帝国の忠臣を天下の逆賊へと生まれ変わらせた悪妻‥‥‥それは誤解です!
よろしくお願いします。
愛していた妻が、死んだ。流行り病だった。
初めはただ、政略結婚という名の下に、互いの利益だけを追求した形で結ばれた関係にすぎないものだった。
大切だと気が付いたのは――失った後だった。
彼女に関わるもの全てが遺族に引き取られてしまった後、後継ぎもなく、形見を預かることさえ許されず‥‥‥しかし、そんな憐れな男のもとに、皇帝陛下の命令によって新しい妻が宛がわれる事になった。
その男より、十三歳も年下の妻だった。
「あなたの妻になるぐらいなら死んだ方がマシよ‼ 今すぐ私を殺しなさいっ‼ さもなければ自分で死んでやる‼」
威勢の良い誓いの言葉を、羽交い絞めにされながら叫ぶ憐れな妻‥‥‥いや、少女。
‥‥‥当然だった。何故なら――、
帝国イスタニシュ領土を脅かした連合国の一公主として国を追われ、両親の首を目の前で斬り落とされたのだから。
他でもない、“夫”となる男がそうした。
その後は有用な人質として人身御供の如くイスタニシュに連行し、和平という名の全面降伏の為の道具として王の御前に差し出された。
そして半年後、ただの少女と成り下がった少女は、事もあろうに仇の妻としてイスタニシュ繁栄の礎となる為に此処、アストリア伯爵家に嫁がされる。
アストリア次期伯爵を産むために。
リリアナ・ディ・フォルニーア。齢八歳。
少女こそ、イスタニシュの死神こと、イグニス・ド・アストリアの新しい妻である。
♢
――十年後。
「見て下さい!やっとアストリア領が見えてきました!」
イグニスがその声を聞いて顔を上げると、山間から僅かに白塗りの尖塔が見えた。
それは、イグニスを一団の将とし出征してから約二か月と半月ぶりとなる帰郷の最中だった。
険しい山道を行軍していた列から歓喜の声が幾つも上がる。無事に辿り着いた事を心から喜ぶ声だ。
予定よりも大分早い帰還であったが、何度も死線を潜り抜けた者達にとって、この瞬間がどれだけ待ち遠しかった事だろう。
今回の出征に伴い、五千を超える兵士を纏め上げ、血潮飛び交う戦場に鋼の決意で臨んだイグニスもまた、そんな彼らと同じ気持ちであった。
自然と口元に笑みが浮かぶのをイグニスは自覚した。
「将軍、今夜は無事帰還の祝杯ですね!宴会を開きましょう!」
「そうですよ!盛大にパーっとやりましょう!」
いつの間にかイグニスの隣に馬を寄せていた副官二人が嬉々として盃を煽る真似をする。
つい今し方まで蓄積された疲労が顔に出ていたのが嘘のようだ。喜色満面な笑みで一行の歩みを促すその姿にイグニスは小さな笑いを零した。
「‥‥‥悪いが、私は宴会には出られない」
「えぇっ!?将軍来ないんですか!?」
「すまない‥‥‥だが、費用は私が持つ。全員好きなだけ楽しんでほしい」
イグニスの太っ腹な宣言に、行列から割れんばかりの歓声が沸き起こる。
戦果を挙げた事で各々の懐は温かく、その上でタダ酒とくれば喜ばない者などいない。
俄然張り切り出す部下たちの一方で、副官二人がげんなりとした顔で肩を落とした。
「またですか、将軍」
「せめて一杯目だけでも付き合ってくだされば‥‥‥真っ先に先陣を切った主役がいないなんて」
タダ酒より、一番の功労者が不参加という事態に納得がいかないらしい。不平を零す二人を脇に、イグニスは申し訳なさそうにやや首を竦めた。
「吉報を今か今かと待つ者がいる。明朝首都に発つ予定だから、今日は早めに休むつもりなんだ」
“休むつもり”――イグニスの言葉を聞き、副官二人は一瞬視線を交差させた。
(‥‥‥またか)
思わず落胆が顔に滲んだが、直ぐに表情を引き締める。
「‥‥‥そうですか。残念です」
けれど、気遣わし気な部下の視線の奥にある本音を、イグニスは正確に把握していた。
「あぁ、すまない」
「――いえ!謝ることなんか一つも無いですよ、将軍!」
空元気を装う二人を眺めつつ、苦笑したイグニスが「そういえば」と全く別の話題を振った。
場を和ませようと配慮する上官としばし他愛のない会話をした後、副官二人は「それでは」と後ろの列へと下がったのだった。
「‥‥‥まだ上手くいってないみたいだな」
