第六十六話~反董卓連合 十~
第六十六話~反董卓連合 十~
初平元年(百九十年)
冀州、魏郡治府のある鄴に駐屯していた劉逞であったが、いよいよ進軍を開始したのである。この進軍自体は元から決められたことではあるのだが、同時にある事情があり、どうしても行わなければならないことでもあった。果たしてその事情とは、兵糧である。兵糧の不足を理由に反董卓連合から抜けた兗州刺史の劉岱であったが、この理由自体に嘘はない。嘘はないが、嘘がないだけに問題であった。何せ食料などを理由に、劉岱を始めとする兗州諸侯が、董卓と手を結ぶかも知れないからである。その様な事態を避ける為、劉逞は食料の提供を劉岱へ行うことにしたのであるが、その食糧援助が影響したのである。しかしながら、前述した様に、劉岱というか兗州諸侯を董卓側に走らせるわけにもいかない劉逞としては、実は苦渋の決断でもあったのだ。つまるところ、この一大攻勢を持って決着を付けなければ反董卓連合自体を保つことはできないというわけである。ある意味では、背水の陣ともいえる状況であったのだ。
「何としても、決着を付ける!」
進軍に当たって劉逞は、いっそ悲壮とも言える決断をしていたのであった。
そして劉逞の動きを契機として、司隷河内郡に駐屯している袁紹を大将とした軍勢も動く。それから、兗州陳留郡に駐屯している劉備を大将とした軍勢しかり。豫州潁川郡に駐屯している、孔伷を大将とした軍勢もしかりである。そして最後に、荊州南陽郡に駐屯している袁術を大将とした軍勢。これらの軍勢が、一斉に進軍を開始したのであった。
まず河内郡の軍勢であるが、河陽津(孟津)へ進軍したのである。この地から黄河を渡って河南尹に入り、董卓を討つつもりであった。次に陳留の軍勢であるが、こちらは曹操が一敗地にまみれた汴水を渡り、その後に虎牢関を制圧した上で、そのまま洛陽へ向かい董卓を討つ予定である。また、潁川郡の軍勢だが、緱氏を抜けて洛陽へと至るつもりである。最後に南陽郡の軍勢はというと、司隷の南側から洛陽へと至るつもりであった。
その一方で董卓はというと、劉逞らの画策した今回の大攻勢を知ると、まず皇帝である劉協を長安へ動座させることを実行したのである。その皇帝に同行する形で、朝廷に仕えている者たちも長安に向けて移動させる旨も併せて通知し、実行している。また、そればかりではない。同時に董卓は、反董卓連合の進軍路に当たる地へそれぞれ軍勢を派遣したのであった。まず南陽郡より攻めてくる軍勢には、胡軫と楊定を当てている。彼らは洛陽の南にある大谷関に入り、南陽からの軍勢を迎え撃つつもりであった。また潁川郡より攻めてくる軍勢に関しては、李傕と郭汜を派遣している。彼らは轘轅関へと入り、そこで軍勢を迎え撃つのである。そして陳留郡からの軍勢はというと、既に虎牢関へ徐栄と李蒙が駐屯しているので、彼らに任せるつもりであった。最後に河陽津より進軍してくる軍勢に対してであるが、何と董卓自ら出向いたのである。彼は河陽津へは向かわず、平陰津へと進軍するとそこで黄河を渡河するような素振りを見せる。しかもその進軍は隠そうとしない実に堂々としたものであり、当然ながら董卓の動向はすぐに河陽津へと知らされたのであった。しかしながら、なぜ董卓が河陽津へは向かわず平陰津へ向かう素振りを見せたのか。その理由は簡単である、この時分で河陽津は、河内郡太守の王匡と冀州牧である韓馥の配下となる趙浮と程渙によって押さえられていたからであった。つまり董卓は、自ら動くことで囮となり、敵勢を引き寄せるという策を実行したのである。そしてその策は、図に当たることとなった。事実、王匡らが董卓の動きを知ると、河陽津へは最低限の兵を残して平陰津へと進軍しているのだ。しかしながらこの董卓の動きだが、前述した様に河陽津にいる王匡たちをおびき出す以外何物でもない。実際、王匡らが河陽津より進軍したと聞いた時、董卓はにやりと笑みを浮かべて一言呟いたのであった。
「策は成った。あとは義真が上手くやるであろう」
