第九十一話~出陣 三~
第九十一話~出陣 三~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
袁術の軍勢を分断することに成功した李蒙は、樊稠の軍勢と合流した。これは、賈詡からの指示によるものである。そして樊稠もまた、賈詡より李蒙と合流する旨の指示を受けていたのだ。それゆえに、大した齟齬もなく合流することができたというわけである。こうして轡を並べることとなった樊稠と李蒙は、さらに袁術の軍勢に対しての攻勢を強めていく。それでなくても士気の瓦解が始まっていた軍勢に、この攻勢を凌ぐだけの力はなかった。
「た、助けてくれー!」
「死にたくない! 死にたくない!!」
袁術の兵は武器を放り出して、必死に逃げを打っている。その様子からもはや彼らの思考には生き残ること、敵という名の死神から離れることしかないように思えた。それだけに董卓側からしてみれば、敵を討ち放題だとも言える。その証拠に、袁術の兵は容易く討たれていた。しかしながら樊稠や李蒙にとってみると、この状況はあまり好ましくはない。彼らの最終目的は、敵の総大将となる袁術に他ならないのだ。彼を捕らえるなり討つなりしてこそ、勝利となる。そこで二人は、多数の兵を率いての追撃をあきらめたのであった。どの道、このままでは、間違いなく袁術を取り逃がしてしまう可能性が高い。ゆえに樊稠と李蒙は、それぞれの副将へ兵を預けることにしたというわけである。樊稠と李蒙はそれぞれの副将にこの場を任せて、少数だが精鋭を率いて袁術を討つことにしたのであった。
『任せたぞ』
「はっ」
「お任せください」
それぞれの副将からの返事に、樊稠と李蒙は頷く。その後、急遽集めた少数精鋭を率いて袁術を討つ為に彼らは敵本陣を目指した。流石に敵本陣近くとなれば、逃げだけを打っている敵ばかりではなくなる。実際、反撃をしてくる敵もいるのだ。しかして残念なことだが、その反撃も単発でしかない。決して数こそ多いわけではないが、間違いなく精兵で構成されている樊稠と李蒙率いる軍勢を相手にするには力量が足りなかった。とは言うものの、相手をすればその分だけ足が遅くなってしまうこともまた事実ではある。そのことが、樊稠と李蒙の心へ圧となって降り積もっていた。だが、足が遅くなろうとも進んでいることもまた覆しようがない事実である。いささかの焦りを覚え始めている樊稠と李蒙の視界に、ついに敵の本陣が映し出される。漸く敵本陣へ肉薄間近と感じた二人は、無意識にだが跨る馬をしごいてしまう。それは、樊稠と李蒙だけではない。二人が率いていた兵もまた、同じような行動に出ていたのだった。
『このまま突っ込むぞ!』
『おうっ!!』
樊稠と李蒙が意図せず揃って出た言葉に、これまた意図せずに揃った言葉で兵が返答した。そんな彼らからは、ここで決めるとの気概を感じる。そうした感情の赴くままに敵本陣へ突撃した樊稠と李蒙及び二人が率いてきた兵は、思いも掛けない事態と遭遇することとなった。勢いよく敵本陣へと突入した彼らであるが、なぜか敵本陣に大将である袁術がいないのである。代わりに袁術の本陣へ詰めていたのは、紀霊と李豊と楽就の三人である。そして、彼らが率いる袁術の兵であった。さて、袁術勢の将三人が率いている兵だが、多いというわけではない。何せ袁術の軍勢は、ほぼ負け戦が確定していると言って憚りないからである。その様な軍勢に、敵を討つ為に待ち受けることに賛成した兵など多いわけがないからであった。
「何者か!」
『公路様が臣なり!!』
樊稠の誰何に対して三人は、名を答えるでもない。そんな彼らの態度に樊稠と李蒙は一瞬だが呆気にとられるも、すぐに気を引き締めていた。その理由は、三人の将とそしてこの場にいる袁術の兵から感じる気概の様な思いを感じたからである。半端な気持ちで臨んでは、兵数で優っているこちらの方が討たれかねない。その様な思いを樊稠や李蒙たちへ僅かでも抱かせるぐらい、彼らからは覚悟を感じさせたのだ。
「厄介……だな」
「したり」
明らかに必死の覚悟決めている敵の三将と率いられている敵兵ということもあるが、そのこと以上に厄介なのは数的不利である。このままではどうやっても、一対二という構図が生まれてしまうからだ。しかも敵の一人となる紀霊は、その身から放たれる雰囲気から察するに技量が高い。恐らくだが、樊稠と互角だろう。そうなれば李蒙は残りの二人、すなわち李豊と楽就を相手にせざるを得なくなるのは自明の理であった。李蒙としてもあくまで推察の域を出ないが、李豊か楽就のどちらかだけであれば不利な戦いなることはないと踏んでいる。しかしながらこの状況では、敵がわざわざ一対一の戦いをしてくるとは思えない。いや、もしかしたら残りの一人が敵兵を率いて、樊稠と李蒙が率いてきた兵を攻撃するかも知れなかった。彼らとて精鋭であり、簡単には討たれはしないだろう。しかし将が率いている軍勢と個人の力量に頼った集団となると、前者の方が勝率も高くなる。そのような事態となってしまえば、いかに樊稠や李蒙といえども勝てる確率は下がってしまうのは明白であった。
「あと一人、この場におれば」
「確かに。ですが、敵はこちらの思惑など気にせぬようですぞ」