列に戻った副官は、相方に密やかな声を送った。
すると、列の中腹に戻るはずの相方が馬首を翻し、話を振ってきた相棒に足並みを揃えた。
「――だな。奥様が来てからもう十年か」
やや列から離れた位置取りで並び、二人の男はほぼ同時に溜息を漏らした。
「そろそろ改心してもいい頃じゃないかと思うんだがなぁ。‥‥‥将軍が助けなかったら夫人は今頃‥‥‥」
言いつつ、遠い目で空を見上げる相棒に、話を振った方が眉根を寄せた。
「まぁ将軍は奥様にとって仇だから気持ちは分からないわけじゃないけれど」
「でも戦争するってそういうことだろ?ましてやもう子供じゃないんだし‥‥‥いや、確かに可哀想ではあるし、俺達が言えた立場でもないんだろうけど‥‥‥とはいえ戦を最初にふっかけたのは連合の方だぜ?」
「王命とはいえ酷だな‥‥‥夫人も、もちろん将軍もさ」
「まぁな‥‥‥それか将軍があの話を考え直してくれれば別なんだけど」
「‥‥‥あれか、妾だろ?」
「――そ。なんせ将軍には跡継ぎがいないからなぁ‥‥‥」
そこで男はふと崖下に目を向け、アストリアの美しい街並みを眺めた。
イグニスが領主としてやってきてから早十五年。彼のお陰でアストリアは見違えるように生まれ変わった。
痩せ地として知られていた大地が今では嘘のようだ。
「その手の話が嫌いな人だから。宴会に来なくなったのもそのせいかもな」
‥‥‥こんな幸せがいつまでも続けばいいのに。領民の誰もがイグニスの後継者を待ち望んでいる状態である。
それはイグニス直属の部下である二人にとっても同じ。いや、むしろ彼ら以上に期待値が高い。
だが‥‥‥事はそう上手くはいかない。
副官二人が必要以上に気にかけるのも仕方のないことであった。
今年三十二歳となるイグニスからは、後継者を作ろうとする意志が全く感じられないからである。
――“イスタニシュの白い死神”
イスタニシュと敵対する連合国が、イグニスを恐ろしく思うあまり、いつしかそう呼ぶようになった。
“戦場でもし、白い鎧を身に纏った白髪の男と出くわしたら最期、生きて帰れるという希望は棄てよ”
“なぜなら、彼は人ではないからだ。我々が人である限り、けして死から逃れる事などできないのだから”
当時十五歳の少年に付けられた異名である。
初陣から、たったの三年だった。
たった三年という期間で、イグニスの名は国内外問わず大陸の端にまで響くようになった。
そんな彼の歩んできた道筋は、けして生易しいものではなく――だからこそ、イグニスが死神と呼ばれる以前から彼を知る者‥‥‥副官二人にとっては、敬愛すべき主の未来を誰よりも案じていたのである。
――イグニスの出自は、イスタニシュで有数のアストリア侯爵家である。
ただし、本妻とは別の情婦との間に生まれた子であり、アストリア侯爵が鬼籍に入った際、次期侯爵となる実の兄に身一つで追い出されたという不遇な過去があった。
侯爵家という肩書を持ちながら、その権限と財産の一切を取り上げられたイグニスを養おうとする貴族は一人もいなかった。
けれどもほんの一握りの家臣が、追い出されたイグニスの後を追いかけた。‥‥‥その一握りの家臣の中に、上記の副官二名も含まれている。
そしてイグニスは、イグニスの為に職を手放した元家臣たちの為に剣を取り、戦場に出た。
目的は明快、多額の報奨金を得るためだ。
何の後ろ盾もなかった彼は、歩兵として幾度も最前線で戦い抜いた。
参戦した数だけ生き残り、功績を上げ、徐々に名を上げ、三年という異例の速さで高位の騎士爵位を賜るほど目覚ましい成長を遂げる。
それはイグニスを放逐し、最前線で戦場に立つよう根回しをしていた、アストリア侯爵家も舌を巻くほどの進化だった。
やがて皇帝がイグニスの噂を聞きつけ、彼に伯爵位を授ける際に旧ナバール領を下賜。
そのナバール領こそ、現在イグニスが治めるアストリア領である。
「ラゼット夫人がいた頃が懐かしいな」
「あれから、もう十一年か‥‥‥」
イグニスには病気で亡くした前妻がいる。言わずもがな、ラゼット夫人がその前妻である。
彼女がイグニスに嫁ぐ際、持参金代わりに小さな鉱山が譲渡された。
