第八十七話~東征 二~
第八十七話~東征 二~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
先の軍議から十日もした頃、鄭にて再び軍議が開かれていた。その席の冒頭、総大将を務めている牛輔に促された賈詡よりある提案が出される。その提案とは、軍勢を二つに分けるというものであった。しかしてその内容だが、皇甫嵩がいる函谷関へは張済と張繍が率いる本隊のように見せかけた隊を当てるというのである。ならばもう一隊を率いる牛輔はどうするのかというと、こちらは南陽の袁術を攻めるというものだった。ところで、何ゆえに南陽郡を攻めるのか。それは、函谷関を迂回する為に他ならない。実は洛陽へ向かうには、函谷関の他に武関から向かうという道筋もあるのだ。しかし武漢は南陽郡にあり、その地を現在領有しているのは袁術である。つまり、袁術は邪魔以外の何ものでもないということになる。しかも袁術は先の反董卓連合に加わっており、少なくとも董卓側からすれば攻めるに十分な大義名分であった。
ただ、賈詡としては少々不本意ではある。彼としては、函谷関攻めに兵力を集中させたかったのだ。しかし牛輔からの意向という名の圧力があり、どうしても彼の思惑を多分に考慮せざるを得なかった。そこで、自身が提案していた函谷関攻めではなく、先の様な軍を分けるという策を提示したのである。すると牛輔は、痛くこの策を気に入り、すぐにでも実行を促したというわけであった。
「では函谷関であるが、その方らに任せる。せいぜい、あの裏切り者どもを引き付けておくのだ」
『ははっ』
張済と張繍の返事を聞いて、牛輔は満足げに頷いていた。因みに牛輔の言う裏切り者とは誰のことなのかと言うと、皇甫嵩と徐栄である。彼からすると二人は、劉逞にひいては劉弁へ降伏し董卓を裏切った人物だからだ。兎にも角にも、軍勢は二つに分かれることとなる。するとまず、張済を大将に仕立てた部隊が鄭を出陣した。たとえ建前だとしてもあの函谷関を攻める体を取る部隊であり、何よりこちらの部隊の方が表向きの扱いは本隊となる。その為、兵の数は多くなっていた。果たしてその軍勢が、亰兆尹と弘農郡との境を越えた頃になり、牛輔の軍勢が鄭より南陽郡へ向けて出陣する。まず目指したのは、袁術のいる宛となる。やがて牛輔の軍も、司隷と荊州の境を越えて南陽郡へと侵攻したのであった。
董卓の軍勢が攻め込んでくるなど想定の埒外であった袁術は、慌てふためくこととなる。もっとも、袁術の配下で誰もこの行動予想していなかったかと問われると、そんなことはない。少なくとも二人ほど、予測はしていたのだ。それは誰かというと、閻象と張勲であった。当初閻象は袁術の主簿であったが、その才は軍師としても十分に通じるものであったと言われている。実は、反董卓連合の戦において行われた四路からの攻勢の際、袁術は破れているがその窮地を救ったのが閻象である。彼は張勲と共に袁術を救い出し、その功もあって軍師へと抜擢されたのであった。なお、これは張勲も同様であり、彼もまた袁術の家臣の中では、頭一つ抜けた存在となっていたのである。そんな二人から袁術は、別々に董卓の軍勢が侵攻している可能性を進言していたのだ。しかしながら袁術は、笑ってその進言を流している。その理由だが、袁術からしてみると、劉逞と董卓の軍勢がぶつかることなど実に喜ばしい事態であるからであった。色々あって反董卓連合では大した戦功をあげることができなかった袁術であるが、まだまだ袁家当主の座を諦めたわけではない。だからこそ、劉逞と董卓の軍勢がぶつかることを歓迎しているのだ。ここで両者がぶつかれば、どちらの勢力も損害を被ることになる。仮に董卓側の軍勢が優勢であるならば、劉逞との戦で損害を被った相手を攻撃すればいい。また、劉逞側が優勢であった場合、劉逞に協力して董卓の軍勢を攻撃すればいいというわけである。有り体に言えば袁術は、漁夫の利を狙ったのだ。それゆえに彼は、高みの見物と洒落込んでいたのである。しかしその目論見も、呆気なく破られた形であった。