李蒙が言ったように、紀霊と李豊と楽就が動き始めたからだ。しかも、の動きは、よりによって実現してほしくない動きであった。まず紀霊だが、樊稠と対峙する。次に楽就が李蒙と対峙し、残った李豊は兵を率いて樊稠と李蒙が率いてきた兵へと向かったのである。しかしながら、救援に向かうことはできない。それは言うまでもなく、樊稠と李蒙の目の前に敵がいるからだ。もし隙を見せようものなら、間違いなく襲ってくる。だからこそ、救援に向かえない。内心で臍を噛むが、流石にどうしようもできなかったのであった。
樊稠は紀霊に、李豊は楽就が相手にすることで自由を得ている李豊は、兵を率いて樊稠と李蒙が率いてきた敵兵を討ち果たすべく攻勢を仕掛けた。一刻も早く蹴散らし、先に逃がした袁術の安全を確保しなければならいからである。ゆえに少しでも早くこの場の勝敗を決するべく、兵を率いる李豊は兵と一丸となって攻め寄せたのだ。李豊は敵兵の一人にあたりを付けると、手にした獲物で切りつける。しかし相手も、精鋭である。一刀の元に切り捨てられるなどといったこともなく、どうにか凌いでいた。代償として体勢を崩されてしまい、落馬をしてしまう。背中を強かに打ったようで、すぐには起き上がれず呻いている敵兵に李豊は止めを刺そうとしたが、しかしてその攻撃は不発に終わってしまった。その理由は、文字通りの横槍を入れた人物があったからである。果たして邪魔を入れられた李豊は、即座に獲物を引いて構える。そして、睨む様な視線を相手に向けたのであった。
「何者だ!」
「董卓勢が将、楊整修なり!!」
名乗りを受けた直後、李豊は獲物を持つ手に力を入れると楊定に対して降り抜いた。しかしその攻撃は、ほぼ同時に獲物を振り抜いていた楊整修こと楊定の獲物とぶつかることになる。すると、まるで反発するようにお互いの武器を弾き返していたのである。これにより少なくとも、持ちうる膂力は同等であることが分かった。その事実に、李豊は歯噛みをする。それは言うまでもなく、簡単には相手を下せないと判明したからであった。これによって、紀霊と楽就と李豊の思惑は外れることとなる。そのことに不満はあったが、癇癪を起すほどでもなかった。そもそも彼らの目的と言うのは袁術を逃がすことであり、そして追撃を仕掛けてくる敵の足止めである。短時間で敵を倒すという目論見こそ破綻してしまったが、足止め自体は成功しているからである。そうであるならば、徹底的に足止めをするだけなのだ。何せこの状況下ならば、樊稠と李蒙と楊定の方が早期に決着を付けたいと考えるからである。敵に対する嫌がらせになり、しかも自身の目的が果たせるというまあ一石二鳥の状況に他ならないのであった。一方で、楊定の登場によって実現して欲しくはなかった状況こそ打破していた樊稠と李蒙ではあったが、逆に言うとそれだけでしかない。一刻も早く敵を蹴散らし、おそらく逃走したか逃がされたかは分からないが、事情はともあれ敵大将の袁術を討たなければならないという状況に変化はないのだ。ありていに言えば邪魔でしかないのだが、だからと言って敵の将三人を放って袁術へ追撃を仕掛けるなどもってのほかである。何より、目の前の三将が許さないであろう。つまり、どうあっても彼らと対峙し続けるよりほかなかったのであった。
「ええい! このまま時間稼ぎに付き合うつもりはない。行くぞ!!」
『おう!』
『来るがいい!!』
樊稠の声に李蒙と楊定が答えると、まるで合いの手を打つかのように紀霊と李豊と楽就も声を上げる。計六名の将は、雄叫びを上げながらそれぞれの相手へ獲物をふるうのであった。
董卓軍の本陣にて前線での出来事を聞き及んだ牛輔であったが、その表情は微妙であった。確か戦の趨勢については、手元に引き寄せたと言って問題はないだろう。しかし、思いのほか追撃が芳しくないからである。まさかここにきて、撃破した筈の袁術勢から思わぬ抵抗を受けるとは予想外でしかなかったからだ。
「いかにしたものか……のう、文和」
「そうですな。ここは本陣より兵を送り込みましょう」
「それは前線に対する増援か?」
「増援とも言えますし、別動隊とも言えます」
賈詡の物言いに、牛輔は思わず首を傾げてしまう。その様な彼に対して、自身の考えを伝えたのだ。彼の思惑は、軍勢を送り込むことで相手の思惑を挫くつもりなのである。そもそもこの送り込む軍勢だが、本来持つ目的は別動隊であり、戦場より離脱したらしいことが伝え聞いている袁術に対するものである。しかし同時に賈詡は、別動隊の情報を戦場に流布させることも考えていた。なにゆえにこのようなことをするのかと言えば、樊稠と李蒙と楊定が対峙している紀霊と李豊と楽就に対する牽制も含ませているからであった。前述したように、紀霊と李豊と楽就は敵の足止めにある。しかし、別動隊を送り込まれては意味がなくなってしまう。それどころか、自分たちが足止めを食らうことになる。その様なこと見逃すわけにはいかない以上、今度は自分たちの方が早急に決着を付けなければならないのであった。
「文和よ。本当に上手くいくのだな」
「はい」
「……分かった。そなたに任せる」
こうして牛輔からの許可を得た賈詡の策が実行に移され、本陣から幾ばくかの兵を割いた別動隊が組織されたのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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