9、桃と犬と家
「あら、桃子ちゃん。」
犬山だった。
淡い色のワンピースに、日傘を片手に持っている。オレンジ色の斜光がその輪郭を透かし、表情を柔らかく覆っていた。
「今日は居残り?」
「……少し。」
桃子の声が揺れるたのを、犬山はすぐに察した。
「顔色、あんまりよくないね。うち、寄っていかない?」
ごく自然に差し伸べられる手は、強制ではなく、けれど逃れがたい温度を帯びていた。
犬山の部屋は、何度もきているから落ち着く。薄いカーテンが揺れ、棚にはきれいに並んだガラス瓶が光を反射している。
「冷たいもの、持ってくるね」
台所からグラスに氷をいれる音が聞こえてくる。その間、桃子は窓辺に立ち、外の空を見ていた。赤く染まった雲がゆっくりと流れていく。
犬山が戻り、グラスを机においた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
犬山は微笑んで桃子の隣に腰を下ろした。その笑顔はいつもの優しげなものだが、瞳の奥に潜む鋭さは隠しきれていなかった。
「ねえ、桃子ちゃん。」
唇の端にかすかな悪戯を浮かべながら、犬山は囁いた。
「なにかあったのね?」
桃子は答えず、ただグラスの中で溶けていく氷を見つめていた。かけらが音を立てて沈み、細い泡を放ちながら溶けていく。その様子を凝視するうちに、言葉を選ぶ余裕が生まれた。
「……先輩の家に、いました」
犬山は瞬きを一度だけし、すぐに穏やかな笑みを戻した。
「そう。茜さん、だっけ?」
声は驚きよりも、確認に近かった。
「仲がいいの?」
問いは柔らかく、しかしささやかな圧を孕んでいた。
桃子は曖昧な沈黙で答えようとした。沈黙そのものが、すでに一つの返事になってしまうことを理解していた。
「よくわからないんです。茜先輩は私といるとき、楽しそうな顔をしています。でも、私は、たぶん、そうじゃない。いやではないんですけど。」
桃子は麦茶をぐっとあおった。
「茜先輩と同じ気持ちでないことは確かです。」
犬山はグラスを置き、両手を膝に揃えた。
「人と一緒にいると、自分がどんな顔をしているのか、わからなくなる時ってあるよね。鏡を見ればわかるのかもしれないけれど……鏡は、いつも正直とは限らない。」
その言葉は穏やかに宙を漂い、沈んでいった。桃子は、犬山の声が優しさと同じくらいの寂しさを含んでいるのに気づいた。
「……わたし、鏡はあまり好きじゃありません。」
ぽつりと漏らした自分の声に、桃子自身が驚いた。
犬山は頷き、窓の外の夕焼けに目を向けた。
「桃子ちゃんのことは、桃子ちゃんと一緒にいる人が、一番よく知っているのかもしれないね。」
その横顔は冗談めかしているようで、同時にひどく真剣でもあった。
「たとえば両親や、幼なじみ、とか?」
桃子は答えを返さず、目の前の犬山の顔をじっとみた。
この人もわたしとは違う、と思った。それはなんの色もない、確認だった。
部屋の時計が一度、針を打つ音を響かせた。
「なんてね。」
そういって、犬山は冗談だと笑った。
犬山はグラスの縁を指先でなぞりながら、隣に座る桃子の横顔を盗み見るように眺めていた。窓から差す夕陽がカーテン越しに淡い橙色を広げ、桃子の髪を透かしている。丸い黒髪の輪郭は光の中でかすかに揺れ、呼吸に合わせて肩が静かに上下していた。
その落ち着いた佇まいこそが犬山の焦りをかき立てた。触れたいのに、触れてしまえば砕けてしまいそうな、儚さをまとっている。
「……桃子ちゃん。」
犬山は名前を呼んだ。声はできるだけ柔らかく抑えた。桃子の瞳が一度だけこちらに向く。しかしその眼差しは、相手の心を測ろうとするでもなく、ただ静かな湖面のよう。
「わたしと一緒にいるほうが、きっと楽だと思うんだ。」
犬山は言葉を置きながら、グラスをテーブルにそっと置いた。カツッと小さな音を立てる。指先が空を泳ぐように宙をさまよい、やがて桃子の膝に触れそうで触れない距離で止まった。
「同年代の子たちは、無邪気に見えて、でも結局は自分のことばかり。年上の子も同じだよ。桃子ちゃんを困らせるだけ……。でも、わたしは違う。」
少し笑みを浮かべ、犬山はわざと大人びた落ち着きを装った。だがその笑顔の奥で、自分の声がわずかに掠れていることに気づいていた。
「ちゃんと、大事にする。」
言葉を選ぶたびに、犬山の心臓が速く打つ。弱みにつけこむようなことは駄目だと思いながらも、口は止められなかった。
桃子は黙って、グラスの中の氷が溶けていく様子を見つめている。犬山の言葉を拒絶しているわけでも、受け入れているわけでもない。その無反応こそが犬山を苦しめた。
「ねえ……」
犬山は急かすように身体を桃子に寄せた。指先が桃子の指先に触れた。温かさが伝わる間近な距離。けれど桃子は引きもしなければ、握り返すこともなかった。
「選ぶなら私にしてほしいの。……私を。」
ついに口をついた言葉は、年上の余裕を欠いていた。自分でも驚くほど切実に響いてしまった。
桃子は静かに顔を上げた。その眼差しは、まるで氷でできた硝子のように澄んでいる。そこに怒りも、動揺も、甘さもなく、ただ境界線を引く理性だけがあった。
「犬山さん。」
その声音は穏やかで、しかし柔らかく包み込むのではなく、輪郭をはっきり描き出す。
「わたしは……誰かを選ぶことなんて、まだ考えられません。」