その鉱山を商売の起点にと試行錯誤したラゼット夫人のお陰で、アストリアはみるみる豊かになった。
城の外でイグニスが戦果を挙げ、国内ではラゼット夫人が貴族や商人たちと太いパイプを作り――そうしてアストリア領は今や第二の都と呼ばれるようにまでなった。
「夫人が御健在だったら、将軍の負担も減るのに。それか家事のできる第二夫人でもいてくれれば話は早いんだが‥‥‥」
懸念は絶えない。
それもこれも全ては、イグニスを隣で支えてくれるはずの現夫人が、部屋に閉じこもったきり役目を放棄しているからである。
「――そんなの、知らないわよ」
だったら私に期待するのをやめてしまえばいい。
‥‥‥というのが現アストリア夫人リリアナの意見である。
イグニス帰還の一報を受けた後、リリアナは僅かな苛立ちを胸に窓辺からその一団を見下ろしていた。
――今でも忘れない。
暗がりの中での奇襲だった。それでも、ほぼ目の前で愛する両親の首を斬られた。そして斬った男の妻にならなければならないという屈辱に、逃げ出さなかった事をまずは褒め称えるべきよ――違う?
全くもって望んでもなかった婚姻をさせられた上、勝手に期待して勝手に落胆し、さらには役に立たない引き籠り妻の烙印まで押される羽目になるとは不愉快だ。
本当なら、国が落とされたあの夜に死んでいたはずだったのに。
憎き敵であり仇と、何が悲しくて仲良く子作りなんかしなくちゃいけないの。
正気の沙汰ではない。それをまだ八歳の子供に命じるだなんて。
万が一そんな状況になったとして、亡国の姫がやることは一つしかない。
ノコノコ寝所に上がり込んできたところを、復讐のために隠しナイフでグサッ!
奪われた故郷の為に一矢報いてから潔く自害。これくらいやっても不思議でも何でもない。
事実、リリアナはそうしようとした。‥‥‥そうしてやるつもりだった。
一度目の人生で――、
憎きイグニスが、最期の最期までリリアナを守り抜き、その罪を被って自ら処刑台に上がるまでは。
「君は生きるべき人だ、リリアナ!」
迫りくる追手と対峙しながら叫ぶイグニスの声を、リリアナは信じられない思いで耳にした。
命からがら馬を駆るリリアナの後を、何人も追わせまいと立ち塞がるイグニスの壮絶な後ろ姿を彼女は知っている。
リリアナを憐れんで連合国側に寝返ったなどと、売国奴として事実無根の汚名を着せられたイグニスの最期はあまりにも悲惨だった。
それなのに、決死の思いで逃がしてくれたイグニスの思いも虚しく、リリアナもまた捕えられ結局助かることはなかった。
冷たく無機質な牢獄の中、命尽きようとしていたリリアナは思う。
“一体なぜ、彼は私なんかの為に命を懸けたのか”
そんな疑問と同時に、ある思いが芽生えた。
イグニスへの感謝と‥‥‥愛だった。
「たとえ仇だとしても、あんな死に方をするような人じゃなかった」
リリアナはそう、一度未来で死んでから過去に戻ってきた言わば‥‥‥回帰者であった。
城門から続々と入ってくるイグニス率いる騎士団の列を窓から認め、ますます騒がしくなる女侍従たちの声が、壁一枚挟んだこちら側にまで聞こえてきている。
リリアナの苛立ちの理由はそれだった。
立場を弁えず、あわよくばと人の夫に恋慕する底意地の悪さに腹が立っていたのだ。
この黄色い声の中のどれか一つに、イグニスの寵愛を密かに受けていると噂のメギツネがいるのかと思うと腸が今にも煮えくり返りそうになる。
けれど、ここで負けるわけにはいかない。リリアナは決意を胸に部屋を出た。
これまで自室に引き籠ってイグニスを嫌悪していた自分には、夫を問いただす事はおろか、そのメギツネを責める権利もない。
(どうせならもっと幼い頃に戻してほしかったわ)
城内を早足に闊歩しながら向かった先は、残酷な運命を共に背負った夫のいる庭園。
(でも、だったら‥‥‥今やれることをやるまでだわ)
イグニスをこのまま見殺しにはできない。いや、させない。
未来を変える手段として、「イグニスを救え」と――誰かは知らない優しい声を、回帰直前の目覚める間際に確かに聞いた。
そしてそれには、イグニス本人の協力を仰がなければいけないとも。
「あんな最期にならないようにするために‥‥‥後継者をつくらないと!」
一日でも早く!