そして戦況は、董卓の漏らした一言の通りになったのである。実は董卓だが、自らが率いた囮の軍勢とは別に別動隊を組織していたのである。果たしてその別動隊の大将は誰なのかというと、何と皇甫嵩であった。別動隊を指揮する皇甫嵩は本陣を置く畢圭苑から董卓が出陣してから暫く経つと、密かに軍勢を動かしたのである。その別動隊は黄河の畔、小平津までくると伏兵となったのであった。やがて皇甫嵩の元に、河陽津より出陣した軍勢が小平津を過ぎたことが報告される。その時点で皇甫嵩は、すぐに動き始めた。別動隊は小平津を渡河して対岸に渡ると、兵陰津へと進軍している王匡たちの軍勢に追い付く。するとそのまま、敵を背後から攻撃したのである。まさかの奇襲であり、王匡と趙浮と程渙は何が起きたのか分からなかった。ただ攻撃されていることだけは、彼らもどうにか判断することができたのであった。
「誰だ! 我らを攻撃しているのは!!」
王匡が思わず口にした言葉であるが、答える者はいない。誰もが右往左往している状況であり、とてもではないが現状を把握できることなどできなかった。しかしながら、一つだけ分かっていることがある。このままでは、間違いなく負けるということだけであった。
「ええい! 致し方ない!! 河陽津へ戻るぞ!」
一応大将となる王匡が撤収を決めたことで、彼らは進軍を諦めて河陽津へ転進したのである。だがここで、王匡が間違いを起こしてしまう。その間違いとは、撤退こそ決めたが、殿を置かなかったことであった。その為、皇甫嵩率いる別動隊に散々に打ち破られてしまう。しかも追撃を受けたこともあり、河陽津へ戻ることもほぼ不可能となってしまう。そこで王匡たちは、河陽津ではなく袁紹が率いる本隊へと逃げ遂せたのであった。
そして皇甫嵩はというと、王匡らの追撃はそれ以上行っていない。代わりに行ったのは、河陽津の再占領であった。この地を押さえておけば、そう簡単には袁紹が大将を務めている軍勢が黄河を渡河するのは難しい。ただ他にも、自分が率いる軍勢が渡河した小兵津や董卓が駐屯している平陰津もあるが、その地には改めて兵を置けばいいだけの話である。まずは河陽津を押さえることこそが、最重要の案件であった。
「相国様へお伝えしろ。河陽津は、奪還したと」
「はっ」
戦勝であるにも関わらず感情が籠っていない酷く平板な声で皇甫嵩は、董卓への伝令を伝えたのである。のちに董卓が皇甫嵩からの報告を聞くと、彼は手放しで喜んでいる。だがしかし、喜んでいるにも関わらず董卓の目は酷く冷徹に見えていたという。ともあれ、河内郡から進軍を開始した軍勢の出鼻をくじいた董卓は、本陣のある畢圭苑へと戻ったのであった。
さて、ここで時間を少し戻すとしよう。
それは、董卓が洛陽より皇帝の動座を決めた時分の頃であった。皇帝たる劉協は、董卓の甥に当たる董璜より近いうちに洛陽からの動座を伝えられたのだが、その内心では面白くなかった。洛陽は、光武帝以来の歴代皇帝が中心に座していた都市である。その洛陽よりの移動を、一方的に伝えられたのだからである。まだ数えで十才と幼いとはいえ、劉協は愚かでもない。しかも自身は、皇帝である。その地位にある筈の自分が、有力者とはいえ一家臣でしかない董卓からの言葉に従わなければならないという事態が面白くないのだ。だからと言って、ここで董卓に対してあからさまに逆らったことでどうにもならないことは皇帝に就任してからの生活で幼いながらにも理解している。と言うか、理解せざるを得なかったのだ。だからこそ劉協は、不快感は露にしつつも使者でもある董璜へは何も言わなかったのであった。
「とはいえ、たとえ一矢でも報えぬものか」
まだ幼さが完全に抜けきってはいない劉協であり、しかしその幼さゆえ董卓に仕返しができないかと考えたのである。そんなとき彼の脳裏にふと浮かんだものがある。それは皇帝たる象徴でもあり、嘗ては兄から皇帝の地位を譲られると自身も使うようになったモノである。果たしてそのモノとは、伝国璽であった。
そもそも伝国璽とは、周王朝歴代の王によって受け継がれた九鼎が元である。「鼎の軽重を問う」の語源にもなったものであり、王権の象徴と言っていい代物である。しかしながら周が秦によって滅ぼされた際に、混乱の為に泗水へと沈み失われてしまったという。そこで秦は新たに玉璽を作成し、九鼎に続く王権の象徴としたしたのだ。この秦によって新たに作成された玉璽こそ、伝国璽である。秦が滅び漢に受け継がれたあとも伝国璽は、王権の象徴として漢歴代の皇帝に受け継がれていた。即ち伝国璽こそ、皇帝を証明する存在であると言っていい。ある意味では伝国璽を持つからこそ、劉協は皇帝だといえるのだ。
