に成り果てていた。感覚が、ない。単に痺れているのとは違う。まるで、自分の肉体の一部がこの世界から「拒絶」されているような、奇妙な剥離感。
テントの外へ出ると、そこにはさらに残酷な光景が広がっていた。
「……なんだ、これは」
俺の呟きは風にかき消された。 アルマが編み上げたはずの美しい蒼い空。その一角に、ノイズのような「亀裂」が走っていた。そこから見えるのは宇宙の闇ではなく、無機質で冷酷な、神の機構の残骸。それは、この世界が完璧に再構築されたのではなく、ただ壊れた部品を寄せ集めて無理やり糊付けしただけの「砂上の楼閣」であることを突きつけていた。
足元の水溜まりを覗き込む。水面には俺の顔が映っている。だが、一瞬だけ、その顔がボロボロと崩れ、灰色の石像へと変わる錯覚に陥った。
「蓮様……見ては、いけません」
いつの間にか後ろに立っていたアルマの声は、枯れ木のようだった。 白くなった彼女の髪は、朝日に透けて消えてしまいそうなほど細い。彼女の視線の先には、空の亀裂から降り注ぐ「白い塵」があった。それは雪ではない。神がかつて行っていた、不純物を消し去るための「滅菌」の残滓だ。
「私たちは神を殺した。けれど、神が作った『生存の理』まで殺してしまったのよ。この世界は、もう自浄作用を失っている。私たちが生きていること自体が、この世界にとっては致命的なエラーなの」
アルマの言葉が、冷たい楔となって俺の心臓を貫いた。 神は負けたのではない。ただ、俺たちが自分勝手に望んだ「自由」という名の地獄に、俺たちを放り出しただけなのだ。神の管理下でなければ、人間は呼吸をすることさえ、世界の毒となる。
「……それが、お前の言った『赤い糸』の正体か」
「ええ。私が編んだ糸は、もう限界。遠くないうちに、この空は完全に剥がれ落ちるわ。その時、アレックスが遺したあの呪いが……救済という名の、本当の絶望を連れてくる」
アルマはそう言うと、無理に笑ってみせた。その笑顔は、かつて俺たちを導いた女神のそれではなく、死を待つ囚人のような、乾いた微笑だった。
テントから、目をこすりながらユリアたちが出てくる。 「蓮様、おはようございます。……どうかしましたか? そんなに険しい顔をして」 ユリアが俺の顔を覗き込み、心配そうに手を重ねてくる。その手の柔らかさと温かさが、今は何よりも恐ろしい。この温もりが、いつかあの「滅菌」の塵に変わってしまうのではないか。
俺はユリアを強く抱きしめた。折れそうなほど、必死に。 「……なんでもない。ただ、お前の顔をよく見ておきたかっただけだ」
「もう、大袈裟ですよ。ずっと隣にいると言ったじゃないですか」 ユリアは照れくさそうに笑い、俺の胸に頭を預ける。 リサやフィーネ、セラフィナも、異変に気づかぬふりをして、俺たちを囲んで他愛のない冗談を言い合っている。
だが、俺には聞こえていた。 空の亀裂から漏れ出す、不気味な、歯車が噛み合わないような軋み音。 そして、アルマの背後に揺らめく、血のように赤い、禍々しい因果の糸を。




