第八十三話~皇帝再任~
第八十三話~皇帝再任~
光熹三年・初平二年(百九十一年)
年も明け季節は冬から春へと移ろいだ頃、劉弁が高邑にて皇帝へと即位した。手に入れた伝国璽を理由とした即位であり、反董卓連合へと参画した諸侯からは反対も出なかった。その上、高邑は光武帝が皇帝へ即位を宣言した地であり、縁起が良いとして此度の即位となったのである。しかしながら、董卓は当然の様に反対する。そればかりか、抗議の書状も送っていたという。確かに董卓からすれば面白くはない劉弁の皇帝即位だが、それにしてもその怒り度の度合いは尋常ではない。だが、それには理由があった。
実は董卓だが、長安へと移ってから間もなく、ある報告がされたことで怒りを表に露にしている。その報告とは、劉弁の皇帝即位の根拠となった伝国璽の喪失であった。時期としては、長安への異動の時期と重なっていたのでその過程で行方不明になったものだと董卓らも結論付けたわけだが、それでも不手際であることに変わりはない。そこで董卓は、責任を取らせるべく司徒の地位にあった王允を罷免していた。それというのも、嘗ての王允の司徒就任にも一悶着あったからである。そもそも王允が司徒の地位に就いたのは、昨年の中頃となる。それまで司徒の地位にあった楊彪を罷免した際の、いわば後任人事としての就任であった。なお、楊彪が罷免された理由は、長安への遷都に反対してのことである。ともあれ、楊彪の後任として王允が選出されたわけだが、その際に李儒が反対しているのだ。その理由は、一昨年に起きた董卓暗殺未遂事件に関連した可能性である。董卓暗殺に際して、王允が密かに関連していたことは前述している。この内幕自体に関しては、董卓側は把握しきれていない。それは王允が上手く立ち回り、自身の蔭を薄めさせた為であった。但し、董卓暗殺と思わしき事件が起きた時、七星剣が関連している。当時、七星剣の持ち主は王允であり、その七星剣を献上するという旨で曹操が董卓と面会しているので李儒からしてみれば王允こそ怪しいと思っていたのである。ゆえに彼は、董卓へ王允が関与した可能性を進言したのだ。しかし、これまた前述した様に、王允は自身の関与を薄めさせている。その為、決定的な証拠は当時も見つからず、それどころかいまだ持って見つかっていない。結果として残ったのは、曹操を経由した七星剣の献上という事実だけなのだ。先に述べた証拠でもあれば、また違った結果も齎されたかもしれない。しかし、現状では董卓が名剣である七星剣を得たという利益しかなく、これでは董卓としても罰をでっちあげて捕らえるという動きも行えなかった。仮にここで適当な罪を着せて捕らえようものなら、せっかく朝廷での力を付けた自身への誹謗中傷を生みかねないからである。つまりどこかで、王允へしかるべき対応を表しておく必要があったのだ。
そのような内幕があった王允の司徒就任だが、今回の罷免はその人事の後始末という側面もある。王允が件の暗殺未遂に関して、黒とは言えないが灰色に近いことは董卓も周知している。だからこそ董卓は、伝国璽の喪失という事態に当たって王允の罷免を決めたのだ。そしてその罷免理由だが、司徒という役職に関連していることとしたのである。司徒が司る内容は、田土や財貨や教育などとなるが、董卓は伝国璽がこの中で財貨に相当するとしたのだ。まぁ、確かに強ち間違いではないかも知れない。伝国璽は皇帝の帝権の象徴であり、それこそ漢一国に匹敵すると言えるかも知れないのだ。これだけのものを紛失しましたとなれば、誰かが責任を取らねばならない。そこで董卓はちょうどいいと考え、王允の司徒就任の後始末も兼ねて罷免したのであった。
「文優よ。次の司徒への選出も併せて行う、何か良い案はあるか?」
「……それならば、仲穎様。泥を被る御覚悟はありますか?」
「泥だと? どういう意味だ、申せ」
李儒の物言いに対し、訝し気に眉を寄せつつ董卓は先を促した。すると李儒は、小さく頷いたあとで自身の考えを告げたのである。果たして泥をかぶるとはいかなることなのかというと、董卓の相国からの辞任である。董卓自身が相国という漢における最高位についていることは先にも述べたが、その最高位から辞任するとなれば報復人事とは見られることもない。王允が揃って辞任することで、董卓も伝国璽喪失に関して責任を感じたのだと受け取られるだろう。
「……なるほど。しかし相国から辞任するとして、代わりはどうする」
「はい。大師となればよろしいかと存じます」
