6、仔犬の思い出
犬山は、午後の図書館の片隅でノートを広げていた。
鉛筆を持つ指がかすかに止まる。文字を並べていると、唐突に思い出が浮かびあがる。まだ小学生にもならない桃子の姿だった。
まだ二人が幼稚園にも通っていないころ。
夏の夕方、マンションの中庭で、犬山と桃子は一緒にシャボン玉をして遊んでいた。
犬山が吹くと、大きな玉がふわりと空に浮かび上がる。桃子は目を丸くして追いかけ、両手をぱちんと合わせる。けれど、なかなかつかまえられない。
「シャボン玉はさわれないよ」と犬山が言ったが、桃子は首を振り、何度も手を伸ばす。
「つくるほうをやってごらん。」
犬山はパチンパチン拍手をする桃子にストローをわたした。
すると桃子はストローを逆さまにくわえてしまった。しかも思いきり息を吸い込んで、せっけん水を口に含んでしまったのだ。
「んぐっ……!」と顔をしかめ、慌ててぺっぺっと吐き出す桃子。
犬山は驚いてタオルを持ってきて拭いてやりながら、「もう、逆だよ、こっちから吹くんだよ」と笑った。
桃子は涙目になりながらも、「わたしのシャボン玉……」と小さくつぶやき、またストローを取り直した。
ちいさなシャボン玉がたくさん宙にまった。
彼女は両手を広げてまた追いかけていった。
夕陽に照らされて駆けていく桃子の姿を見ながら、犬山は「ちょっとドジだけど、すごく一生懸命だな」と、子どもながらに不思議な気持ちでその背中を眺めていた。
小さな失敗も、彼女にとっては世界の終わりのように大きかった。けれど、犬山の言葉ひとつで、ころんと軽く転がっていく。あの無邪気さは、いまも変わらず桃子の奥に隠れているのだろうか。
犬山は鉛筆を持ったまま、しばらく動けなかった。思い出のなかで桃子が笑った瞬間、その柔らかな笑みが、現在の彼女と重なる気がしていた。
あの頃、犬山はただ「守らなければ」という気持ちに突き動かされていた。桃子が困らないように、心細がらないように、先に気づいて声をかけるのが自分の役目だと思っていた。けれど今、思い返すと、あれは自分のほうが構ってもらいたかったのかもしれないと感じる。小さな桃子が見せる無邪気な笑みをむけられるたびに、心がぽっと温かくなった。
いまの桃子は、あの頃の面影を奥深くに沈めてしまっている。簡単には覗けない場所に隠して、外の世界に流されないようにしているように見える。犬山は、その頑なさの奥に、かすかに笑う幼い日の桃子を探し続けているのだった。
その思いは恋なのか、友情なのか、あるいは家族に似た感情なのか、幼い犬山にはまだはっきりと分からなかった。ただ確かなのは、桃子の存在を考えるとき、幸せな気持ちになるだけだった。
でも、今はちがう。
この気持ちは恋だ。
犬山はノートの隅のほうに相合傘を書いてみて、すぐに消した。
20歳にもなって、こんな幼稚なことをしているのが恥ずかしくなったのだ。
課題に集中できなくなった犬山は諦めて家に帰ることにした。