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第八十四話~匈奴の動き~


第八十四話~匈奴の動き~



 光熹三年・初平二年(百九十一年)



 劉逞が軍の立て直しと並行して食糧の増産も力を入れ始めた頃、大火によって都市の半分以上を消失してしまった洛陽のある河南尹の隣となる弘農郡。その地はいまさら言うまでもなく、元は劉弁が弘農王を名乗らされていた頃には弘農国であった。しかし、伝国璽を得た劉弁が皇帝へと就任したことにより、呼称が弘農国から嘗ての弘農郡へと戻っている。その弘農郡には、洛陽の東を守る虎牢関と並び称される西の守りである函谷関が存在していた。その函谷関に軍勢が到着したのであるが、その軍勢を率いているのは皇甫嵩であった。彼は劉弁の皇帝就任時の人事にて、長安へと移動した董卓の東進を抑える役目をとして鎮西将軍へ就任している。なお、彼の属官として、公孫瓚と呉匡。そして、降伏した徐栄が付き従っていた。また、河東郡にも軍勢は派遣されている。こちらの大将を務めるのは、平西将軍に抜擢されたのは、河内郡太守任命された孫堅である。また、属官として劉逞の家臣でもある関羽と徐晃、それに関羽の父である関毅が派遣されていた。

 こうして、弘農郡と河東郡に兵が派遣されたことにより、董卓の軍勢が洛陽へ進出してくることは厳しくなったといっていい。しかしながら、侵攻の懸念が無くなったと言い切れるのかと言われればそうでもなかった。それは、漢領外の地である。そもそも董卓は、羌族などいった異民族に対して顔が利く。その異民族を動かし、并州へと進軍しかねないからだ。それでなくても并州は、それまで牧の地位にあった劉逞が解任されている。後継として劉備が刺史へ就任することになってはいるが、それでも交代時における治安の緩みは表れてしまう。流石に翌年にでもなれば、懸念は払拭されると思われてはいるが、問題なのは今年なのだ。その様な董卓への対策として、劉逞は単于となる於夫羅を動かすことにしたのである。無論、ただで動かすことはしない。何せ霊帝が存命の時代に、同じことをして匈奴で内訌が起きてしまったからだ。そこで対価としたのが、并州の北にある郡のうちで、朔方と五原という二郡を引き換えにするということであった。


「それで、匈奴へ譲渡すると言うか常剛」

「いえ、陛下。褒美として下賜致します」

「褒美? それは、どういうことだ?」

「はい。褒美と引き換えに、董卓の領地へ侵攻させるのです」


 そもそも并州の北方に至っては、鮮卑の略奪によって荒らされていたという過去がある。しかも黄巾の乱が起きる少し前あたりから、鮮卑の略奪は全より輪を掛けて激しくなっていたのだ。劉逞が并州牧に就任し、鮮卑の大人たいじんであった和連を討ったことで鮮卑に内訌が発生し一息ついてはいたが、それでもかつての爪痕は残っていたのである。無論、并州牧であった劉逞も復興へ手を打ってはいたので、最悪よりはましといった状態にはなっている。しかし、霊帝の死亡などといった朝廷での騒乱が立て続けに起きたことで、そちらへの力を抜かざるを得なくなっていたのもまた事実であった。それでも細々とではあっても復興への尽力は続けてはいたが、まだまだ道半ばであると言っていい。そこでこの際、匈奴を動かす為の褒美として有効活用しようとなったのである。劉逞としては半ばで事実上の放棄をしなければならないことには忸怩たる思いがないでもないが、今は董卓が軍を動かす可能性を少しでも減らしておきたい。その為の措置であると進言された劉逞は、苦虫を纏めて噛み潰したかの表情を浮かべたまま致し方がないかと了承し飲み込んだのであった。

 こうして劉逞自身より并州の一部を褒美という形で譲渡することに対する説明を受けた劉弁であったが、その間は瞑目していた。最後まで黙って聞くと、自身の中で考えを纏める。花自体は実際に少し前まで并州牧である劉逞からであるし、噂に近くはあるものの鮮卑が幷州に対して侵攻を行っていた話については、父親経由で聞き及んでいたからだ。