「す、すぐに軍勢を集めよ!」
「は、ははっ!!」
宴の席のつまみぐらいの心持でいた袁術は、牛輔の進軍を聞いて慌てて兵の動員を始めた。しかし、そんな簡単に集まるわけがない。しかも油断していたこともあって、大きく進軍を許してしまっているのだ。しかしながら、そこは腐っても名門袁家の後継者候補の片側である。宛まで攻め込まれる前に、頭数を揃え切ることができたのだ。こうなれば、宛に籠る必要などない。彼はなきに考えていた漁夫の利を得ることなど捨て去り、華々しく敵を討ち滅ぼすことを考えたのだ。こうして戦功を上げれば、既に揚州刺史となり袁家の後継者候補争いで頭一つ抜き出ている袁紹に対する牽制できる。いや、今後の展開次第では一気に後継となることも、そして伝国璽を手に入れ皇帝となった劉弁を庇護する劉逞を出し抜くことも可能だと夢想したのである。それゆえに袁術は、出陣を決定する。しかしながらその行動は、閻象から反対されてしまったのであった。
「ここはて迎え撃つことで敵を引き付け、その隙に常剛様へ救援の使者を出しましょう」
閻象は、劉逞の軍勢が何もせずにただ漫然としているとは思っていない。彼の元には人材が揃っており、たとえ劉逞が気付いていなくても周りにいる家臣が動いている筈だと考えていた。だからこそ、劉逞へ救援をと袁術へ進言したのである。しかし袁術は、前述した様にこの侵攻を自身の野望を完遂させる為の手段としか考えていない。だからこそ、劉逞からの援軍など以ての外でしかなく、閻象の進言など受け入れられるようなものではない。それどころか袁術は、不審そうな目を閻象へ向ける始末であった。
「そなたもしや……敵の回し者ではあるまいな」
「……え? こ、公路様!? 何のことでございますか?」
「いや! そうだ!! そうに違いない! すぐに、そ奴を捕らえよ。裏切り者ぞ!」
袁術から出たまさかの命に、流石の家臣も動けない。そのことに業を煮やした袁術は、張勲に改めて閻象を捕縛するように命じる。流石に逆らいきれず、張勲は閻象の捕縛を行う。しかしながら彼は、その際に小さく詫びを入れていた。幸いなことに袁術の耳には入らなかったので、張勲が閻象のように捕らえられることはなかったのだ。
「まだ、裏切り者は居るか!」
先程諫言した閻象が捕らえられたこともあって、だれも声を上げない。しかも、殆どの者が視線を袁術へと向けていない。それは目を合わせれば、どのようなことを言われる変わらない為である、その中で唯一袁術へ視線を向けているのが、皮肉なことに捕縛されてしまった閻象その人であった。ただ一人の視線ということもあり袁術もそれには気付くが、彼はさらに不快感を表した。袁術の中では、既に閻象は裏切り者である。その裏切り者から強い視線を向けられるいわれはない。そう考えたゆえであった。
「ええい! さっさと連れて行き、牢にでも入れよ!! そ奴の顔を見ていると、胸糞が悪くなる」
閻象を捕らえた兵士は、命じられた通り閻象を両脇より抱えて軍議の行われていた広間より連れ出していく。しかしその扱いはとても丁寧であり、しかも兵士の顔は申しわけなさで彩られていた。もっとも、不機嫌そうな表情をしたまま既に視線すら向けていない袁術では、気付く筈もない。それどころか、まるで蠅でも追い払うかのような仕草をしていたのであった。
「全く。あ奴を筆頭軍師などにしたのは、我が不徳じゃ。それよりも、李豊に梁綱に楽就」
『はっ』
「そなたらに兵を預ける。我に、牛輔の首を届けよ」
『承知』
打って出ることに内心ではあまり気が進まない三人ではあるが、いざ戦となれば話は別である。袁術から指示を受けた三人は、気持ちを切り替えながらも拝命していたのであった。
