5、桃と犬
坂を下る途中、背後から足音が近づいてきた。一回り大きい影がゆっくりと桃子の横へ重なった。
「桃子ちゃん、帰り道一緒になったね。」
「犬山さん。」
犬山が軽く息を整えながら言った。
犬山は都内の難関大学に通う大学二年生であり、隣の家に住んでいる桃子の年上の幼なじみだった。
手に提げた買い物袋の口から、大根の束が覗いている。袋を持つ指先は骨ばっているのに不思議としなやかで、爪には透明のコートが薄く塗られていた。
桃子は小さく会釈をし、歩みをわずかに緩めた。言葉を返さなくても、犬山は何気ない自然さで桃子の横に並ぶ。
「制服、少し襟がずれてるよ」
犬山はそう言い、指を伸ばした。桃子の肩口に触れると、かかったリボンをそっと整えた。指先がほんの一瞬だけ布を押さえ、その温度が桃子の肌に伝わる。桃子は声を出さずにじっと見ていた。
「ふふ。お礼のひと言くらい、欲しいな」
「ありがとう。」
「そうそう。今日は一緒にご飯食べてって洋子さんが。」
洋子は桃子の母親の名前である。
桃子の家庭はシングルマザーで、洋子の帰りが遅くなるときは犬山家にお世話になることが珍しくなかった。
「わかった。」
「腕によりをかけるからね。」
桃子はそのまま犬山の部屋に行った。
桃子の家と同じ間取り。机の上には読みかけの文庫本が積まれ、ページの間には栞が挟まっている。犬山の両親は今年の2月から海外出張に行っているから、この家にいるのは二人だけだ。
「冷たいもの、どうぞ」
犬山は氷をいれたグラスに麦茶を注いだ。氷が細やかに割れる音がして、淡い琥珀色が揺れる。乾いた喉に麦茶のほのかな渋みが通っていく。
「ねえ、桃子ちゃん。最近、よく一緒にいる人がいるよね」
犬山さんは膝を抱え、顎をのせるようにして問いかけた。口調は穏やかだが、視線は逃げ場を塞ぐようだった。
「……誰のこと」
「ふふ。名前は言わなくてもわかるでしょ?」
桃子は答えを飲み込み、ストローを指先で回した。氷の角が小さく音を立てて崩れた。
「学校の先輩。」
「仲がいいんだね。」
「そんなことない。」
「そんなことないわけない。私は桃子ちゃんのことを誰より知ってるつもり。小さい頃から見てきたんだから」
その声は落ち着いていたが、部屋の熱と混じり、桃子の胸の奥にわずかな圧迫感を残した。
それから帰るまで犬山はときおり軽いちょっかいをだした。手早く夕飯を作って、宿題途中の桃子の教科書を取り上げて、「お姉さんが教えてあげよう」と笑いながら高く掲げる。桃子が手を伸ばすと、ひらりとかわして楽しそうに笑った。
夜、自宅の前で別れるときには、少し近づいて「おやすみ」と囁いた。距離は不自然に思えるほど近く、桃子の髪に触れそうな空気の揺らぎを残した。
犬山の態度はすべて冗談として片づけられるほどの軽さだった。けれど、桃子には背後に濃い影のような気配が感じられた。
机に向かい宿題をしているとき、ふとその影が思い出された。犬山の微笑みは柔らかく、包み込むようでありながら、蛇のようにじわじわと締めつけてくる。
茜先輩と一緒にいるときに感じる、風通しの良い空気とはまるで反対だった。
扇風機の風がページをめくり、ノートに広がったインクの匂いがかすかに漂う。マーカーを持つ手を止め、桃子は窓の外に目を向けた。夜の闇が静かに広がり、マンションの隙間から三日月が見えた。