7、桃と茜と犬
蝉の声は、夕刻が近づくにつれて激しくなり、空気をふるわせる。
舗道に敷かれた小石の光を踏みしめながら、桃子はひとり帰っていた。その数歩後ろに、茜先輩がつかず離れずの距離でついてくる。
「……一緒に帰っていい?」
「……構いません。」
返した言葉は簡素だったが、茜先輩の横顔には安堵の色が浮かんだ。指先が無意識にブラウスの袖口をいじり、何かを言おうとするたびに布地が小さく波打つ。
角を曲がったところで、前方から人影が現れた。風を孕んだワンピースの裾をゆるやかに揺らしている。犬山さんだった。
「あら、桃子ちゃん。今日も会ったわね。」
立ち止まった犬山さんは、自然に桃子の隣へ歩み寄ってきた。笑顔は柔らかく開かれているのに、不思議と威圧感があった。
その瞬間、茜先輩の肩がほんのわずかに張ったのを、桃子は視界の端で捉えた。
「こんばんは。こちらの方は……?」
犬山さんの問いはあくまで穏やかだった。
「……同じ学校の先輩。」
茜先輩が桃子の代わりに答える。
「そう。桃子ちゃんがお世話になっているのね。」
犬山さんの声はあたたかいようでありながら、獲物を狙う蛇のようにじりじりと空気を締めつける力が潜んでいた。茜先輩の返事は一瞬遅れ、そのわずかな間に、相手の落ち着いた余裕が立ち上る。
「桃子ちゃんは一人でいることが多い子だから。こうして一緒に歩いてくれる人がいるのは、安心するわ。」
犬山さんはそう言いながら、桃子の腕に自分の腕をからめた。柔らかく見える仕草の中に、かすかに強引さがあった。
茜先輩は口を開きかけて、すぐに閉じる。瞳の奥に揺らぎが走る。その様子を桃子は無表情のまま、冷静に見つめていた。場の空気は犬山さんの掌の上で転がされ、茜先輩の鮮やかさを鈍らせていく。
「桃子ちゃん、これよかったら持って帰って。」
犬山さんが紙袋から取り出したのは桃だった。産毛をまとった果実は夕陽を吸い込み、表面に金色の影を宿している。
「今日の市場で見つけたの。きっと甘いと思う。」
桃子は黙ってそれを受け取った。茜先輩は、その横顔をちらりと見つめたが何も言わない。
「じゃあ、またね。」
犬山さんは軽やかに手を振り、背を向けて去っていった。残された空気には、まだ微かに香水と果実の香りが漂っている。
茜先輩は小さく息を吐き、笑みをつくろうとしたが、声はかすかに硬かった。
「桃子、あの人は?」
「幼なじみです。」
「仲が良さそうだったね。姉妹みたい。」
「そう見えるなら、そうなんでしょう」
桃子は指先で果皮をなぞり、存在を確かめるように持ち直した。蝉の声はさらに遠ざかり、薄暗さが街全体に染み込んでいく。
茜先輩の強さが、犬山さんの前では容易く鈍り、言葉にならないことを桃子は淡々と観察していた。居心地の悪さは感じなかった。心の奥は動かず、ただ、自分がふたりの間に立ち会っている事実だけが、冷たい石のようにそこにあった。
部屋に戻ると、窓の外はすでに群青に沈みかけていた。机の上に桃を置くと、果皮に残っていた夕陽の影は失われ、代わりに薄暗い電灯の光を柔らかく反射した。
桃子は鞄を椅子に掛け、制服を脱ぎ、部屋着に着替える。床に座り込むと、目の前に置かれた桃がじっとこちらを見つめ返すように思えた。
果実はまだ外気のぬくもりを含んでいた。指で撫でると産毛が細い霧のように感触を残す。台所へいってナイフを手に取ったが、刃先を入れるのをためらい、しばらくはただ桃の表面を見つめ続けた。
やがて思い切って切り込みを入れると、果汁が細く溢れ、指先を濡らした。皿の上に半分を置き、ひと口かじる。繊維を舌が解きほぐし、甘さが静かに口内に広がる。
その甘味は豊かであるはずなのに、次の瞬間には薄れる。
茜先輩と歩いた帰り道、肩口に触れた犬山さんの指先、そして紙袋から取り出されるときの果実の重み――すべてが果肉の柔らかさと混ざり合い、ひとつの曖昧な影を形づくる。
桃子は皿の上のもう半分を見つめ、ふと息をついた。食べてしまえば残らないはずなのに、食べたことでいっそう消えないものが残るような気がした。
蝉の声はもう完全に途絶え、遠くで犬の鳴き声が一度だけ夜気を震わせた。桃子は残りの半分を口に運び、黙ってたべた。甘さがのどを通り過ぎても、胸の奥には淡い渋みが静かに残っていた。