そして劉協自身、皇帝はあくまで兄である劉弁より預けられていると思っている節がある。董卓と言う存在によって、殆ど強引に皇帝の地位から兄である劉弁が引きずり降ろされたことは劉協も知ってはいる。その理由まで知る由もないが、それでもいわば董卓の力により不正な手段で皇帝とさせられた自身よりは、よっぽど劉弁の方が皇帝にふさわしいと日頃より思っていたのであった。
「やはり我の元にあるより、兄の元にある方がふさわしい」
どのみち劉協は、董卓の操り人形でしかない。ならば相応しい人物の元にある方が国の為にも、そして家臣の為にも、何より民の為にも幸せというものである。そう劉協が考えたかは分からないが、彼は伝国璽を自身の元から兄の元へ送り届けようと思い至ったのであった。しかし、宮城より出たこともない劉協が兄の元へたどり着けるわけもない。何より董卓へ戦を仕掛けているのが兄と、その兄へ力を貸した劉逞であることは流石に知っているが、逆に言えばそれぐらいしか知らないのである。それでもまだ劉弁ぐらいの年齢になっていればまだ別かも知れないが、皇帝とは言え所詮は数えで十才でしかない。とてもではないが、自身が宮殿より脱出して兄である劉弁や兄に力を貸している劉逞の元へ向かうなど無理な話である。そこで劉協は、ある人物に相談した。その人物とは、趙融である。彼は霊帝が創設した西園八校尉の一人であり、助軍左校尉とされた人物であった。
その趙融だが、劉協より話を聞かされた時は、流石に驚きを隠せないでいる。だが、間もなく彼は小さく笑みを浮かべていた。その理由は二つあり、一つは専横を極めている董卓の鼻を明かすにはとてもいい手であると考えたからだ。そしてもう一つの理由はというと、洛陽から密命を理由に離れられるからである。恐らくだが、そう遠くないうちに洛陽は戦火に晒されるだろうと趙融は予測していた。とはいえ、董卓が洛陽にいる以上はそう簡単に離れることは難しい。だが、その董卓が洛陽から長安への事実上の遷都を実行する気である。しかもそこに、皇帝である劉協からの、伝国璽を劉弁へ渡したいとの相談をされたのだ。頃こそまさに千載一遇の好機であり、この流れに乗らない理由は少なくとも趙融にはなかった。
「お任せください、陛下。必ずやご希望に添えたいと存じます」
「うむ」
こうして劉協より任された趙融は、静かに動き始める。するとこの動きに、今では司空の地位にあった荀爽も密かに加担したのである。この頃、彼は体調を崩しているのだが、その様な容体を押して彼は協力していた。その理由は彼自身が、もう長くは持たないと考えていたからである。荀爽にとっては、最後のご奉公といった意味合いもあったかも知れない。そこで彼は、自分の代わりとして息子の荀棐と、そして种払の息子である种劭を趙融の元へと送り込む。こうして都合三人となった彼らは綿密に計画を立てると、機を見てついに伝国璽を宮中より運び出したのであった。
そう。
これにより彼らは、李儒の目すらも欺いている。しかしながら、どうやって彼らが李儒の目を欺けることができたのか。これは皮肉にも、洛陽から長安への皇帝の動座という結滞が齎したものである。即ち、皇帝の移動に伴い行われる遷都による慌ただしさが隠れ蓑となった為である。要するに李儒の策により、伝国璽が運び出されるという事態が鮮やかに成功した形である。偶然の産物かも知れないとはいえ、形的には自らの出した策によって李儒は足を掬われたのだ。ある意味で、策士策に溺れたといっていかも知れない。結果として、李儒も知らなかったことだが、皮肉以外の何ものではない事態が発生した瞬間でもあった。
別連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」も
併せてよろしくお願いします。
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