「……わかった。我が名において、認めよう」

「ありがとうございます、陛下」


 因みにこの一件については、并州刺史へ内定している劉備にも話は通っている。彼としても不満がないわけではないが、事情が事情だけに了承していた。何せ劉備も、西河郡太守として、使匈奴中郎将として并州に赴任していた人物である。并州の実情は、彼も認識していたからであった。

 ともあれ、劉弁の許可を得たことで於夫羅へと打診された話ではあったが、彼が断わることはなかった。そもそも匈奴は漢の属国扱いであり、断ること自体が難しいからである。しかし今回は、父親である羌渠が単于であった頃と違ってしっかりと対価となる二郡が提示されている。流石に今すぐに与えられると言ったこととはなっていないが、董卓が討たれるなりした暁には間違いなく譲渡されることが明文化されているのだ。これだけの条件が揃っているのであれば、難色を示す必要などあり得なかった。


「承知致しました。そう皇帝陛下へお伝えください」


 使匈奴中郎将して使者となった劉備は、於夫羅より快諾を得られたことに満足そうに頷く。その後、劉弁のいる高邑へと戻ったのであった。

 




 洛陽を捨て長安へと移動していた董卓であったが、彼は長安に常在していなかった。ならばどこに居たのかと言えば、長安の近く新たに建築中の城であった。董卓は、長安に移動したあと、郿という地へ城を築き始めていたのである。その城を建築し始めてから数か月もすると、概要が分かってくる。まず城の規模だが、とてつもなく大きいというわけではない。大きくはないのだが、純粋に防御拠点という点だけで述べれば、かなりの防御力を彷彿させることは想像に難くない城であった。まだ建築中であるとはいえ、既に防壁は八割がた完成している。その大きさと言えば、何と長安にある防壁とほぼ等しいという代物である。他にも、幾つもある見張り台や、東西南北の角より突き出した地を持つ堅固さであったという。しかも董卓は、その城内におびただしい量の財宝と食料を運び込む計画を立てており、城が完成した暁には何年にも渡って籠城できる構想をたてていたのだ。とは言え、董卓がこの建築中の城にずっと入り浸っていたのかと言われれば、そのようなことはない。何だかんだ言っても、一時は漢における位人臣を極めた男である。しかも長安には、自身が傀儡の皇帝として祭り上げる劉協がいるいのだからそれも当然であった。ゆえに董卓は、自身がある意味で終の棲家と考えている郿に建築中である城と長安を結ぶ専用の道を作らせていたのである。それは万が一、長安で何かよからぬ事態が起きた時にすぐにでも移動できるようにと言う、李儒からの進言を受けて始められたものであった。


「して文優よ。反撃の準備は進んでいるのか?」

「は。翌年にも早速、行うつもりにございます」

「むぅ、翌年か……まぁ、致し方なかろう」


 建築現場を見学中に董卓は李儒へと問い掛けたが、彼からの返答を聞いた表情には、不満がありありと見てとれた。曲がりなりにも、洛陽から長安へ移動する決断をしなければならなかったのである。しかも相手はまだ二十代であり、董卓から見れば尻の蒼い若造でしかない劉逞だ。確かに若さに合わぬ戦上手には目を見張るものがあったが、まさかここまでとは思ってもいなかったのだ。しかも、それだけではない。行方不明となった、伝国璽も劉弁が手に入れているのだ。董卓も仮に伝国璽を作り上げてはいるものの、どこまで行っても仮の物でしかない。本物には、叶わないのだ。それだけに早く反撃を行い、大師として自身の偉大さを示す必要がある。そう考えていた董卓だけに、再侵攻が来年からと言う李儒の言葉に不満を覚えたと言うわけである。しかしながら、李儒が伝えた来年からの再侵攻にしても、実はかなり無理をしている。長安までの移動だけならばそこまででもないのだが、董卓の意向で始めた城の建築に専用の道路建築と大規模な工事を行っているのだからそれも当然であった。それでも李儒は、自身の力を振り絞って来年からの再侵攻を行うだけの目途を付けたのである。そのことだけを挙げでも、李儒と言う男が非凡であると分かるものであった。


