奈良へ
ふとこれまで触れられなかったことを思い出した。ずっと胸に引っかかっていた。美紀の過去はおおよその事は聞いていたけど、思い切って、「美紀さん…無理にとは言わないけど、家庭のことを少し聞かせてくれませんか」と、言った。
美紀は少しだけ体をこわばらせ、目を閉じた。しばらく沈黙が流れた後、小さく首を振って、
「今は…まだ話せない。心の中が、ぐちゃぐちゃで…」と絞り出すように答えた。英一はそれ以上聞かず、美紀を抱きしめた。ただそっと背中をさすりながら、「大丈夫、無理しないで。話したくなった時で良いんですよ」とだけ囁いた。
美紀は、「もうDVは無いから、安心して」と、だけ言った。
英一の、やさしさとぬくもりに身を任せ、目を閉じた。英一の深い思いやりが、少しだけ彼女の心を和らげていくようだった。そして、またお互い身を寄せ合い愛し合った。英一は、身体の心配をしていたのだが何とか復活して、美紀が絶頂に達するのを確認したので役割を果たしたと少し安堵していた。
美紀は、「そんなことは気にしない。英一さんの顔を近くで見て一緒にいるだけで良いの」と言いながらも、英一にとっては、年齢的にも最も重要な事だった。
ホテルに入ってから既に3時間になっていたので、英一はそろそろ出ましょうかと、言った。二人の名残惜しい時間が過ぎて、別れの時が来た。
美紀は前回とは少し違っていた。
ホテルを出て、美紀に
「サングラスは、もうかけないの」と聞いたら、
「持っているけど、今日はもう良いの」と答えが返って来た。そして美紀から
「今度は、ゆっくりお酒を飲みましょう。そしてカラオケもしたい」と言ったので、
「そうしましょうか。楽しみにしています。」と、言った。そして、
「私、少し変わったでしょ!」と言ったので、
「そうですね。少し慣れて来たみたいですね。」と、言ったら
「私、苦しかった辛い過去は消えないから仕方ないけど、これからは少しづつ普通を取り戻そうと変わって行くの」と、言って微笑んだ。
美紀を品川駅まで見送った。
この時は、お互いに普通に暖かく通じ合ったものを感じながら美紀は、
「明日の名古屋でのお仕事を頑張る」と改めて自分に言い聞かせる様に、笑って手を振った。
英一は、美紀を改札で見送ってから、まだ多くの人々が行き交う熱気のある品川駅の長い通路をゆっくりと歩いて、湘南行きのホームに向かった。
英一は、疲れが出て頭の中に何かがよどんでいた。
電車は通勤ラッシュだったが、とにかく座りたかった。
美紀と別れてから、またメールのやり取りの日常に戻った。
美紀は、仕事で忙しそうに日々を過ごしていた。
何気ない日常のメールのやり取りをして、三か月ほど経った頃、英一はふと美紀の住む奈良に行って見たいと思った。
奈良もゆっくり見たことが無かったし、こんな機会でしか行けないと思った。
英一は、美紀に都合を聞いた。美紀が喜んでいる状況が手に取るように解った。
「ありがとう。来てくれるならとても嬉しい」と、言った。
「じゃ、行く日にちが決まったら連絡します」
英一の奈良の記憶が、若い時に仕事を兼ねて行ったらしくあいまいだったが、せっかくの機会なので、修学旅行気分で観光でもしようと思っていた。
夏休みシーズンなので、新幹線もほぼ満員だったが、奈良駅も人込みで混んでいた。
約束の時間に、改札で美紀は笑顔で待っていた。二人は想いがこみ上げて来るのを我慢した。




