第110話:遺失のゆりかご、帰らぬ日常
1. 歪んだ故郷の幻影
6つ目の爆心地は、かつて「旧居住区」と呼ばれた、アヴァロンの民が最も穏やかに暮らしていた場所でした。 しかし今、そこにあるのは物理法則を無視してねじれ、積み重なった建物の残骸による地獄の迷宮でした。 逆さまに浮遊する民家、空中に階段が伸びる不気味な静寂。かつて子供たちの笑い声が響いていた路地には、今は神の魔力によるどす黒い霧が立ち込めています。
「……王。ここが、かつて貴方の民が住んでいた場所ですか。無機質で、効率の悪い構造です」
ユリアが瓦礫を飛び越え、冷淡に言い放ちます。 彼女にとっては、ここは単なる「不正規な地形」に過ぎません。かつて彼女がこの路地で、蓮のために不慣れな買い物をして照れくさそうに笑っていた記憶など、一片も残っていないのです。
2. 卑怯者の独白
(ああ、本当に俺は……救いようがない)
蓮は、浮遊する建物の壁に刻まれた、見覚えのある傷跡を見つめました。それはかつて、自分がユリアと背比べをした時の跡でした。 そんな思い出の場所へ、記憶を失った彼女を連れてきた自分。
(リサたちがここにいたら、きっと泣いていただろう。あいつらの涙を見れば、俺はまた「もう戦いたくない」と弱音を吐いてしまう。だから、何も感じないお前を連れてきた)
自分を他人として見るユリアの冷たい瞳。それが今の蓮にとっては、自分の「王としての決意」を維持するための、最も残酷で都合の良い防壁でした。 大切な女性の心を壊したまま、その空虚さを盾にして戦い続ける。そんな自分を、蓮は心の中で何度も「最低な男だ」と罵り続けました。
3. 迷宮の守護者:忘却の亡霊
迷宮の最深部、かつての「広場」だった場所に、6つ目の黄金の結晶が鎮座していました。 そこを守っていたのは、神の力で具現化された**「かつての日常」の残像**たちでした。 透き通った姿の民たちが、生前と同じように談笑し、蓮に向かって手を振ります。
「蓮様、おかえりなさい!」「今日の夕飯はなんですか?」
それは、蓮が守れなかった人々の、最も幸せだった瞬間の断片。 神は、蓮が最も帰りたかった場所を、最も逃げ出したくなる武器へと変えて差し向けてきたのです。
4. 決別の極致
「……王。敵対反応はありませんが、魔力の波長が精神を汚染しています。……斬りますか?」
ユリアが平然と剣を抜きました。 彼女にとって、目の前の幽霊たちは「自分を可愛がってくれた隣人」ではなく、単なる「魔力による現象」です。迷いのない彼女の剣が、蓮を慕っていた老婆の残像を切り裂きました。
「待て、ユリア……!」
「なぜ止めるのですか。これは幻です。貴方の目的は結晶の回収のはずだ」
その正論が、蓮の心に鋭く突き刺さります。 かつての彼女なら、誰よりも先に涙を流し、彼らを弔ったはず。今の彼女がこうも非情なのは、蓮が彼女の魂を「救済の対価」として売ったからです。
一の絶望。 二の冒涜。 三の決別。
「……ああ。お前の言う通りだ。ここはもう、俺の帰る場所じゃない」
蓮は漆黒の右腕を掲げ、虚無の炎を放ちました。 かつての家も、思い出の路地も、手を振る民の幻影も。 すべてを、自分の手で。二度と振り返らぬよう、一瞬で「無」へと焼き尽くしました。
5. 6つ目の断片
黄金の結晶が黒く染まり、蓮の手中に落ちました。 これで、残る結晶はあと一つ。アヴァロン・ギアを天界へ届けるための翼は、ほぼ完成に近づいています。
「王。……なぜ、泣いているのですか」
ユリアが無機質な瞳で、蓮の頬を伝う一筋の涙を指差しました。 彼女には、その涙の意味が理解できません。悲しみも、後悔も、愛も。彼女の魂からは、それらを受け取るための器が消えているのです。
「……砂が目に入っただけだ。行くぞ。最後の爆心地へ」
残り八十日。 蓮は、自分を忘れた騎士を伴い、もはや灰しか残っていない故郷を後にしました。
次は最後、7つ目の爆心地。 そこは、この世界の「根源」であり、神が最初に地上を穿った始まりの場所。




