第八十八話~東征 三~
第八十八話~東征 三~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
牛輔の軍勢と李豊の軍勢が戦場に揃ってから数日後、ついに戦の幕が切って落とされた。まずは、両軍勢の先鋒がぶつかることとなる。李豊の軍勢の先鋒を任されたのは、梁綱であった。彼は先頭を切って、敵先鋒へと突き進んでいく。しかして相対する牛輔の軍勢とて、ただ黙って見ているわけではない。まるで梁綱の動きに呼応するかのように、牛輔の先鋒が動き出していたのであった。果たして牛輔の軍勢の先鋒を誰が務めているのかと言うと、樊稠である。しかもまるで合わせ鏡であるかのように、彼もまた梁綱のように先頭に立って軍を率いていたのだ。間もなく両軍勢は、正面よりぶつかった。はてさて、一瞬だけでも均衡が保たれたかのように思えたが、その状態は長く続くことはない。間もなく軍勢の天秤は、一方へと傾いていく。果たして傾いたのは、梁綱の方であった。これは別段、梁綱が弱いというわけではない。むしろ、士気と勢いの差が現れたと言ってよかった。前述したことでもあるのだが、袁術の命によって出陣した李豊率いる軍勢自体、積極的に出撃を支持したわけではない。寧ろ、彼らは出撃に反対だったと言ってもいいだろう。しかしそのようなことを口に出してしまえば、閻象のように囚われて牢へ繋がれてしまう可能性が大きい。それゆえに彼らは文句も言わず、黙って従ったのだ。その様な軍勢である以上、将も兵も士気が高い筈もない。それでも将に至っては、戦場に到着した頃には気持ちを切り替えてはいた。しかしながら、将が気持ちを切り替えたからと言って兵までが同様に気持ちを切り替えられたのかと言えばその様なことはない。となれば、必然的に大半の兵の士気があまり高くはない状態となることは自明の理であった。
その一方で、牛輔が率いている軍勢がどうなのかと言えば、こちらは反対に士気が高い。しかも率いている兵は、董卓肝いりであった。そもそも、敵へ奪取された洛陽を取り返し、さらに東へと進軍する目的で構成された軍勢である。士気が高いことは無論のこと、兵も弱卒ということなどあり得なかった。その結果が、現状である。そのことを鑑みれば、短い時間であったにせよ戦の趨勢を表す天秤を傾けさせなかった梁綱を誉めてもいいぐらいであった。
「くそっ! このままでは、拙い。押し切られてしまう」
完全に味方の軍勢が瓦解したわけではないが、それでも押されていることに間違いはない。どのみち、そう遠くないうちに先鋒の趨勢が決まることは容易に想像できたのである。そして先鋒がこうも短時間に打ち負かされてしまえば、その動揺は味方全体に波及しかねなかった。その様な事態、できうることならば避けたい。その為には、一気に挽回するしかなかった。
「とは言うものの、その様な手などそうそう見つかる筈もな……い?」
その時、梁綱の視界にいかにも将だと言わんばかりの人物が入り込む。しかもその人物は、有象無象だとは到底思えない雰囲気を放っているのだ。その瞬間、梁綱の顔に笑みが浮かぶ。そして彼は、自ら操る馬を駆けさせたのであった。
愛用の得物を振るい、袁術の先鋒を討っていく。そもそも樊稠は、将としても武人としても一廉の人物である。その様な男が軍の先頭を切って、戦っているのだ。その意味では梁綱も同じなのだが、残念なことに二つほど違いがあった。一つは、前述した兵の士気である。そしても一つはといえば、樊稠と梁綱の差であった。とはいえ、別に梁綱が劣っているというわけではない。ただ、彼よりも樊稠の方が、一枚上手であっただけである。しかし先にも上げた士気の差もあって、明確な違いとして現れてしまったのだった。
それでも、戦が始まった当初は拮抗していたと言っていいだろう。だが、時間が進めば進むほど、差が如実となっていく。それはもう、戦場における確かな違いとして顕在してしまっているのだ。当然、樊稠も肌で戦場の雰囲気を感じている。その彼の持つ将の勘が、今こそ押し時だと訴えていた。
