第117話:魂の安息、卑怯者の決別
1. 虚無の囁きと、泥濘の誘惑
ユリアが息を引き取った静寂の中、蓮の漆黒の右腕が不気味に脈動を始めました。脳内に響くのは、己の絶望が作り出したのか、あるいは右腕に宿る「無」の意志か、冷酷で甘い誘惑の声でした。
「……王よ。……愛を失い、己の無能に絶望する惨めな男よ。神に願っても無駄だ。あいつは『在るもの』しか救わない。だが……俺は『無いもの』を定義する力。……お前が望むなら、その死体に偽りの命を流し込み、永遠に側に置く操り人形にしてやろうか?」
蓮は顔を上げました。瞳には狂気が宿り、その誘惑に飛びつこうとしました。 彼女を失う恐怖。独りになる絶望。それらを埋めるためなら、彼女を意志のない人形に変えてでも側に置きたい。その「卑怯で自分勝手なエゴ」が、蓮の理性を飲み込もうとしていました。
2. 遺言の残響
蓮は漆黒の右腕をユリアの胸元に当て、禁忌の術式を展開しようとしました。 しかし、その指先が彼女の冷たい頬に触れた瞬間、彼女が最期に遺した言葉が、鋭い楔となって蓮の心を打ち抜いたのです。
『……お願い、蓮。この先は……非人道的な王様じゃなくて……一人の人として、歩いて』
その言葉は、彼女が命を懸けて守り抜いた「人間としての尊厳」そのものでした。 もし今、自分のエゴのために彼女を「虚無の人形」に変えてしまったら。それは神の暴挙よりも残酷に、彼女の魂を、彼女が守った誇りを踏みにじることにならないか。
(俺は……また、自分勝手な理由でお前を利用しようとしているのか……?)
3. 卑怯者との決別
蓮は、術式を解きました。 右腕の黒い波動が霧散し、医療区に重苦しい静寂が戻ります。
「……ごめんな、ユリア。俺は、本当にどこまでも駄目な男だ」
蓮は涙を流しながら、彼女の冷たくなった手を握りしめました。 神に縋り、人形に変えてでも側に置こうとした。それは愛ではなく、ただの執着。 彼女が最期に望んだのは、蓮が「人として」生きること。ならば、彼女の死という耐え難い痛みから逃げず、その悲しみを背負って生きることこそが、彼女の尊厳を守る唯一の道だと、蓮は気づいたのです。
4. 定義:魂の不可侵
蓮は最後にもう一度だけ、右腕を掲げました。 それは彼女を蘇らせるためではなく、彼女の魂を神の「滅菌」から守るための祈りでした。
良くなれ。 定義するのは、この肉体に宿った『誇り』と『魂の純潔』。 神のシステムであれ、俺の虚無であれ。何者も、彼女の眠りを妨げることは許さない。
定義:神の理からの遮断
定義:永遠なる魂の安息
定義:記憶の聖域化
蓮の右腕から放たれた柔らかな漆黒の光が、ユリアを包み込みました。 彼女の体は、神の第6射の副作用による崩壊を免れ、まるで今も幸せな夢を見ているかのような、穏やかな表情のまま固定されました。それは、この残酷な世界で唯一、神にも侵されない「聖域」となったのです。
5. 一人の男の産声
「……さよなら、ユリア。……いや、ずっと俺の中にいてくれ」
蓮は立ち上がりました。 そこには、自分を偽る傲慢な王の姿はありませんでした。 大切な人を失い、その痛みを刻みつけ、愛した人の遺言を胸に刻んだ、不器用で、しかし「人間」としての顔を取り戻した男が立っていました。
「カイル……リサ……。みんな、いるか」
蓮は通信機を手に取り、震える声で呼びかけました。 神を殺すためではなく、彼女が愛した「人々の明日」を守るために。 残り六十八日。




