第九十二話~出陣 四~
第九十二話~出陣 四~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
賈詡の立案した策に従い組織された別動隊、その部隊を率いるのは攴胡赤児であった。彼は牛輔の側近と言える人物で、普段から牛輔より厚遇を得ていたのである。また、名が示す通り漢人ではなく、出身は北方民族であるとされている人物であった。その攴胡赤児に率いられた別動隊が出陣するのだが、その出陣と前後して戦場に、袁術を追う目的で組織された別動隊が動いていることが流布される。敵味方等しく流布されたその話を聞いて驚いたのは、言うまでもなく袁術軍である。特に最前線に手足止めを行っている紀霊と李豊と楽就の三名が、より顕著であった。
「不味い、不味いぞ!」
何せ自分たちが行っていた行動が、裏目に出てしまったのだ。今までは足止めに集中していればよかったが、別動隊が動き始めたとなればそう言ってはいられない。しかも敵の組織した別動隊の目標が、袁術であるとの話も流れてきているのだ。ならばここは、早急に敵を蹴散らしあとを追わなくてはならない。だがしかし、対峙している敵将がそれを許すとはとても思えなかった。先ほどまでとは立場が逆転したことで、自身たちが行ってきたことをそのまま返されることとなるのは必至である。今までは時間こそが自分たちの味方であったが、これからは敵の味方となるのだ。それだけに、このまま漫然と刃を交え続けるなど言語道断であると言っていいだろう。つまるところ、彼らができることなど一つしかない。即ち、一刻も早く敵を蹴散らした上で敵の別動隊が袁術を補足する前に合流する必要がある。 すると紀霊と李豊と楽就は、まるで呼応したかの様に手にした得物を振り抜いていく。同時に三人の中では、今までとは違って敵を討ち果たすという確固たる信念が生まれていた。その思いは、対峙している樊稠と李蒙と楊定をも刺激する。別動隊の話が聞こえてきた時、彼らは今まで自分たちが経験させられていた足止めと言える行動を、そのまま熨斗を付けて返せばいいと考えていた。しかしながら、彼らも武人である。本気を見せてきた相手と戦いたいという思いが、ないわけではないのだ。それ為か樊稠と李蒙と楊定は、迎え撃つようにしっかりと構えたのである。そんな彼らの動きを見て、紀霊は小さく「すまぬ」と呟いていた。
それから暫くの間、奇妙な静けさがこの場を支配する。すぐ近くから聞こえてくる筈である戦場の喧騒すらも、六人の耳には殆ど届いていなかったのであった。
まず、楊定と李豊であるが、先手を取ったのは李豊となる。袁術の身に危険が迫っている以上、可及的速やかに決着を付けなければならない。その思いが、彼を突き動かしたのだ。しかし敵もさる者、李豊の放った一撃をいなして見せたのである。しかもその受け流したことで生じた李豊の僅かな隙を見逃さず、楊定は得物で突いていたのだ。しかし、李豊もただ黙って反撃を受けはしない。どうにか寸でのところで突きを避けてみせるという、見事な動きを見せたのである。その有り様を目の当たりにした楊定は一瞬だけ驚きの表情を浮かべたが、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべつつ獲物を握りしめていた。しかしながら、相対している李豊としては、冷や汗が噴き出すような状況でしかない。実は先ほどの回避も、いわば勘に近い動きであった。楊定が李豊の攻撃をいなしたその時に何とも言えない感覚があり、彼は半ば逃げるように動いたことで結果として避けることができていたのである。もし、その感覚がなければ、今頃は自身の体を貫かれていたかもしれない。そこまで思いが至ったことで、李豊の体には震えと言うか怖気と言うか、ともあれ身震いに襲われていたのだ。その様な李豊の身震いも傍から見れば、武者震いとも取れる。事実、楊定もそのように考えた。その為か、彼の表情から笑みが消える。その代わりに表情は、引き締まっていたのであった。
「行くぞ!」
改めて気を引き締めた楊定から繰り出された一撃は、先ほどの突きを凌駕する速度と威力を持っていた。相手が構えたことで、結果として自身も対応できた李豊であったが、そんな彼の表情はと言えば驚きと苦みがないまぜとなっていた。その理由は、予想などをはるかに凌駕する一撃だったからである。短時間であれば、李豊でもまだしのげるであろうし低いなりにも勝ち目はあるかもしれない。しかし、撃ち合う時間が経てば裁つほど、攻撃をしのげなくなるだろうことを図らずも理解してしまったからだ。とは言え、元から時間など掛けられる筈もない。早急に決着をつけて追撃に入っているという牛輔の繰り出した別動隊から袁術を守らなければならないからだった。その時、李豊は無意識に奥歯を嚙み締めたばかりか、得物を握る両手に力を入れてしまう。その様を見ている楊定からすれば、次の一撃で決めると雄弁に語っているように感じられていた。これは生中な気持ちでは負けると感じ、より一層気合を入れつつ楊定は自身に発破を掛けていた。それなりの数が干戈を交えている戦場にありながら、まるで隔絶でもしているかの様に楊定と李豊の二人には周りの喧騒など入ってこない。ただひたすらに、対峙する相手へ傾注していた。その時、どこからともなく一筋の矢が楊定と李豊の間へ突き立つ。その瞬間、まるで突き立った屋が合図であったかの様に両者は動き始める。その数瞬後、楊定と李豊の立ち位置は入れ替わっていた。両者とも馬に跨りながら、身動ぎ一つしていない。だが、それも僅かの間であり、やがてゆっくりと男が一人、馬上から地面へと落馬していく。しかしてその男は、地面に落ちてからも動く気配はなかった。