「このまま一気に押し込めば、勝ちは確定だろう……何だ!?」
樊稠は、旗下の兵で一気に勝利を手繰り寄せてしまおうと考え、先鋒の総力を注ぎ込んでしまおうと判断する。そして実行に移そうとした瞬間、彼の武人として勘が危険な雰囲気を感じ取った。すぐに視線を巡らすと 真っ直ぐにこちらへ向かってくる騎兵を認める。その男から感じる気配に油断はできないと樊稠は、一層気を引き締めながら得物を構えて迎え撃つ。その直後、樊稠の得物と騎兵の得物が打ち合っていた。馬の突進力を利用した分だけいささか押し込んだ騎兵、即ち梁綱の一撃であったが、押し込んだところで止められてしまう。そのことに内心で驚きつつも、梁綱はさらに押し込もうとする。しかし今度は、びくともしない。それどころか、逆に少しずつだが押し返されている。梁綱もそれなりに自分の腕へ自信を持っていただけに、驚きを隠せなかった。
「何者か!」
「問うならば、そちらから名乗られいっ!!」
相手が董卓勢の将であると踏んで襲った梁綱が、自身の判断を確定させるという思いもあって相手の名前を誰何する。しかし逆に相手から、名を問うならば自分から名乗れと返答されてしまったのであった。
「……我は袁術軍の先鋒、梁毛恭なり!」
「董卓軍先鋒、樊偉明」
『いざ!』
一旦距離を取ったかと思った次の瞬間、まるで申し合わせたかのようにお互いが吶喊する。そのまま力いっぱい打ち合うと、互い得物が弾けた様に反発した。しかし両者とも、それぐらいで体勢を崩すことはない。寧ろ反発した勢いをお互いに利用して、次の攻撃に続けていた。数合どころではない、二桁に及ぶ打ち合いを続けていたのだが、当初の頃は見えてこなかった両者の差が少しずつだが現れ来ていた。初めのうちはほぼ拮抗していた両者の打ち合いだが、数を重ねるごとに樊稠の方へ天秤が傾き始めている。まだ、天秤が崩れるというほどの差は表れてはいないが、遠くないうちに差は現れるだろう。それは、今まさに対峙している樊稠と梁綱が一番分かっていた。それだけに、梁綱の心中は穏やかではない。元々、梁綱が樊稠へ仕掛けたのは、劣勢へとなりかけていた戦の趨勢を挽回する為である。それであるにも関わらず、ここで敵となる樊稠へ敗れては意味がなくなってしまう。それゆえに梁綱は、まだ余力があるうちに攻勢へと打って出たのだ。無意識とはいえ、負けるかも知れないという事態に臨み、焦りが出たと言えなくもなかった。しかしてその梁剛が感じた焦り、対峙する樊稠が気付かないでいるのかと言われるとそのようなことはない。確信があったわけではないが、肌で樊稠は梁綱の雰囲気を察していた。ゆえに樊稠は自身の勘を信じ、一騎打ちを受けたのである。少しの間だけ睨み合った両者であったが、少し強めの風が吹いたように思えた瞬間には一気に間合いを詰めたのであった。
両者の持つ得物であるが、奇しくも似た様な打撃武器である。違いがあるとすれば、樊稠の得物は両手に一つずつ持つ形態であるのに対し、梁綱は両手で振るうということであった。つまり、間合いという意味で言うと、梁綱の得物の方が有利となる。それゆえに先に得物を振るったのは、梁綱であった。彼はまるで、相手を叩き潰すかのように得物を振り降ろす。しかしながら、樊稠が素直にその様な攻撃を受ける筈もない。彼は接近する速度を微妙に遅くしており、寸でのところで当たらないように調整していたのだ。するとその目論見は当たり、梁綱の一撃を直接食らうことはなかったのである。梁綱の持つ重量のある武器の難点として、外した場合に次の行動へと移るのに時間が掛かるというものがある。つまり樊稠は、そこを上手く着いたということであった。しかしながら梁網も、重量武器を愛用の武器としている男である。有利な点も不利な点も、当然ながら理解している。だからこそ彼は、一撃が避けられたことを認識した直後には、得物から手を放していた。しかも馬から飛び降りることで、相手からの追撃を避けていたのである。事実、反撃とばかりに得物を振るった樊稠の一撃は、相手を捕らえることなく空を凪っていた。