第128話:再編の揺籃、泥濘に灯る情愛
1. 荒野の産声、民の混迷
アヴァロン・ギアという名の「方舟」が、アルマの編み上げた新生の大地にその巨体を沈めてから数刻。ハッチが開かれ、数千人の避難民が恐る恐る外の世界へと足を踏み出した。
そこに広がっていたのは、神が約束した白銀の輝きでも、かつての王国のような整然とした街並みでもない。ただただ広く、湿った土の匂いが立ち込め、不規則な岩肌が剥き出しになった「未完成の荒野」であった。
絶望して泣き崩れる者、怒りに任せて泥を蹴り上げる者、あるいは生き残った幸運を神ならぬ隣人と分かち合い、抱き合う者。混沌とした感情の渦が、冷え切っていた大気を人間の熱で塗り替えていく。蓮は、王冠を捨てたその足で民の中へと歩み寄った。かつての冷徹な「定義」ではなく、震える老婆の手を握り、泥にまみれた子供の頭を撫でる。その手は、もはや絶対者ではなく、一人の「隣人」としての温もりを宿していた。
2. 束の間の静寂、焚き火の傍らで
夜が訪れる。神の監視という名の不気味な光が消えた空には、不揃いで瞬きさえも不器用な、本物の星々が輝いていた。
方舟の影、焚き火を囲む蓮たちの周りには、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。ユリアは蓮の膝に頭を預け、シチューの入った木皿を大切そうに抱えている。
「……蓮様、これ、少し味が薄い気がします」
不意に漏れたユリアの不満。それは、かつての「完璧な騎士」としてはあり得ない、あまりにも人間らしく、愛おしい我儘であった。蓮は苦笑いしながら、彼女の髪を指で梳く。
「贅沢言うな。これでもカイルが必死にかき集めた材料なんだぞ」
「ふふ、そうですね。でも、蓮様が作ってくださるなら、どんな毒味でも喜んでお受けします」
そう言ってユリアは、蓮の腕にぎゅっと抱きついた。彼女の体温、呼吸、そしてわずかに香る石鹸の匂い。黄泉の淵で見た幻ではない「現実」の重みが、蓮の胸を心地よく圧迫した。
3. 三人の少女、溢れ出す独占欲
「ちょっと、ユリアだけずるい! 私だって、蓮の隣、ずっと我慢してたんだから!」
我慢の限界を迎えたリサが、蓮の反対側の腕に強引に潜り込んできた。獣の耳を赤く染め、蓮の肩に顔を埋める。
「……蓮、変な匂い。神様の血じゃなくて、泥と……なんか、安心する匂い。もう、どこにも行かないよね? 命令じゃなくて、私の隣にいてくれるよね?」
「ああ、約束する。もう逃げないし、お前たちを道具にするような真似もしない」
蓮がリサの背中を優しく叩くと、彼女は喉の奥で小さく鳴いた。その横で、フィーネが少しだけ羨ましそうに、しかし慈愛に満ちた微笑みを浮かべて蓮を見つめている。
「蓮さん。貴方が守り抜いたこの命、大切に使いなさいね。……私への『お礼』も、これからたっぷり時間をかけて、一生分払っていただきますから」
フィーネは蓮の耳元でそう囁き、そっと彼の手の甲に唇を寄せた。聖女の祈りではなく、一人の女としての情熱が混じった、熱い誓い。
4. 論理を超えた、甘やかな夜
「……非合理ですね、皆さん。体温の共有は生存率を高める手段に過ぎませんが……」
セラフィナが眼鏡の奥の瞳を潤ませながら、膝を抱えて呟く。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の体は磁石に引かれるように蓮の背中へと寄り添っていた。
「ですが、私の計算によれば、今の蓮さんの心拍数は通常時の15%増。……私の、この胸の鼓動も、同じだけ加速しています。これは、物理的な干渉だけでは説明のつかない……愛、という名のバグなのでしょうね」
蓮は、自分を取り囲む四人の少女たちの重みを感じながら、深く息を吐いた。 かつては「不純物」だと切り捨てようとした、この煩わしくて温かい感情。 神を殺し、世界を再構築した果てに辿り着いた、あまりにも不格好で、しかし何物にも代えがたい「幸福」の形。
「……みんな。ありがとう」
蓮の呟きは、夜風に溶けて消えた。 だが、重なり合う吐息と、泥濘の地で交わされる抱擁は、神が作ったどんな楽園よりも深く、彼らの魂を繋ぎ止めていた。
5. 零日目の続き
アルマが遺した不穏な予言も、アレックスの裏切りの残滓も、今この瞬間だけは遠い世界の出来事のように思えた。 明日からは、新しい土地を耕し、寝床を作り、泥にまみれて生きていくための「日常」が始まる。 王ではない、一人の男としての、果てしなく続く愛の闘争。
夜明けまであと数刻。 蓮は、腕の中で眠り始めたユリアと少女たちの温もりに包まれながら、初めて安らかな眠りへと落ちていった。




