4、桃と弁当
梅雨が明けてからというもの、校舎の空気は日に日に熱を帯びていた。教室の隅でエアコンが働いていたが、その風は湿り気を孕み、あまり涼しくない。
昼休みが訪れると、机を寄せ合って弁当を広げる者、廊下を駆けて購買へ急ぐ者。声と笑いと紙の擦れる音が重なり合い、どこにも落ち着きのない明るさが漂っていた。
そんな中で、桃子は珍しく自分の席についたまま、お弁当をたべていた。卵焼きと肉じゃが、そして小さなカップに詰められた缶詰の桃。家庭の味がする、変わり映えのない昼食。ただ場所が違うだけ。
箸を手にした瞬間、教室の入口で小さなざわめきが起こった。顔を上げると、茜先輩が立っていた。白いブラウスの袖を軽くまくり上げ、手には弁当箱を下げている。
「茜先輩だ……」
「なんでここに?」
「三年の教室じゃないのに。」
ささやき声が幾重にも重なり、視線が集まる。だが茜先輩は、そうした視線を一切気にすることなく、真っすぐ桃子の席へ歩み寄った。
「ここ、隣いい?」
落ち着いた声が空気をわずかに揺らし、ざわめきを吸い込むようにして広がった。桃子は箸を止め、短くうなずいた。
「……どうぞ。」
そのやりとりを目にした周囲の生徒たちは顔を見合わせ、ひそひそと声を交わす。
「桃子と知り合いなんだ。」
「どうして?部活も委員会も同じだったけ?」
「うらやましい……」
桃子には、その声が背中に絡みつくように感じられた。
「君が空き教室に来ないから私から来たよ。」
「なんで、クラスを知っているんですか?」
「君が教科書を持ってきたときに、書いてあったのが見えてね。」
茜先輩は椅子を引いて腰を下ろし、弁当箱のふたを開けた。卵焼き、焼き鮭、野菜炒め、小さなおにぎり。整えられてはいるが、どこか慌ただしさを残す質素な中身だった。
「桃子のお弁当、彩りがきれいだね。」
茜先輩が覗き込み、目を細める。
「母が作ってくれるんです。」
「卵焼き……ふっくらしてる。うちのは七人分を一気に焼くから、ちょっと薄っぺらいの。」
少し羨ましそうに言う声。桃子は黙って卵焼きを口に運んだ。
「ねえ、いつも桃がはいっているのって名前に合わせてるの?」
「……さあ。好物だからかと。でも、母はそういうことをする人です。」
「いいな。私もそういう遊び心がほしい。赤いもので統一してみようかな。」
冗談のように聞こえたが、ほのかに本音がまじっていた。
「……見てみたいですね。」
「興味もってくれた?」
頷くと、茜先輩は嬉しそうに笑った。
お弁当を食べ終わると、茜はすぐに自分の教室に戻っていった。
クラスメイトが自分のことを興味津々な目でみていることを無視して、桃子は次の授業の準備をした。
五時間目の授業を受けながら、桃子はふとした疑問について考えていた。どうして茜先輩は、自分の隣を選ぶのだろう。彼女なら、誰とでも笑い合えるはずなのに。
その日の放課後、ざわめきが満ちる廊下で、桃子は階段の踊り場に人だかりを見つけた。中心にいるのは茜先輩だった。沢山の人に囲まれているのに、ひとりだけ目立って見える。取り巻く生徒たちは張り切って話しかけていた。
「茜先輩って、ほんと優しいよね。」
「かっこいい……」
そんな声が桃子の耳に届く。足を止め、ただその光景を見つめた。どうして彼女はこんなにも人を惹きつけるのか。特別に巧みな話術があるわけではない。それなのに、彼女の前に立つと誰もが彼女に手をのばす。
「どうして……」
桃子は小さく呟いた。桃子が茜先輩を見つけるときはいつも一人のときだ。だから、最初のうちは自分と同じ一匹狼なのかなと思っていた。
でも、しばらく学校生活を過ごしていると茜は学校中の人気者であることを知った。
「わからないな。」
その言葉は自分の胸の内に沈み込んでいった。
夜、机に向かいながら桃子は考える。
集団の中心にいる茜、空き教室で桃子をからかう茜。
「みんなが見ている先輩と、私が知っている先輩は同じなのだろうか。」
だとしたら、どっちが本当の先輩なんだろう。
そして、どうして先輩は違うすがたをみせてくれるんだろう。
答えの出ない疑問が、静かに胸の奥に積もっていった。