「た、大師様! 大司農様!!」

「無礼者! 大師様の御前であるぞ! わきまえよ!!」

「あ……も、申し訳ありません」


 慌てて平伏したのは、李粛である。すると平伏し続けている彼へ、董卓が立つようにと言う。この場にいる最上位となる董卓から促されたことで、平伏を解いて李粛も立ち上がったのであった。これで李粛が飛び込んできた理由が聞けると内心で思いながら、董卓は用件を誰何する。その直後、李粛は董卓と李儒へある報告したのである。因みに大司農だが、李儒の拝命している役職であった。


「大師様。匈奴が、攻めて参りました」

『……え?』


 董卓は無論だが、李儒をしても寝耳に水の報告であった。嘗て匈奴で起きた内訌が終了して以来、匈奴は全くと言っていいぐらいに動きを見せていなかったからである。今回の反董卓連合においても、匈奴は食指一つ動かしてはいない。それゆえに董卓も李儒も、まだ内訌から完全には立ち直っていないと考えていたのだ。とはいえ、全く無警戒であったわけでもない。密偵自体は、派遣していたのだ。しかし匈奴では、前述した様に軍を動かした気配が見られない。なれば軍勢の用意をどこでしていたのかというと、数か月前に董卓の討伐後下賜されることがきまっていた朔方郡と五原郡であった。匈奴へ下賜されることが決まっている両郡であるが、流石の李儒もこの約定にはことには気付けていなかった。それだけに李儒も、并州における軍の動き自体は把握していたが、あくまで今回の戦で喪失した兵の補填ぐらいにしか思っていなかったのである。しかして実際のところは、漢の軍勢などではなく匈奴による侵攻を準備していたというわけであった。


「ふざけおって! 郭汜、李傕を呼べ。彼奴等に任せる!!」

「承知致しました。すぐに、軍兵を調えさせます」

「うむ」


 董卓が李儒へ迎撃を命じると、即座に了承の旨を返答した。以降のことについては李儒に任せ、董卓は自身の新たな居城である万歳塢(郿城)へと向かったのである。その一方で残った李儒は、李粛を伴いつつ董卓の出した指示通り郭汜と李傕に匈奴の迎撃を命じていた。匈奴の侵攻など想定もしていなかった両名だけに、驚きは一入ひとしおである。だが彼らも、一端の武人である。出陣の命を受けて、怯むどころかいかにして撃退……いや殲滅してやろうかと息巻いていた。


「流石はお二方、任せますぞ」

「大司農殿、我らが見事打ち破ってごらんに入れますゆえ、吉報をお待ちくださいと大師様にお伝えあれ」

「うむ」


 大言壮語たいげんそうごとも取れなくもない言葉を吐く郭汜と李傕に対して李儒は、一抹の不安を覚えないでもない。しかしながら、両名の将としての力量が高いことは李儒も重々承知している。何より董卓の命であり、彼らに任せるしかない。そして命を受けた両名は、李儒の命により準備された兵を受け取ると、匈奴を撃退するべく出陣したのであった。


「……不安は拭えぬ……騎都尉殿、そなたに命を与える」

「何なりと、お申し付けください」

「そなたは、後詰として働くのだ」


 李粛はその命を了承すると、付かず離れずという絶妙な距離を保ちながら密かに後詰として動いたのであった。とは言うものの、李儒の懸念は当たることはなかったのである。於夫羅より命を受けて侵攻した匈奴の軍勢だが、行ったことは国境周辺の乱取りであったからだ。彼らは国境地域を荒らし得るものを得ると、早々に撤収したのである。それゆえ、討伐の為にと進軍した郭汜と李傕が現地へ到着した頃には、既に敵の姿はなかったのである。両名からすれば、肩透かしを食らったような状況であった。

 しかも、匈奴による嫌がらせにも近いこの軍事行動だが、以降も続いていくこととなる。それゆえに董卓としても常に一定の兵力と兵糧を残さざるを得ず、その分だけ洛陽の奪還などを含めた反撃は遅れることとなるのであった。

別連載

「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」

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も併せてよろしくお願いします。



ご一読いただき、ありがとうございました。

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