避けられたことに驚き、彼は刹那の間だけだが動きを止めてしまう。その隙に梁剛は体勢を整えると、一度は手放した得物を再び手にしていた。それだけではない、彼はそのまま体を一回転させたのである。その動きに、愛用の得物が追随してくる。その攻撃範囲には、当然ながら樊稠が存在していた。とてつもない嫌な予感を感じた樊稠は、そのまま馬から飛び降りて地面を転がる。それから僅かな時間差で、梁網の得物はつい先ほどまで樊稠が跨っていた馬を捉えていた。回転する力をも加わった重量武器の一撃であり、いかに人間より大きな体を持つ馬だとしても耐えられるようなものではない。哀れ主人に代わり、真面に食らってしまった馬は絶命してしまったのである。しかしながら樊稠は、愛馬が犠牲となることで生き永らえた形であった。
「……くっ! 必ず、仇は取る」
「そのような余裕、あるのと思うのかっ!」
樊稠の愛馬を葬り去った梁網は、そのまま樊稠へ横なぎの一撃を振るう。しかし彼は、数歩下がることで間合いから外れて見せた。その次の瞬間、樊稠は間合いを詰めるべく踏み出している。重量があるということ以上に広い間合いを持つがゆえに踏み込まれてしまうと防衛が間に合わないと感じた梁綱は、そのまま得物を再度手放す。直後、獲物は主の手を離れ、敵へ向かって飛んでいく。まさかのことに樊稠は、形振り構わずに体を投げ出していた。その咄嗟の判断が功を奏し、寸でのところ避けて見せる。しかし、完全には避けられなかったようで、頭に被っていた兜が掠ってしまい、吹き飛んでしまっていた。しかし、それだけで済んだのは御の字である。もし真面に食らっていれば、致命傷となったのは間違いないからであった。ともあれ樊稠は、頭を振りながら立ち上がると、愛用の錘を構える。そして樊稠と相対している梁綱もまた、剣を抜いていた。
再度対峙した樊稠と梁綱は、少しずつ間合いを詰めていく。やがてお互いの間合いに入ると同時に、両者は得物を振るっていた。樊稠の一撃と梁綱の一撃が合わさるも、ほぼ同じ力量なのか拮抗する。しかしながら、それは僅かの間でしかない。次の瞬間、樊稠はもう片方の得物を振るっていたからだ。咄嗟に拙いと感じた梁綱は、後ろに飛ぶことで避けようとする。しかし、思いのほか樊稠の追撃が鋭かった。直撃こそ避けられたものの、身に着けていた鎧に盛大な傷を付けられてしまう。しかもそれだけでは済まず、体勢を崩されてしまっていたのだ。当然ながら、樊稠がその様な隙を逃す筈もない。ここ攻め時とばかりに、嵐のような連撃を梁綱へ与えていった。しかし梁綱も、先鋒を任されるだけの男である。不利ながらも、幾度かの攻撃をさばいていた。とはいえ、体勢を立て直せていない以上、いつまでも攻撃をさばき切ることなどできはしない。ついには樊稠の一撃が、梁綱を捕えたのであった。
「がはっ!」
梁綱は膝を突き、口から血反吐を吐く。しかしながら、樊稠は攻撃の手を緩めない。今度は兜を被っている梁綱の頭へ横なぎの攻撃を食らわせていた。それでなくても、血反吐を吐くぐらいの一撃を食らっていたのである。そこにきて頭への一撃を食らっては、意識を保つことも難しい。それでも梁綱は、辛うじて意識を保っていたのである。もはや、ここから反撃できるとも思えない。ならばせめて、最後まで相手を見続けてやるという意地であった。
「……大したものよ、意識を保つとは」
しかし、意識を失わないことが精一杯の梁綱では、答えることもできない。せいぜいできることと言えば、樊稠を睨みつけることだけである。その様子に、樊稠も気付いているのだろう。彼は一つ頷くと愛用の得物を放し、代わりに腰から剣を抜いていた。次の瞬間、樊稠は剣を振るう。そして梁網は、樊稠を睨みつけたまま首を討たれていた。
「敵先鋒、梁毛恭が首。この、樊偉明が討ち取ったり!」
喧騒渦巻く戦場に、樊稠の勝ち鬨が響き渡ったのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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