それが今世におけるリリアナの役目だった。
♢
「お帰りなさい、イグニス」
リリアナの一声によって、イグニスはおろか広場にいた全員の思考が止まった。
全員の注目が、城内から歩いてきたリリアナへと一斉に向かう。大半の者が、どうしてここにあの方が!?と、目を皿のように見開いており、言葉を失ったまま石像の如く固まっている。
(まぁ、そうなるでしょうね)
別段、リリアナは何の不思議も感じなかった。
普段から夫と顔を合わせてこなかった夫人が、突然イグニスを名前呼びで、しかもお出迎えなんて予想外過ぎる事態だろう。
離れすぎたイグニスとの距離を少しでも改善するためだ。リリアナは躊躇わなかった。
「無事の帰還、何よりです」
言うだけではなく物理的にも距離を詰めて微笑む。これには兵士たちもことさらに驚いた。
(下心見え見え‥‥かもしれないけど、いいえ!打てる手は早めに打っておいた方がいいに決まってる!)
リリアナは、イグニスの色素の薄い碧眼を俯瞰から強く見据えた。
出征後は必ず明朝で首都に出向くイグニスの行動パターンを考慮したからこそ、迷ってなんかいられなかった。
身も蓋も無い言い方だが、手っ取り早くベッドインするなら帰還直後がまさに狙い時なのだ。血の気が盛んな兵士の習性を、騎士の妻(の端くれ)が知らないはずがない。
イグニスの様子を食い入るように観察するリリアナを、しかし一方のイグニスは努めて冷静に見つめ返した。
「わざわざ出てきてくれたのか。この寒い中を、一人で」
イグニスは素早く周囲に目配せをし、すると僅かに双眸を細めた。
誰が何といおうと、リリアナはイグニスの妻で伯爵夫人である。侍従の一人も付いておらず、しかも冬の寒空の下、肩掛けや毛皮の一枚もない。遅れて誰かが駆けつけてくる気配すらない事態を、イグニスは見過ごさなかった。
「リアム!」
「――はっ!」
イグニスは背後にいた副官を呼び付けた。
「今すぐヴァロン執事長のところに行って、侍女全員の教育を再度やり直すように命じろ。それと侍女長は降格と減俸を。従わないようなら、追い出して構わない」
「っ‥‥‥ははっ!かしこまりました!」
一瞬面食らった表情を見せた副官が慌てて敬礼をする。
ピンと背筋を伸ばしたままバタバタと駆けていくその後ろ姿を、リリアナはやや驚きながら見送った。
(‥‥‥意外ね)
あのイグニスがまさか人前で私の面子を守る発言をするなんて。
正しい判断であることには間違いない。ただし、本来であればこれは城内の家事を担当する夫人の役目だ。
(私が言及したところで言うことを訊かない侍女達を放っておくつもりはない、という意思表示に他ならないけれど‥‥‥)
それは、これまで妻としての役割を放棄していたリリアナに一切干渉してこなかったイグニスが、リリアナを自分の妻だと認めているという真実を配下に示すものに違いなかった。
(とっくに噂の妾に夫人の権限を渡しているのかと思ったのに)
城内の者を罰する権限は、雇用主である城主とその妻の二人だけが持つものだ。
他は必ず上記二人の意思を確認する必要があり、勝手な処罰は許されない。
(‥‥‥どういうつもりなのかしら)
爵位ある男性が愛人を持つ事自体は珍しいことじゃない。あまり公にすることではない事とはいえ、後継者作りは重要な義務だからだ。
とはいえ、何かと悪い噂が付きまとうリリアナに関して言えば、別にイグニスが愛妾を持つ事自体は同情の余地もある。そればかりか、むしろ周りから率先して進められるくらいにはリリアナの印象は悪かった。
はっきり言おう。リリアナは、イグニスが自分に愛想を尽かしていると思っていたからこそ驚いたのだ。
「リリアナ」
「‥‥‥えっ?」
水を打ったような静寂の中、イグニスの声に呼ばれてリリアナがハッとする。
「何か話があるのでは?」
見抜かれていた。
その通りだが、少々残念な気がするリリアナだった。タダでは出迎えに来ないだろうという予測の上での問いかけなのだろうが、そこから現在のリリアナへの信用度が窺えたからだ。