大師とは周を起源とするとされている役職であり、太傅と太保に併せて三公とも称されていた。しかし秦の時代になると、丞相と太尉と御史大夫が三公と呼ばわれるようになる。のちに漢の時代になると、当初はそのまま引き継がれたが大司徒と大司馬と大司空へと名を変えている。だが、王莽が漢の実権を握る際に傀儡とするべく擁立した劉嬰を補佐と教育の為という名目で、大師と太傅と太保は復活していた役職ではある。なお、王莽が簒奪し起こした「新」を滅ぼし再興した漢において三公は、司徒と太尉と司空へ改められていた。
話を戻して大師とは天子、即ち皇帝を助けて導き、国政に参画する者のことである。大師と太傅と大保の三公の中では最上位であり、殆ど相国と変わりはしない。つまり李儒は、表向きには降格人事を董卓に適用することで責任を取ったという体を演出していると言えるだろう。李儒より話を聞いた董卓は、少し考えたあとで了承したのであった。
「いいだろう文優。我も今回のことに責任を感じ、相国より辞するとしよう」
「ご英断にございます」
ここに董卓は相国を辞し、代わりに大師へと就任したのだ。同時に董卓は、紛失した伝国璽の代わりとして新たに伝国璽を作ったのであった。無論、このことは、劉逞も知りうるところではあるが、茶番劇にしか見えていない。まぁ、劉逞自身が伝国璽を手にしているのだからそれも当然であった。嘗ての長安遷都の際に起きた伝国璽の紛失に端を発する相国辞任であり、その伝国璽を根拠とした劉弁の皇帝就任であるのだから文句を付けてきたという董卓の行動も分からないではなかった。しかしながら、今回皇帝への就任を宣言した劉弁や、裏事情を知った劉逞からすれば、どの面を下げて文句を言っているのかという心持にしかならない。人に文句を言う前に、自分が行ったことを試みて見よと言うのが正直な気持ちであった。
また、この皇帝就任において劉弁は天下に大赦を行い、併せて年号を発布している。その年号であるが、自身が以前に父親である霊帝の跡を継いで皇帝へ就任した際に改元した光熹を用いていた。これは一昨年、董卓によって光熹と昭寧と永漢の年号が廃止され、中平であるとされた一件に対する意趣返しの意味もある。つまり、あえて董卓を同じことを行うことで、彼が朝廷で権力を握ったあとより行われた一連の出来事をなかったことにしたのだ。同時に、勝手に改元したこととし、董卓及び彼に加担している者は漢へ反乱を起こした賊に過ぎないという意味をも言外に込めたというわけである。
さて、劉弁の皇帝就任後であるが、人事を併せて発表された。まず、洛陽より董卓を追い払い奪還したこと。その上、董卓によって荒らされた墳墓の修繕に対する褒美として、劉逞へ冀州における五つの郡。即ち、魏郡と中山郡と安平郡と鉅鹿郡と渤海郡が与えられた。無論、このことによりそれまでそれぞれの郡で太守を勤めていた者は解任されることとなる。だが、冀州では劉逞の人望が高いことに加えて、冀州牧を務めていた亡き韓馥が劉弁の激に応じた様にそもそもからして反董卓の立場にあると言っていい。そのことから、ある人物を除いて表立った不満が出ることはなかった。果たしてその人物とは、誰であろう袁紹である。これには二つの理由があり、一つは自身が渤海太守の地位から外されることになるからである。そしてもう一つはと言うと、袁紹が亡き韓馥の後釜として冀州牧の地位を狙っていたことにあった。冀州は豊かな地であり、自身の勢力を伸ばす上では打ってつけとも言える。その狙っていた冀州の地を根こそぎ劉逞へと与えられた上、今まで太守として自身の基盤となっていた渤海すらも手放さなさなければならなくなったことが大きく関与していた。だが、袁紹は不満こそ漏らしているが、爆発させたわけではない。それは、渤海太守の代わりとして揚州牧の地位が打診されたていたからである。豊かな冀州を得るには至らなかったが、それでも揚州牧には就任できる。このことが、彼の不満を幾許か押し留めたのであった。つまり、袁紹の揚州牧への就任自体が妥協の産物なのである。今さらとなるが、彼は名門袁家の次期当主候補であり、名声は高い。反董卓連合で副将の地位にあった理由も、全てはそのことが原因であった。それだけに、袁紹を渤海太守から外すことに対して懸念が生じたというわけである。仮に袁紹がもし不満を爆発させ、それこそ董卓へと走られると影響が予測できないからだ。その為、董卓との戦で大した軍功を挙げてもいない袁紹へ、揚州を預けるという選択が出てきたのである。
なお、この袁紹揚州牧就任を進言したのは、劉虞であったとされている。この劉虞だが、反董卓連合が解散して間もなく、劉弁の元を訪れていたのだ。その理由だが、それは劉弁が伝国璽を手にしたことに原因を求められる。伝国璽こそ皇帝の証明であることは前述した通りであり、ゆえに彼は宗室として皇帝を助けるべく伝国璽の現所有者である劉弁の元を訪れたというわけであった。元々、宗室の中でも名声が高かった劉虞である。その劉虞が自ら訪れてきたことに、劉弁らも喜びを表していた。このことに対する褒美というわけでもないのだろうが、劉虞には司空の地位が約束されている。そして今回の人事において、彼は正式に司空へと就任したのだ。因みに袁紹の揚州牧就任により、今まで揚州の刺史であった陳温は劉弁の元へ参内することとなる。軍勢こそ出してはいないが、失った兵を集めに来た曹操へ協力しているなど、陳温は反董卓の立場にある。その彼が揚州の刺史であったことも、袁紹の揚州牧就任理由であった。
