【4】悪役令嬢!!!? ~1/3
十月上旬、快晴の土曜日、退院の日の朝。
放射冷却現象によって浄化されたような空気を肌で感じながら、母娘は自宅マンションへと戻りました。
洗濯機の脇に入院時の荷物を置き、着替えを持ってすぐに出かけた先は、近くのスーパー銭湯です。
「ふぁー、これがお風呂かぁ。そういえば五日ぶりなんだなぁ」
洗い場にて、タオルとポンプ式のボディーソープ、それに使いにくい蛇口と、桶と、自分の胸との格闘を終えて、メルタはようやく安息を手に入れたのでした。
メルタの思考は、相対した物についての、まず記憶を検索するところから始まります。
どこかで見たぞ、何だったかなと、知っているにも係わらず、一旦立ち止まってからでないと、すぐには行動に移れないのでした。
その都度既視感が割り込んでくる感覚というのが、一番近いかもしれません。
例えばその物の名称、そして使い方や使用した際の効果、それに続いて食用か否かなど。
一度理解したものについては、すぐに対応できるのですが、そうでない場合は、確認のため、そのたびに動作が一時停止してしまうという状況が続いているのです。
(湯船にタオルを浸けてはだめ。泡のまま入るのもだめ。泳ぐのもだめ。潜るのもだめ、と)
朝一番でまだ人の少ない浴場は、リラックスに最適といえる環境でした。天窓から注ぐのが午前中の自然光というだけで非日常が感じられます。
「ふあーーーーー、気持ちいーい」
奈津実の記憶はあくまでも知識でしかなく、実体験とは異なります。
お風呂という施設も、魔法に頼らない体の洗浄も、メルタにとっては新鮮に感じるのですが、街は病院内よりも情報量がはるかに多く、脳はすでに疲れ切っていました。
目を閉じて休むことで、ようやく自分が今置かれている立場に気が付く有様なのです。
「携帯のチェックはした?メッセージ、たくさん入ってたでしょ」
隣に入ってきた母が尋ねてきました。
「はい。うん。とんでもなく、たくさん」
昨夜はそれらの返信にかなり手間取り、消灯までそれだけで過ごすことになったのです。
もちろんすべて"奈津美"宛てのメッセージなのですが、温かい言葉が限りなく続き、メルタは幾度となく泣きそうになってしまったのでした。
当然、それらの思いを無視してはならないと思います。しかし、そこからが大変。
どう操作してよいやら、何と返事をすればよいやら。結局、通り一辺倒、繰り返しの文句でほとんどを片付けるしかなかったのです。
奈津美の人間関係を把握するにも役立つし、急な連絡にも役に立つ。本当に便利な道具だと思ったのも束の間、その夜のウチに急に苦手な道具のナンバーワンになってしまったのでした。
「滝谷君からは?」
「もちろん」
「何て?」
「明日の午後ウチに来たいって。休んでいた分、家で一緒に勉強しようって」
「そう。しっかり教わっておきなさい」
「うん。そうする」
「あなたがいない間に、お部屋の掃除はちゃんとしておいたから」
「ありがとう、お母さん」
彼とのやり取りだけは何気に楽しくて、本物に出合えることを想像しただけで顔がニヤけてしまいます。
湯船に鼻の下まで浸かってごまかしましたつもりですが、おそらく母には伝わっていたでしょう。
とはいえ、元いた世界とは異なる世界に、ただひとりぼっちであるという状況は、紛れもない事実のようです。
ただその中で、母に以外にも滝谷という頼れそうな人がいてくれたことは、本当にありがたいと感じていたのでした。
魔法も使えないこの場所で暮らすことを考えると、しばらくは不安の種が尽きそうもありません。
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