第129話:泥濘の微睡み、剥き出しの体温
朝の空気はひどく冷たく、湿っていた。神が管理していたあの完璧な温度調整など、どこにもない。地面を蹴れば泥が跳ね、風が吹けば荒野の乾いた砂が頬を叩く。それが、アルマが俺たちに与えた「生」という名の現実だった。
方舟から降りた民たちは、混乱の真っ只中にいた。誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが空っぽになった腹を抱えて震えている。かつての「王」としての俺を拝む者はもういない。彼らにとって俺は、自分たちをこんな不毛な大地へ引きずり下ろした元凶か、あるいは自分たちと同じ泥まみれの男に過ぎなかった。
「蓮様、またそんな顔をして。反省はもう、昨日の夜で終わりにしたはずですよ」
隣で薪を運んでいたユリアが、いたずらっぽく笑って俺の脇腹を突いた。騎士団長ガイウスの娘としての凛々しさは残っているが、その瞳はかつてのような義務感で凍りついてはいない。彼女は今、自分の意志で俺の側に立ち、自分の意志で怒り、そして笑っている。
その日の夜、急造のテントの中で、俺たちは一時の休息に耽っていた。
「ねえ、蓮。ちょっとこっち向いてよ」
そう言って俺の首にしがみついてきたのはリサだった。彼女の獣の耳が、甘えるように俺の顎をくすぐる。神の眷属と戦っていた時の殺気は微塵もなく、ただ一人の少女として俺の体温を求めている。
「リサ、あまり蓮さんを困らせないでください。……と言いつつ、私も便乗させていただきますけれど」
そう言って、フィーネが俺の反対側の腕を静かに抱き込んだ。聖女の法衣を脱ぎ捨て、簡素な麻の服に身を包んだ彼女の肌からは、柔らかな石鹸の香りがした。
「……非論理的な密着度ですね。ですが、この狭い空間において熱源を共有することは、生存戦略として極めて正しい判断と言えます」
屁理屈を並べながらも、セラフィナが俺の背中にぴったりと身を寄せ、その細い指先で俺の服の裾を握りしめている。
四人の、それぞれに異なる重みと熱。かつての俺なら、これを弱点だと切り捨てたはずだ。だが今は、この煩わしくてたまらない重なり合いが、俺を生に繋ぎ止める唯一の錨に思えた。
「……おい、ユリア。お前まで乗るな。狭いだろう」
「いいえ、蓮様。私は貴方の剣であり、盾であり……そして今は、貴方の隣で眠る女なのですから」
ユリアが俺の胸元に顔を埋め、深く息を吐いた。彼女の吐息が、シャツ越しに直接俺の心臓に届く。
俺たちは、神を殺した。アレックスに裏切られ、アルマの犠牲によってこの大地を得た。これから先、どんな困難が待ち受けているかは分からない。アルマのあの不吉な予言も、いつか牙を剥くのだろう。
けれど、今この瞬間、俺の腕の中で微睡む少女たちの柔らかな熱だけは、何者にも奪わせない。
泥にまみれ、傷つき、いつか死ぬ。 その当たり前の絶望が、今はどうしようもなく愛おしかった。
「蓮……大好きだよ」
リサの消え入るような囁きに、俺はそっと彼女たちの肩を抱き寄せた。新しい世界の夜は長く、そしてどこまでも静かだった。
次の一歩を踏み出すのは、日が昇ってからでいい。 今はただ、この剥き出しの体温の中に沈んでいたかった。




