第125話:黄泉(よみ)の拒絶、泥濘(でいねい)に咲く産声
崩壊する天界。因果の糸が解け、世界が再構築という名の巨大な渦に呑み込まれていく。白銀の虚無が全てを塗り潰す中、蓮はただ一点、ユリアの魂が繋ぎ止められた「聖域」の深淵へと己を投じた。
神を殺し、理を砕いた代償はあまりにも重い。新生する世界にとって、死したはずのユリア、そして禁忌を犯した蓮は、排除されるべき不純物。そこは黄泉の国にも似た、生者と死者の境界であった。
蓮の視界を、かつての思い出が走馬灯のように過る。しかし、それらは美しき記憶ではない。泥を啜り、嘘を重ね、彼女を道具として使い潰した「醜悪な真実」が、腐臭を放つ亡者の群れとなって蓮の足首に縋り付く。
「……行かせない。彼女は、この死せる世界の礎だ」
虚空から響くのは、神の残滓か、あるいは蓮自身の罪悪感か。前方には、かつての姿そのままに、静かに横たわるユリアがいた。だが、その肌は生者のそれではなく、冷徹な理を象徴する銀の鱗に覆われ始めている。
蓮は彼女を抱き上げた。その瞬間、背後で凄まじい轟音が鳴り響く。新生する世界の太陽が昇り始め、旧き理が崩落していく。この境界から脱出するには、ただ一つの禁忌を守らねばならない。
「決して、彼女の顔を覗き込んではならない。彼女が『何』に変質したかを知れば、新生の理がお前たちを永遠に分断するだろう」
どこからか聞こえる警告。それは、愛する者の変わり果てた姿を見て絶望し、永遠の別離を迎えたイザナギの悲劇をなぞらせようとする世界の悪意に他ならない。
蓮は前だけを見つめた。背負ったユリアの体は、時折、石のように重くなり、次の瞬間には陽炎のように軽くなる。背中からは時折、聞いたこともないような異形の鳴き声や、彼女の声を模した凄惨な呪詛が聞こえてくる。
「蓮様……なぜ、私を放してくれないのですか。私は、もう貴方の知るユリアではないのに」
背後から届く、最愛の者の震える声。振り返り、その瞳を見つめ、大丈夫だと抱きしめたい衝動が蓮を焼き焦がす。しかし、蓮は血が出るほど唇を噛み締め、光の出口へと足を止めなかった。
振り返れば、そこには腐り果てた記憶と、神の部品へと成り果てた彼女の「真実」があるのかもしれない。だが、今の蓮が信じるのは、視覚で捉える真実などではない。腕の中に伝わる、微かな、しかし確かに刻まれる「生」への拒絶と、それを上書きしようとする己の執念のみ。
出口まであと数歩。背中の重みが、突如として消えかかる。背後から冷たい風が吹き抜け、彼女が奈落へと引きずり戻されようとする感触が伝わった。
「ユリア……俺は、お前が何になろうと構わない。神の部品でも、呪いの人形でも。俺が、お前を『人間』として愛し抜く。それが、この世界の新しい理だ!」
蓮は振り返ることなく、虚空に向かって吠えた。己の右腕、漆黒の虚無を全開放し、新生する世界の「白」に、ドロドロとした人間の「情愛」という名の黒い墨を叩きつける。
光が弾けた。
意識が遠のく中、蓮は最後に、背中の彼女が自分を抱きしめ返す力を感じた。それは、理に適った復活などではない。神さえも予期せぬ、卑怯で、自分勝手で、あまりにも醜悪な執着が手繰り寄せた、泥だらけの奇跡。
気がついた時、蓮は草原にいた。 隣には、静かに眠る一人の少女。 蓮は恐る恐る、その顔を見つめた。
そこにいたのは、銀の鱗に覆われた怪物でも、神の部品でもない。 頬に微かな土汚れをつけ、不器用そうに眉を寄せた、かつての、そして何者でもない「一人の女の子」としてのユリアの姿。
世界は再構築された。 だが、そこは神が望んだ楽園ではない。 傷つき、汚れ、失ったものは戻らない。 それでも、確かに鼓動を刻む「生」がそこにはあった。
蓮は震える手で、彼女の頬を撫でた。 ユリアの瞳がゆっくりと開く。 その瞳に、かつての忠誠や、失われた記憶があるのかは分からない。 ただ、彼女は蓮を見つめ、小さく、本当に小さく微笑んだ。
「……お腹、空きましたね。蓮様」
その言葉に、蓮は声を上げて泣いた。 王ではなく、救世主でもなく、ただ一人の、あまりにも情けない男として。
残り、零日。 世界は終わった。 そして、泥臭くて愛おしい、彼らの「日常」が今、始まった。




