第105話:氷の理と、魂の秤
北の凍土、絶望の揺りかご
北の爆心地は、他とは異質の空気を纏っていた。 神の第6射がこの地を穿った際、熱ではなく「絶対的な静止」がもたらされたのだ。かつて肥沃だった大地は、結晶化した大気が舞うマイナス百度の極寒地獄と化していた。
「……息が、凍ります」
ユリアが白い吐息を漏らし、凍りついた馬車の扉を蹴り開けた。 彼女の魔力によって強化された防寒装備さえも、神の残滓が放つ冷気の前では無力に近い。 クレーターの底には、巨大な氷の彫刻のような黄金の結晶が、周囲の時を止めるように鎮座していた。
理性の断片
「よく来たな、泥にまみれた不純物よ」
結晶の影から、一人の人影が歩み出た。 これまでの機械的な守護者とは違う。それは神官のような白い法衣を纏い、怜悧な理性を宿した瞳を持つ、美しい少年のような姿をしていた。
神の知性の一部を分かち与えられた、守護者の一人。
「私は北の秤。王よ、貴様がこの『不滅の種子』を望むなら、世界の理に従い、対価を差し出せ。神の力は無償ではない」
残酷なる等価交換
「対価だと? お前の主人(神)は、俺からすべてを奪っていった。これ以上、何を払えと言うんだ」
蓮が漆黒の義手を構え、冷たく言い放つ。 守護者の少年は、無感情な笑みを浮かべて、蓮の背後に立つユリアを指差した。
「この女は、すでに一度『忘却』という慈悲を受けている。だが、その魂の奥底には、未だ貴様との絆が『澱』となってこびりついている。……それを差し出せ」
守護者の要求は、あまりにも残酷だった。
「この結晶を手にすれば、この女の魂に刻まれた『貴様を愛したという本能』さえも完全に消失する。細胞の一つ一つが貴様を忘れ、二度とその魂が共鳴することはない。……思い出という過去ではなく、繋がるはずの未来を売れと言っているのだ」
騎士の差し出し
蓮の心臓が、凍りついたように止まった。 今のユリアは記憶を失っている。だが、先日の戦いのように、彼女の体は、魂は、まだ蓮を「知っている」。その微かな残り火さえも消せというのか。
「……王。何を迷っているのですか」
背後から、ユリアの冷徹な声が響いた。 彼女は一歩前に出ると、守護者を見据え、迷いなく剣を鞘に納めた。
「私の本能が貴方を拒もうと、私が貴方を忘れようと、百日後の終末を止めること以上に優先される事項はありません。……私は、私の魂を対価として差し出すことを許可します」
「ユリア、お前……!」
「王。貴方は言いました。『生きたい奴だけを連れて行く』と。……私は、生きたい。そして、貴方に勝利を。そのための部品になることに、一片の悔いもありません」
ユリアの瞳には、かつての献身的な愛ではなく、ただ目的を遂行しようとする兵器のような純粋さがあった。 蓮は、自分自身を呪った。 彼女にこんな決断をさせているのは、他でもない、彼女の記憶が戻ることを諦め、彼女の残酷さに甘えている自分なのだ。
(俺は、本当に……救いようのないクズだ)
砕け散る残り火
「……取れ、ユリア」
蓮は、絞り出すような声で命じた。 ユリアが黄金の結晶に手を触れる。 瞬間、彼女の全身から淡い光の粒子が立ち昇り、守護者の手へと吸い込まれていった。
「あ、が……っ……」
ユリアの膝が折れ、瞳から最後の「熱」が消えていく。 それは、彼女が蓮と過ごした日々の中で積み上げた、魂の震えそのものの消滅。 結晶は黒く染まり、蓮の手の中へと収まった。
「契約成立だ。……哀れな王よ。貴様はまた一つ、自分を愛した世界を殺したな」
守護者の姿が雪に溶けるように消えていく。 後に残されたのは、二つ目の神の残滓を手に入れた蓮と、人形のように虚ろな表情で立ち上がるユリアだけだった。
「……王。結晶の回収、完了しました。……何か、問題でも?」
ユリアが問いかける。その声に、もはや戦友としての信頼さえも混じっていない。 ただの道具が、持ち主に状況を報告する。それだけの、冷たい音。
一つ、魂を売り。 二つ、未来を断ち。 三つ、独り、神へ近づく。
「……いや。何でもない。行くぞ」
蓮は血の出るほど唇を噛み、二つ目の黒い結晶を握りしめた。 残り九十六日。 愛する者の魂を燃料にして、復讐の馬車は次の爆心地へと進んでいく。




