最終章 堕天の記憶
その夜、雨は静かに降っていた。
灰色の空。濡れたコンクリート。血の臭い。
黒スーツの男は、立ち尽くしていた。
足元には、一人の男の死体。
その手には、まだ刃物が握られていた。
「時間かかりそうだな……」
アザゼルはぼそりと呟いた。
まるで誰かと会話しているように。
まるで、この“人間”がまともに理解できる存在ではないとでも言うように。
「ギフト……どうしようかなあ」
ゆっくりと、彼は膝をついて死体を見下ろした。
「せっかくだし、面白いのにするか。……そうだな」
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「“触れた人間の悪意を膨張させる”。うん、これでいいや」
そして、アザゼルは――世界を壊し始めた。
◆
その名前は、かつて天界でも知られていた。
“記録官アザゼル”。
天使の中でも最も冷静で、知的で、誠実で……そして、感情を持たなかった。
「人間は愚かです」
「殺し合い、奪い合い、愛を口にしながら憎しみを育てる」
神は言った。「それでも愛しなさい」と。
だが、アザゼルは納得できなかった。
何百年と記録を続けてきた彼にとって、人間という存在は**“記録に値しない失敗作”**だった。
そして、彼は“観察者”であるという役目を破った。
静かに。理性的に。
――天界で、天使たちを殺し始めた。
その理由も、表情も、全く語らずに。
アザゼルの殺しは、意味がなかった。
正確に言えば、「意味がないこと」を選んで殺した。
命令でも、衝動でも、復讐でもない。
ただ、「それが正しいと思った」から。
「人間は破滅すべきです。神がそれを望まぬのなら、私がやる」
神は、彼を天界から追放した。
裁きの言葉はこうだった。
「お前の内に宿るもの、それこそが“最悪のギフト”である」
「それは人に与えるものではない。お前は“その力”をもって、地に堕ちろ」
こうして、アザゼルは「堕天使」となった。
人間の姿を与えられ、地上へと落とされた。
◆
最初の頃、彼は記憶を失っていた。
ただの男として、町を歩き、名前も知らず、職もなく、感情も薄いまま過ごしていた。
「名前? ああ、ない。呼びたければ“アザゼル”でいい」
そうやって言葉を交わす相手すら、ほとんどいなかった。
だが、ある日。
目の前で起きた“暴力”を見た瞬間、彼の中で何かが目覚めた。
男が女を殴り、女が子どもを責め、子どもが動物を殺す。
その循環に、彼は微笑んだ。
「……変わってないな、人間は」
記憶が、戻った。
そして、彼は人間に触れ始めた。
ひとり、またひとり。
“悪意”を肥大させ、人を狂わせ、社会を歪ませ、やがて世界全体を“殺意”で染めていった。
アザゼルは楽しそうだった。
いや、ただ黙々と、壊していた。機械のように。冷徹に。
◆
2031年5月13日。
彼は、目的を達成した。
地上に人はもういなかった。
殺し合いは連鎖し、狂気は伝染し、国境も文化も宗教も言葉も関係なく、人類は終わった。
アザゼルは、ただひとこと言った。
「ようやく、静かになった」
そのとき、自分の胸に何かが刺さっていることに気づいた。
――剣。
“自分自身”が、自分の心臓を貫いていた。
「……なるほど。これが、“終わり”か」
そして、彼は死んだ。
そのはずだった。
◆
――目を覚ますと、少年が自分を見ていた。
レントンだった。
そして、隣には少女。
予知夢の少女――エレン。
だが、何かが違う。
アザゼルの目は虚ろだった。
レントンとエレンは、静かに彼に近づく。
「よかった……記憶が、完全に消えてる」
「でも、なぜ……?」
彼らは、能力と能力を混ぜ合わせる能力者の力を借り、アザゼルの記憶を“改竄”したのだった。
過去の罪も、天界の記憶も、自分が世界を壊したことすらも――すべて、消した。
「これで、“敵”は消えた……」
そうエレンは言った。
だけど、次の瞬間。
空が割れた。
黒い、何かが落ちてくる。
アザゼルがいなくなっても、地球は終わりを迎えようとしていた。
「……なんで? 世界が……まだ壊れていく……」
レントンは呆然と呟いた。
アザゼルは原因じゃなかったのか?
彼は“悪”ではなかったのか?
じゃあ、本当の“終わり”をもたらすものは――?
アザゼルは、空を見上げて言った。
「……君たちの顔、どこかで見た気がするな」
記憶を失ったアザゼルは、微笑んだ。
もう、敵ではない。
だが、何も知らない“最強の味方”がここに生まれた。
そうして、次の物語が幕を開ける。