犬山の胸が沈む。求めていた答えではない。だが、拒絶でもなかった。
「でも、」
桃子はほんの少し間を置き、言葉を続けた。
「犬山さんがわたしを大切にしてくれているのは、わかります。」
その一言が、かえって胸をしめつける。
優しさのように聞こえるのに、そこには距離を保とうとする固い意志が混じっていた。犬山の手は膝の上で震え、唇は乾いて思うように笑みを作れなかった。
「……桃子ちゃん。」
伝えきれていない。胸の思いを伝えなけば、この子の心は動かない。
犬山は、ついに体裁をかなぐり捨ててしまった。
「お願い。そばにいて。あなたが必要なの。私から離れないで」
声は懇願に変わり、白い壁に吸い込まれる。
それでも桃子は静かにグラスを机に置き、軽く背筋を伸ばしただけだった。
返事はない。頷きも否定もない。
なにも変わらない。
犬山は自分が、今まさに選ばれない恐怖に飲み込まれていることを痛感した。
桃子は空になったグラスを両手で包み、またそっとテーブルに置いた。氷の欠片が底にわずかに残り、傾けると小さな音を立てて滑った。その音を聞きながら、心の中でひとつの区切りが訪れたことを理解した。
「そろそろ、帰ります」
ただ淡々とした響きだけが部屋に落ちた。
犬山は眉を動かしたが、すぐに取り繕った。
「そう。」
立ち上がった桃子を見送りながら、犬山は「またね」と告げた。その言葉の輪郭は甘いのに、触れれば形を変える水のように、不確かなものでもあった。
玄関のドアを開けると、夜の匂いが押し寄せた。昼の熱気は残っているのに、どこか湿った涼しさが混じっている。遠くで鳴く蝉の声は、もう細い糸のように弱っていた。
家に帰って、ふとベランダに出てみた。
眼下の住宅街は静まり返っていた。窓から漏れるテレビの音が途切れ途切れに流れ、どこかの家から石鹸の匂いが漂ってきた。そのありふれた生活の気配の中で、桃子は自分だけが透明なガラスの内側を歩いているように感じた。
さっきまでいた部屋の柔らかい照明やいい香りは、桃子の背後に遠ざかっていく。代わりに夜のはじまりを告げる冷気が頬に触れ、肌をざらつかせた。
犬山が伸ばしかけた手の感触は、まだ袖口に残っているように思えた。視線を絡め取ろうとする蛇のような眼差し。笑みの奥に潜む焦り。必死な懇願。
それは、甘さを帯びながらもどこか重苦しく、まとわりつく煙のように桃子の胸を燻らせて。
それでも桃子はゆるがない。いつもと同じ調子だった、と思い込ませる。心臓は乱れることを許さないように一定の鼓動を刻んでいた。
けれど、今日という一日は色々ありすぎた。
――茜の家。
姉弟達の足音が外へ消え、二人きりになったときの沈黙。
唐突に近づいた茜の影。
押し倒され、身体の下に感じたソファの硬さ。
そして、茜の真剣な顔。
拒絶の言葉を発したときの、あの一瞬で崩れ落ちた彼女の表情。
桃子はそのすべてを心の底に押し込めるように、息を吐いた。
ふと、マンションの前の通りに照らされた人影が立っていることにきづいた。
茜だった。
制服のシャツの袖を肘まで折り返し、走ってきたようにみえる。いつもより背筋がわずかに曲がり、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
目が合った瞬間、茜は小走りに近づいてきた。
桃子は手で合図すると、マンションのエントランス前に降りていった。
「……桃子ちゃん」
呼びかける声は、細く頼りない。
「もう暗いのに。危ないですよ。」
その声音は淡々として、体温を感じさせなかった。
茜の胸の奥が小さく縮む。
「さっきは……ごめん」
茜はバツの悪そうに視線を落とす。
「焦って……桃子ちゃんを困らせてしまった」
桃子はすぐには答えない。足音だけが石畳に響く。
茜は慌てて歩調を合わせ、隣に並んだ。
「私……嫌われたくないんだ。ただ、それだけで……」
声は震えていた。
桃子はちらりと横顔を向ける。街灯の白い光に照らされた茜の横顔は、ギリシャ彫刻のように綺麗なシルエットをしている。でも、血の通った生命力にあふれている。
桃子は今、自分がどんな顔をしているのか無性に気になった。
でも、訪ねることはしなかった。
「……そういうことなら、落ち着いてください。」
冷ややかにも聞こえるその言葉は、同時に境界線を示す印でもあった。
茜の胸は痛んだが、その境界を否定することはできなかった。
「先輩のこと、嫌いではありません。」
「よかった。」
「もう、遅いですから、先輩も早く家に帰ってください。」
「そうするね。」
茜は何度も桃子のことを振り返りながら帰った。
エレベーターに乗りながら、犬山のことを思い出す。
彼女は必死に手を伸ばしてきた。大人のふりをしながら、実際には桃子に縋っていた。
茜は、桃子に迫りながら、自分の未熟さをさらけ出してしまった。
同じような二人――大人びた策士と、焦る年上の少女。
2人が自分にどんな思いを抱いているのか察していた。
しかし、桃子にとってその二人は、どちらも同じように「自分の静けさを乱そうとする存在」にしか映っていなかった。
心をかき乱す煙と、無邪気な焦燥。その両方をただ眺めながら、桃子は揺るがない。
「どうしろっていうの。」
自分にないものを持っている二人が羨ましかった。