ここで怯んではいけない。リリアナは再度心に決め、頭二つ分は高いイグニスを見上げた。
「お願いが、あるのです」
「願い?」
イグニスが首を傾げた。
「なにか欲しいものがあるなら、」
「違います!イグニスにしか頼めないものなのです」
「‥‥‥私だけ?」
「そうです。あなたが私に直接与えてくださらなければ、それは叶いません」
奇妙な顔で逡巡するイグニス。
その背後では察しがついたらしい、勘の良い者からささやかな動揺の声がした。だがイグニスは本気で分からないのか、顎先に手をあてたまま深く考え込む姿勢を最後まで崩さなかった。
「‥‥‥すまない、それは何かな」
「お分かりになりませんか?本当に?」
「‥‥‥」
「――そうですか。であれば‥‥‥はっきり申し上げます!」
そこで一拍置き、リリアナは口を開いた。
「私は、あなたとの子供が欲しいのです」
『えぇぇぇっ!?』
声にならない驚愕と衝撃が、その場に居合わせた全員の間にはしる。
リリアナのストレートすぎる希求は、普段冷静沈着なイグニスでさえ言葉を詰まらせて目を見張るほどだった。
(言った! 言ったわよ‥‥‥!)
公然の場で投げ込まれた爆弾に一同が絶句する中、一方リリアナは妙な高揚感を覚えていた。
投げ込んだ本人は達成感で胸がいっぱいだったのである。
ところが、リリアナのその達成感は、イグニスのほんの小さな嘆息一つで消し飛ぶことになった。
「ハァ‥‥‥なるほど」
「‥‥‥?」
「その話は中でしよう、二人で。ここでするべき話ではないから」
わりと赤裸々な夫婦のやり取りを、興味津々と聞き耳を立てていた兵士たちに、イグニスが顔半分振り向きながら一瞥する。
「ぜ、全員、解散っ!」
兵士の一人の慌てふためいた号令がかかった。
途端に脱兎の速さで中庭から逃げていく兵士達を呆れた目線でイグニスが見送る。
そんな不機嫌そうなイグニスの横顔を、リリアナは不安な気持ちで見つめたのだった。
♢
イグニスから「ついておいで」、と言わるがまま、リリアナはその後についていった。
会話らしい会話もなく、ただ無言で案内された先はイグニスの執務室だった。
「誰も通すな」
「かしこまりました」
そう執事に言いつけたイグニスが扉を閉めると、二人きりになった室内で奇妙な沈黙が少しの間流れた。
室内の奥には、夜遅くまで書面と向き合うための大きな机と、その手前に四人掛けの椅子が向かい合わせで鎮座している。伯爵らしく家具は相応に高価なもの。しかし一切無駄のない仕事部屋といった風情が現れている部屋でもある。実を言うと、リリアナがこの部屋に入るのは、これが初めての事だった。
窓際に立ち、何を考えているのか読めない表情で腕を組むイグニスが、いまだ扉前で立ち尽くしている不満顔のリリアナを窺う。
先に口を開いたのは、リリアナだった。
「あえて私室を選ばなかったのは、人目を気にして‥‥‥ですか?」
「‥‥‥どうしてそう思う?」
「問いかけに問いかけで答えないで下さい。――あなたの私室に私が入れば、私達の夫婦仲が良好だとみんなが思いますから」
私室と一口に言っても、リリアナが言っているのは寝室という意味であった。
“二人で”なんて言うものだから、仕事場ではなく個人的な部屋の方に案内してくれるとばかり思っていたのだ。
‥‥‥内心そういう期待があったリリアナとしては、肩透かしを食らった気分であり、正直に申せば、仕事場かよ‥‥‥と。のっけからヤル気を削がれる場所を用意されてしまったのである。
まぁ、初めてがソファーでというのも、なかなか乙なものなのかもしれないが。
だがしかし、イグニスはそんなリリアナの邪な思惑をばっさりと切り捨てた。
「君の云う通り。そういう憶測は困るから」
これに、リリアナは即座に顔を上げた。
「――っ誰が困るんですか!?」
怒りを露わにイグニスを睨む。カッカッ、と靴音を鳴らしながらイグニスに詰め寄ったリリアナは、吼えるように言葉を叩きつけた。
