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2、桃と豆

 校内にレクリエーション週間が訪れた。

 この学校では生徒同士の交流を深めようと、学年や部活動の枠を超え、誰もが気軽に参加できる小さな催しが点々と開かれている。体育館からはボールの弾む音が響き、音楽室では不揃いな歌声が折り重なっていた。


 家庭科室の入り口に画鋲で留められた一枚の紙には「伝統食を作ろう」と大きな文字があり、「煮豆」という文字が黒いインクで少し傾いて記されていた。


 桃子が参加したのは、友人に頼まれたからにすぎず、とりわけ和食に興味があったわけではない。料理よりも家庭科室の窓から見える中庭の紫陽花に興味をもった。


 家庭科室には十数人の生徒が集まっていた。机の上に置かれた大きなボウルの中では、大豆が水を含んで丸みを増し、表面に小さな気泡を浮かべていた。蛍光灯の白い光が豆の輪郭を鈍く照らしている。

 桃子がエプロンの紐を背中で結び、持ち場に立ったとき、背後から柔らかい声が落ちてきた。


「よりによって、豆ね。」


 振り返ると、茜先輩が立っていた。三年生の彼女がわざわざ下級生の集まりに現れた理由は誰も尋ねなかった。彼女はどこにいても不自然さを纏わない人だった。たぶん、美人な彼女を眺めていたいという周りの下心もあると思うが。

 友人も茜先輩がここを選ぶと情報をつかみ、ひとりでは怖いからと桃子を誘った。


「豆だと何か、都合が悪いんですか?」

「私、豆だけは苦手で……だからこそ挑戦してみようかと思って。」

「先輩はチャレンジャーなんですね!」

「嫌いなものに克服するとかかっこいいです。」


 桃子以外の下級生が囃し立てるように茜の周りをかこんでいる。


 桃子は賑やかなグループから離れて、火を入れた鍋を見つめた。水面が揺れ、やがて白い湯気が立ちのぼる。最初に広がった青臭い香りが、窓から漂ってきた湿った匂いをすぐに覆い隠していった。


 班ごとに作業は分けられ、桃子は見知らぬ同級生二人とひとつの鍋を任されていた。木べらで豆をかき混ぜる。単調だが、油断すれば底に焦げができる。指先にわずかな緊張を含ませながら、桃子は木べらを回した。


「火加減はこれで平気?」


 隣に立つ影に気づき、顔を上げると、茜先輩が鍋を覗き込んでいた。本来は別の班にいるはずなのに、自然にこちらへ紛れ込んでいる。自由な人だ。


「大丈夫です。」

「頼もしいね。私なんて、すぐ失敗しちゃいそう。」

「自分の班に戻らなくていいんですか。」

「大丈夫、むしろ手をださないでくださいって言われちゃった。」


 肩がかすかに触れ、桃子は無意識に半歩身を引いた。茜先輩は気づかないふりをして、さらに鍋の中へと身を寄せた。



「家ではこの倍はつくるよ。食卓は戦場みたいで、おかずはあっという間に消える。ご飯も、炊飯器が二台フル稼働だよ。」


 茜先輩は記憶を語るように笑い、桃子はぶつぶつ沸く煮汁に目を凝らした。


 豆が柔らかく煮えた頃、小皿に取り分けられ、試食の時間となった。

 桃子は箸でひと粒つまみ、掌にのせると口に運ぶ。甘さが舌に広がり、薄い皮の感触が静かに喉を通る。素朴で、なごむ味だった。


「桃子ちゃん、それ美味しい?」

「……普通です。」

「じゃあ、一粒ちょうだい。」


 桃子は豆を摘み、茜先輩の手の上におとした。彼女は躊躇わず口の中に放り込み、噛んで、ふっと笑った。


「うん、やっぱり豆は豆だね。」

「だから言ったじゃないですか。」

「でも君がくれると、不思議と違って感じる。」


 そう言いながら、苦手そうに眉を寄せつつももう一粒を自分で口に入れた。そこには楽しさに似た微笑みが浮かんでいた。その様子を他の生徒を見ていたからだろう、「先輩、わたしのも食べてください。」と取り囲まれ、茜はひどい顔をしていた。


 桃子は内心、「ご愁傷様です」と思っていた。




 試食が終わると、桃子は鍋を流しに運び、こびりついた煮汁を水で洗い落とした。


「私も手伝うよ。」


 茜先輩は布巾を手に取り、机を丁寧に拭いた。その几帳面な動きには、家庭的な気配が漂っていた。


「君と一緒にいると、不思議と落ち着く。」

「……私は何もしてません。」

「そういう無表情さが、逆に心地いいんだよ。」


 鍋を洗い籠にふせると、軽やかな音が響いた。

 茜先輩は桃子のすぐ近くの椅子に腰を下ろした。


「豆なんて一粒も口にしたくない。でも君のつくったものは不思議と食べたくなった。」

「……気のせいじゃないですか。」

「そうかもしれない。でも、その気のせいが嬉しいの。」


 桃子は返事をせず、布巾を絞っていた。

 作業が終わった頃、時計の針は6時を回っていた。窓の外は群青に沈み、紫陽花は影の中で輪郭を失っていた。


「今日みたいな時間って、すごく特別に思える。」

「誰でも参加できる行事です。」

「そうじゃなくて。君と過ごせたことが、特別なんだよ。」


 鞄を肩にかけた桃子は、冷ややかに言葉を返した。

「私は特に、そう感じてはいません」


 一瞬、茜先輩の唇が尖ったが、すぐに穏やかな笑みに戻った。

「そういう返しも、悪くないね。」


 外に出ると涼しい風が心地よかった。

 衣服にはまだ豆の匂いが染みついている気がした。


 その夜、机に向かう桃子は、教科書の片隅に印刷された大豆の挿絵を見つけた。昼間の光景がよみがえる。苦手そうに眉を寄せながらも皆がつくった豆ををたべていた茜先輩。


 「落ち着く」と桃子だけに告げた低い声。


 桃子はペンを持つ手を止め、静かに息を吐いた。心臓が、ほんのわずかに速く打っているのを感じながら。

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