さて、三公一つである司空に劉虞が就任したことは前述したが、残りの司徒と大尉にも新たな者が就任している。司徒だが、种拂が就任し、大尉に至っては、張温が就任していた。彼は董卓とは犬猿の仲であり、しかも長安への遷都に反対する気持ちがあったので、九卿の一つである衛尉という役職にありながらも、職を辞してまで洛陽に留まっていたのである。その張温だが、洛陽の大火に際しては劉逞や皇甫嵩へ大いに協力している。その後、彼は劉逞に対して降伏したのである。つまるところ張温の大尉就任は、彼が元から朝廷における重鎮であったことに加えて、洛陽で起きた大火の働きに対する褒美という面が大きい。その他にも、嘗て涼州で起きた反乱の鎮圧に貢献したことも加味されたことで、軍事を司る大尉就任となったのだ。とは言うものの、彼が軍事の最高位となったわけではない。その理由は、劉逞にあった。彼には前述した冀州にある五つの郡が与えられた他にも、褒美が与えられたからである。その褒美とは、大将軍への就任であった。劉逞は今まで勤めていた度遼将軍を解任されると、代わりに大将軍へと任命されたのである。この大将軍就任であるが、全くと言っていいほど反対は出ていない。近年でこそ大将軍は外戚で最も力ある者が就任していたが、そもそも漢を再興した光武帝と二代目となる明帝、三代目となる章帝の世ではそのようなことはなかったのである。つまり近年と違って過去には外戚以外が就任していたという前例があるので、問題とはならないせいだ。それに近年の大将軍には、暗黙の了解のような形で宰相としての役割も求められている。つまり劉逞は、正式なものではないが相国、もしくは丞相の役職を拝命したと言ってよかったというわけであった。
「とは言うものの、まずは食料を何とかせねばならぬな」
劉逞が言う通り、食料の問題は喫緊である。これは太平の世であれば、苦しくとも何とかなるであろう。しかし今は戦乱の世と言ってよく、軍事に手を抜くことは許されない。さりとて軍事に力を振り分け過ぎれば、褒美として新皇帝から下賜された自身の領地を含めて飢饉が蔓延しかねないのだ。つまり劉逞は、軍事を怠ることなく同時に食糧の増産を行わなければならないのである。これは全体で取り組まなければならないことであり、今や新たに三公へ就任した劉虞と种拂と張温は勿論、尚書令となり事実上皇帝の書記官となった荀彧や新たに九卿へ就任した者や劉岱と共に死亡した王肱に変わり東郡太守となった曹操や、長沙太守から河内太守となった孫堅などを交えて対策を練ったこの時、ある二人の人物が一つの提案をする。その二人が誰かと言えば、棗祗と韓浩であった。棗祗は、反董卓連合の中で武功を挙げた人物である。そして韓浩だが、元は王匡の家臣であった。しかし王匡が皇甫嵩に敗れたあと、彼の元を離れていたのだ。その後におきた虎牢関の戦いで、彼は武功を挙げている。その様な両者の働きを耳にした劉逞の推薦もあって、棗祗は執金吾、韓浩は光禄勲にそれぞれ抜擢されていた。そんな棗祗と韓浩よりの提案だが、それは屯田の創設である。屯田とは、農民ではなく兵に田畑を耕せつつ、戦事となれば兵士として軍事に携わらせる制度である。これにより食料を生産させて、全体的な増産を目論むことを目的としていた。
「ふむ……そう言えば、武帝の頃にも行われたと聞いたような覚えがありますな」
「はい。尚書令殿がおっしゃられる通りにございます」
「なるほど、屯田……よかろう。そなたら、やってみよ」
『はっ』
劉逞から任命された棗祗と韓浩は早速始めるも、二人は違うやり方を行っていた。棗祗は前述の通り、前線などで兵士にあれた耕作地を耕すという軍屯を行わせたのだが、韓浩は内地にある荒れた田畑を民衆、特に戦乱から逃れてきた流民へあてがうことで耕作させるといういわゆる民屯を行ったのだ。これは別に二人が仲違いしたからなどではなく、あえて別々やり方を行ったのである。この様に同時に別のやり方を行うことで、効率よく食糧の増産が可能ではないかと模索したからであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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