3、桃の瞳
茜は体育館へ向かう途中、渡り廊下で桃子と鉢合わせた。
「こんにちは、桃子。」
声をかけると、彼女は立ち止まり、少しの間を置いて「こんにちは」とだけ返した。
「これからバスケットボールなんだ」と軽く言えば、
「がんばってください」とだけ返ってくる。
もう少し何か続くのでは、とつい期待してしまった分、その簡潔な返事がものたりなく感じられた。
それでも、桃子は気負うことなくこちらをまっすぐに捉えている。飾りも嘘もなく、ただそのままで。胸の奥を見透かされているような気がして、思わず笑って誤魔化した。
「もう少しなにかないの?」
「怪我しないでください。」
「そうくるか。」
わざと明るく言い、持っていたボールを床に弾ませる。乾いた音が廊下を駆け抜けていく。
「それではもう行きますね。」
「そっちも授業、がんばってね。」
桃子はすぐに歩き出した。足取りは静かで、ぶれがない。
私はその背中を見送りながら、不思議な気持ちになった。あの子の態度は突き放したようでいて、誠実だ。冷たいのに、居心地がわるくない。彼女の無駄のない言葉や仕草が、むしろ自分をきちんと相手として扱ってくれている証のように思えてくる。
そんな矛盾について考えながら、もう一度ボールを強く叩いた。軽やかな音が跳ね返り、胸のざわめきを押し隠すように響いた。
茜は家で宿題をしていた。
机に肘をつき、数学の教科書を広げていた。二次関数のグラフをノートに写しながらも、視線はしばしば窓の外に逃げてしまう。
階下からは、妹と弟がゲームに合わせて叫ぶ声が混じり合って響いてくる。そのにぎやかさは、いつもなら茜に安心を与える背景音だった。けれど今日は、耳の奥で少し遠のいて聞こえる。
渡り廊下で出会った桃子の姿が、ふいに浮かんでくる。汗で濡れた髪が首筋に張りつき、夏の光に透けた白いシャツが色っぽかった。
――「こんにちは。」
彼女の返事はいつも素っ気ない。けれど、その瞳はまっすぐに茜を見ていた。
茜は鉛筆を握ったまま、知らぬ間に頬がゆるんでいるのを感じた。冷たさと真っ直ぐさ。その両方を一度に思い出すと、胸の奥に小さな灯がともるようだった。
「お姉ちゃーん、はやく夕飯にしようよー!」
階下から妹の声が飛んできた。
「はいはい!」と明るく答える。
気づくとノートの余白にはさっきから鉛筆の先で描いた小さな円がいくつも重なっていた。
茜は苦笑いをして消しゴムをかけた。心の中では、渡り廊下での短いやりとりが何度も再生される。
――明日も桃子に話せたらいいな。
昼休み。
校舎の端にある空き教室は、あまり人がよりつかない。遠く運動場から届く笛の音が、静けさをいっそう際立たせていた。
扉を押し開けた茜は、そこにすでに桃子が座っているのを見て、すこし眺めた。窓際の席で彼女は本を開き、手元には半分ほど食べ進められた弁当が置かれている。
「……ここ、使ってもいい?」
茜は努めて気楽な調子で声をかけた。
桃子は数秒だけ視線を上げ、淡々とした声で
「どうぞ」と答える。
その口ぶりは年上相手には冷ややかにも聞こえるが咎めるほどでもない。
茜は向かいに腰を下ろし、弁当の蓋を外した。
「ここだと落ち着くね。人が多いとどうも疲れちゃって」
「……わかります」
桃子は箸を持ち直し、わずかに首を傾ける。その一言に気遣いらしきものはなく、ただ事実を述べただけのように響いた。だがその無機質さの中に、心が澄む感じがあった。
「本、好きなんだ?」
茜は机に置かれた文庫本へ目をやる。
「……はい。」
「どんなの読むの?」
「今日は短編です。」
桃子は必要最小限の言葉で答える。そのたびに茜は、薄い壁を一枚ずつ剥がしているような感覚にとらわれた。
「私、読書ってどうも長続きしないんだ。すぐ別のことしたくなっちゃって」
「……向き不向き、あると思います」
そっけない返答に、茜は口元を緩めた。気を使った優しさではなく、正直な断定。だからこそ、不思議と安心できる。
「でも、桃子が好きなら私も読書をしてみようかな。」
「そうですか。」
カーテンが風に揺れ、白い布が机の端をかすめる。桃子は瞬きひとつせず外を見つめ、その横顔に茜の胸がざわついた。
ほんの数分の会話にすぎなかった。それでも茜は、胸の奥に小さな灯がともるのを感じていた。
――もっと話したい。もっと彼女のことを知りたい。
その思いが、昼下がりの光よりも強く茜の中で輝いていた。