「敵将! 討ち取ったり!!」
そのように高らかに宣言したのは、楊定であった。しかし彼も、無傷というわけではない。左肩は切り裂かれており、しかもその怪我が要因となって得物を持てない状況にある。だがそれでも、楊定が勝ちを収めたことに間違いはなかったのであった。
楊定の上げた勝鬨が、両軍入り乱れる戦場に響き渡った。その結果、樊稠らが率いていた董卓勢の精鋭と対峙していた袁術側の兵からの士気が下がってしまう。しかしながら、兵士以上に衝撃を受けていた人物がいる。果たしてその人物とは、楽就と紀霊であった。特に楽就は、今回の戦の前に李豊と共に牛輔率いる董卓軍勢と戦っている。それだけに、李豊が討たれたという衝撃も、一入であった。しかもその衝撃が、大きな隙を生んでしまうのである。何せ楽就は、楊定の張り上げた声を聞くと、李蒙と対峙していたにも関わらず、視線を李蒙から楊定の方へ向けてしまったのだ。まさしく、降って湧いたかのような好機である。そして李蒙が、その好機を逃すわけがない。正に隙を突くといった言葉を体現したかの様に李蒙は、楽就へ一撃を放っていた。そこで李蒙の動きに気付いた楽就はどうにか避けようとするも、李蒙から視線を切ってしまった代償は大きい。とてもではないが、避けることなど無理な状態であった。自身の失態に気付きながらも、思うほど体が動かないことを感じ半ば覚悟を決めた楽就であったが、彼の生存本能は助かる努力を諦めるなど許さなかったようである。ほぼ無意識に楽就は強引に体を動かしており、そのことが功を奏したようで今の一撃で命が取られるなどということはなかった。しかしてそれは、楽就が李蒙の放った今の一撃で死ななかったという事実を表現しているに過ぎない。攻撃自体は、確かに食らっているのだ。当初狙われた心臓こそ避けたものの、李蒙の一撃は確実に楽就の体を貫いていたのである。しかもかなりの重傷であり、今すぐにでも治療を受けなければまず間違いなく落命してしまうことは必至であった。だからといって、この場から離れるわけにもいかない。その理由は言うまでもなく、李蒙を自由にはできないからだ。とは言うものの、大きな怪我を負った楽就では、この先李蒙と長時間戦い続けるなどできるわけがない。何より時を掛ければ掛けるほど、李蒙が勝つことは明白であった。要は。時間を掛けることなど言語道断でしかない。そう判断した楽就が出した結論はというと、体に残る僅かな力を結集した捨て身の攻撃である。もはや残り少ないであろう自身の命を掛けた一撃であり、これには李蒙も面を食らってしまう。確かに一撃で命を刈り取ることはできなかったが、それでも確かな手応えを彼は感じていたのだ。今はまだ生きてはいるが、相手に残された命数は残り少ない。そう思っていたからこそ、李蒙は驚いていた。しかし李蒙も、董卓配下として幾多の戦場に立った男である。正に予想外と言える不意な攻撃を相手が繰り出してきたからといって、何もせず甘んじてその一撃を食らうことなどあり得ない。確かに楽就よりは遅れたものの、李蒙は李蒙で咄嗟に反撃の一撃を繰り出していたのだ。
深手を負っているとは到底思えぬ一撃を繰り出した楽就であったが、やはりその身は重傷を負っている者である。もしかしたら生涯で最高の一撃を繰り出したと感じた楽就であったが、その直後まるで全身を走り抜けたかの様な痛みを感じる。その為、その一撃に込められていた力も、そして速度もわずかではあるが鈍ってしまう。それでも楽就は、自身を奮い起こして攻撃を続行したのだ。正に残り少ない命を賭した攻撃であり、その行動は痛みのせいで逃しかけた何かを呼び戻すことになったのであった。
『ぐがっ!!』
ほぼ同時にお互いの一撃が到達した李蒙と楽就、両者から異口同音の言葉が漏れる。それは、お互いが繰り出していた一撃が、相手を貫いていたことの証明であった。見ると楽就の放った一撃は、相手の腹を貫いている。そして李蒙の放った一撃は、今度こそ正確に心臓を貫いていたのだ。お互いが最後に繰り出した一撃は、相対した者の急所を貫いており、どちらも助かるとは思えない。いわゆる引き分けだと言えるが、既に重傷を負っていた楽就が李蒙の急所を貫いたことを考えれば、楽就が勝利を得たと言ってもいいかもしれない。しかし重傷を負った上に心臓まで貫かれた楽就が、そのことを認識する余裕などない。最後まで握っていた自らの得物から手が離れると、李蒙へもたれ掛かるように倒れていく。そして李蒙もまた、相手の体を受け止めるだけの力は残っていない。そのまま後ろへと、倒れこんだのだった。
対峙していた李蒙と楽就が、絡み合うかのように倒れこんだことを目撃した楊定は痛む左肩を押さえながら駆け寄る。そして片手でどうにか既に落命している楽就を除くと、李蒙へと声を掛けた。その声を聞いて、彼が閉じていた目が少しずつ開いていく。しかしながら李蒙の眼には勿論、顔色にもおよそ生気というものが感じられなかった。確かにまだ息はあるが、間もなく黄泉路へと旅立ってしまうことが楊定にも理解できた……いや、理解できてしまっていた。
「おい! 傷は浅いぞ!!」
本音ではそんなことなど露にも思っていない楊定であるが、それでもそう声を掛けるしかない。しかし楊定の言葉を聞いた李蒙は、力なく首を振っていた。
「すま、ぬ……あと、はた、のむ」
そう一言だけ残した李蒙の目は、静かに閉じていくのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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