「あなたの妾の事を言っているの!?」
直後、イグニスの顔色が変わる。
「‥‥‥は?」
「その女の事がどれだけ大切なのかよく分かりました‥‥‥っでも、それでも、私はあなたの妻よ!」
「何を言っているんだ?」
「――確かに私は今まで夫人としての役目を放棄していましたし、昔は酷い言葉もたくさん‥‥‥それについては弁明なんてできません。けれど、それはあなたが私にとっての仇だから割り切れない部分もあって――」
「‥‥‥リリアナ」
「っい、いいえ!それでも今は真剣にあなたと向き合わなければならないと思ったからこそ、こうして直談判しにきたのであって。妾の女性の事は――」
「リリアナ!」
突然大声でイグニスが割り込む。
ハッと言葉を止めたリリアナは、そこで厳しい眼差しを向けるイグニスと改めて視線を合わせた。
死神と戦場で恐れられるに相応しい殺伐とした冷たい眼光が、リリアナの背筋を震わせる。
「私の妻だという君の口から何故“妾”なんて言葉が出てくるのか分からないが‥‥‥私にはそんな者はいないよ」
「えっ‥‥‥」
リリアナは目が醒めたような顔で目を丸く見開いた。
「それと‥‥‥正直に言おう。私は妻としての役割を君に望んではない」
「なっ‥‥‥!」
今度は目を見開いたまま青ざめる番だった。
「‥‥‥すまないが、そういう期待は一切していない」
明確な拒否に、リリアナは一瞬視界が大きく傾いたような気がした。
「‥‥‥!?」
イグニスがわざわざ場所を変えた理由が、まさかこれだったとは。リリアナは絶句する。
「君がアストリアの夫人としての志を胸に心を開いてくれたのは嬉しく思う。それは事実だ、でも」
「‥‥‥でも?」
「君は私よりも若く、そして幼いからだ。子供を産むには早すぎる」
そんなことは――と、言いかけたリリアナをイグニスが手で制する。
「それに、君の祖国を滅ぼした張本人に無理して心を開く必要はない。今も酷な状況を強いられている君が、そこまでする必要なんかない‥‥‥今後、城の者の管理は徹底させる。君を追い詰める発言を口にした者には相応の罰を与えるつもりだ。謝罪できるような立場にすらないが、今まですまなかった」
再び沈黙が落ちた。
さっきから困惑しっぱなしで何も言えないリリアナに、しばらくしてイグニスが言った。
「全てが終わった暁には、出来る限り元の状態にしたフォルニーア領に君を帰そうと思っている。それまではどうか‥‥‥屈辱だろうが、この城の中で持ちこたえてはくれないか?」
「――それだけは、お断りします!」
いきなり、リリアナの声に覇気が宿った。
「それじゃあダメなんです! 絶対にダメ!」
断言できる。それでは過去の二の舞になると。
彼のこの決意をどうにかして捻じ曲げなければ、イグニス自身はおろかアストリア領も、イグニスが全霊をかけて取り戻そうとしている美しいフォルニーア領の水の都も、全てが灰と化してしまう。
必ず、阻止しなければならないのだ。それだけは。
リリアナは、イグニスの薄い顎先に指をかけ、力任せに自分の方に引っ張った。
それは、長年戦場で生きてきたイグニスが意表を突かれる程の速さだった。
互いの鼻先が触れそうな至近距離で、リリアナが呟く。
「私を女王にするなんて――そんな事、絶対にさせませんから」
ハッと、イグニスが目を見張った。
その刹那、リリアナの目に、闘志に似た光が宿る。
「私は、あなたと幸せになりたい。その為に、あなたの子を産みます」
「‥‥‥諦めてくれないか」
「諦めません。どんなに子ども扱いされようと、絶対に」
――かくして、イグニスを救うための、リリアナの二度目の人生が始まった。
読んでくださり本当にありがとうございました。
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色々と勉強中の身です。なにか感想があれば自由にお書きください。どんな些細な事でも。もっと精進します。