策も何もなく、正面より越境してきた牛輔の軍勢を打ち払うべく軍勢が宛より出陣する。もっとも、彼ら三人もただ正直に出陣しようとしていたわけではない。まだ宛から見える距離にまで近づかれていないとはいえ、敵が深く進攻していることに間違いはないからだ。その為、三人は時間差で軍を動かすつもりだったのである。大将格とされた李豊と共に梁綱が先行して進軍し、残った楽就が薄暮の少し前辺りより出陣する。この様に時間差で出陣することで、敵から率いている兵が少なく見えるように欺く腹積もりであった。しかしながら袁術が反対し、その結果が前述した通りの出陣となった経緯である。少しでも敵から優位な立場に立てるようにと無い知恵を絞って考えた進軍の方法を、一顧だにされるどころか即座に切って捨てられたこともあって三人の表情にはありありと不満が渦巻いている。だからといって、今さら董卓の下へ走る気にもならない。結局、いささかの不満を抱きつつも彼らは進軍を続けていたのであった。
「しかし……あの見栄っ張りというか……何と言うか……」
「言うな。だが、まぁ……気持ちは分からぬでもない。やはり、本初様が気になるのであろう」
実は未だに、袁家当主の地位は定かになっていない。しかも牛輔による東征が始まる頃合いを前後として、袁隗の行方も定かではなくなっている。今となっては、生存しているのかそれとも亡くなっているのかについても分からないのだ。実際は既に亡くなっているのだが、董卓側が漏らしていないのだ。そうすることで、袁紹と袁術の対立を煽っていたのである。その点で言うと、牛輔の行っている南陽郡攻めは、二虎強食とも言える策を実行している董卓の思惑から外れていたのだった。
「だからと言って、なぁ」
「そなたらの気持ちも分かる。だから、もう言うな」
『……』
大将格の李豊にここまで言われては、梁綱と楽就の二人は口を閉ざさざるを得なくなる。不承不承ながらも頷くと、二人は不満を隠そうとしない表情のまま、静かに頷いたのである。その様な梁綱と楽就の仕草を見て、李豊も大きくため息をついていたのであった。
大きな抵抗を受けることもなく順調に南陽郡を進んでいた牛輔の軍勢であったが、袁術のいる宛に近づいたことで情報が入ってくるようになる。その中には、宛より出陣をしたというものまで実に様々であった。その情報を手に入れた軍師の賈詡は内心で、愚かな判断だと嘲る。それから牛輔に対して、兵を分ける旨を提案していた。しかしてその進言を聞いた牛輔は、眉を顰める。まだ指呼の間と言えるほどには近づかれてはいないものの、そう遠くないうちに敵の将兵と遭遇するのは間違いない。その様な時期に兵を分ける必要なのかと疑問を覚えたからであった。
「文和よ。さらに兵を分けるという、その意味は?」
「公路殿は、愚かにも兵を差し向けてまいりました。その為、宛の守備は著しく落ちているでしょう。なれば、この隙をついて宛を落としてしまうべきです。どうも公路殿は、先の戦の経験を忘れている様ですので」
「さきの戦の経験だと?」
賈詡の言葉に、牛輔は首を傾げてしまう。そもそも牛輔は、反董卓連合の軍勢と対峙したことが一回もない。義父である董卓の命で、劉協の護衛として先んじて長安へ移動していたからだ。それゆえに、賈詡の言う袁術の経験がいかなるものなのか皆目見当がつかなかったのである。当然ながら、賈詡もその辺りの事情については招致している。ゆえに彼は、そのまま言葉を続けたのであった。
「公路殿は南陽郡より洛陽へ向けて進軍しましたが、その際に砦を攻めて大敗しております。もしその経験が血肉となっているのならば、わざわざ宛から兵を出陣させるなどという決定しないでしょう」
「なるほどの……よかろう、文和。そなたの進言通り、兵を分ける。詳細は、そなたが決めよ」
「承りましてございます」
編成の一切を任された賈詡は、敵となる袁術の軍勢を率いている将の情報をも鑑みつつ軍の再編成を行ったのである。彼は現状で最善と思える形に収め、袁術が派遣した李豊が率いる軍勢を待ち受けたのだ。それから数日経ったある日、いよいよ敵軍勢が現れる。こうして牛輔の軍勢と李豊の軍勢は、ついに相見えることとなったのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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