第六十一話~反董卓連合 五~
第六十一話~反董卓連合 五~
初平元年(百九十年)
曹操が立案した侵攻作戦が頓挫したことで、現状において三つに分かれていた各戦線は完全に膠着してしまったと言えるだろう。当初、曹操が虎牢関へ。ひいては河南尹への侵攻を画策したことに加え、劉逞が鄴にまで本陣を移動したこともあり、河内郡に駐屯していた袁紹率いる軍勢も豫州の潁川郡に駐屯していた孔伷も、ついに重い腰を上げようとしていたのだ。しかしながら、孔伷と袁紹の元へ曹操が大敗したという知らせが舞い込んだのである。これにより、彼らはまたしても尻込みしてしまったというわけであった。正直に言って劉逞もこれには業腹であるが、曹操が大敗したという事実がある以上は無理に攻めろとは言いづらい。ここにも連合軍であるという事実が、劉逞に対して重く伸し掛かっていた。とはいえ、幾許かの時を経れば状況は変わるだろうと考えていた劉逞であったが、翌月の中頃に予想もしていなかった知らせが、二つ齎されたのである。そのうちの一つが、董卓側の兵力移動であった。
洛陽近くの畢圭苑に本陣を置いていた董卓だが、その洛陽へ長安にいた将兵の移動を行ったのである。何と董卓は、涼州で起きた反乱への対処に当たっていた皇甫嵩を軍隊ごと洛陽へ呼び寄せたのだ。果たしてこの行動には、理由があった。それは、洛陽まで連合軍が迫った際に足止めをさせる為である。だがこれは表向きの理由であり、本音は別のところにあった。その本音だが、実は二つある。その一つは、董卓の自尊心の発露である。皇甫嵩と董卓だが、涼州での反乱軍と相対している時もあまり仲がよかったとは言えなかったのだ。しかし、そのことが原因となり反乱軍へ負けてしまえば本末転倒になることから、決定的な仲違いにまでは至らなかったという経緯がある。つまり、お互いに最後の一線は越えないようにと自重しあっていたのだ。その様な経緯もあったことから董卓は、ここで嘗ての上司にあえて命を出すことで、自身の自尊心を満足させようと考えたというわけである。残りもう一つはと言うと、劉逞に対する嫌がらせとなる。年が離れているにも関わらず、劉逞と皇甫嵩の仲がよかったことは董卓も知っている。そこであえて、皇甫嵩を呼び寄せたというわけであった。命じられた皇甫嵩としても内心では様々な思いもあるのだが、相国となっている董卓からとあれば致し方ない。自身の心を押し殺して、命に従ったのである。なお、代わりに長安の防衛を命じられたのは朱儁であった。
しかしてこの朱儁だが、実は劉逞と繋がりを持っている。反董卓連合が起きた前後のことだが、彼は劉逞の家臣である朱霊を通して接触したのだ。これは同じ朱家の一族であるということを利用してのものであるが、朱儁と朱霊に直接的なつながりがあったわけではないことを明記しておく。ともあれ朱儁と接触した劉逞であるが、彼が合流することを良しとしなかった。その理由は、現皇帝たる劉協の身を案じてのことである。董卓が朝廷の中枢を握ってからというもの、劉協の回りにはこれというような武を司るような人物が存在していなかった。そこで、朱儁にその役目を担って貰うのである。なお、この考えは劉逞の考えではない。程昱などといった劉逞の軍師たちからの、進言によるものである。もしこの進言が無かったら、劉逞は朱儁を迎え入れるつもりであった。
何はともあれ、この朱儁による劉協の護衛は実現することになる。これには荀爽や彼の子供である荀棐、他にも当時はまだ司徒の地位にあった楊彪や議郎の韓悦らの働きも大きかったと言えるだろう。こうして朱儁は右車騎将軍に任じられると、やがては長安へと移動する予定となっている劉協を受け入れる体制を調える為に先行して移動したのであった。
そしてもう一つの話と言うのが、劉岱が率いている兗州の軍勢に関してとなる。酸棗に変わらず駐屯している彼らの軍勢であるが、何と兵糧が尽き掛けているというのだ。これは「汴水の戦い」で破れてしまったという事実が、彼らに精神的な圧力を掛けていたせいである。要は二進も三進もいかなくなった現実から逃れる為に、以前以上に大規模な宴をそれこそ連日連夜行っていた為であった。
先にも述べたように、この一件に対して曹操もあまり強くは言えないでいる。無論、彼も座して見ていたわけではない。流石に頭越しから諫めることはできないが、それでも言葉は尽くしていたのである。しかし、劉岱たちがその言葉に耳を傾けることはなかった。いや、正確には張邈など一部の諸侯には耳を傾けた者もいる。しかしながら、諸侯の大半は耳を傾けなかった。特に軍勢の大将格である劉岱が、より顕著なのである。何ゆえにそこまで耳を傾けないのか、それには劉岱の面子というか自尊心が大きく関与していた。劉岱は宗族であり、しかもその血筋は漢の高祖となる劉邦にまで繋がる。その名門たる自分が、董卓の派遣した軍勢に恐怖を抱いているなど、認めるわけにはいかなかったのだ。その上、曹操が宦官である曹騰の孫であることも影響している。曹騰自身は宦官とはいえ尊敬に値する人物なのだが、宦官である事実を覆すことはできない。どうしても、そのような色目で見られてしまうことがあるのだ。しかも劉岱が宗族であることが、より拍車を掛けていると言える。寧ろ同じ立場となる劉逞が、曹操の出自について全く気に掛けていないことこそ異常であると考えられていたのだ。
ともあれ、その様な感情も含め曹操からの言葉を受け入れることができず、彼らによる宴は収まらなかったというわけである。しかしながら、全くの無駄であったのかと言うとそうでもない。連日連夜、宴を行っていることが董卓側、正確には成皋にある要害に籠っている徐栄と李蒙からしてみると、まだまだ余裕があると見えてしまったのだ。その為、斥候こそ送り込むことはあっても、本格的な侵攻は行われていないのである。だが、兵糧がいつまでも存在するわけがない。普通に駐屯し続けるだけでも消費するというのに、連日連夜に渡る勢いで宴など開いていれば、その消費は右肩上がりとなる。少なくとも軍を起こしてから半年は優に持つと思われていた劉岱の抱えていた兵糧は、その半分にも満たない僅か三ヵ月で尽きようとしていたのだ。この状況は流石に拙いと感じた曹操は、手持ちの兵が少なくなってしまったという事情もあって一度劉逞の元へと戻ることを決断する。その旨を劉岱に告げると、彼はこれで厄介払いができるとばかりに送り出したのであった。
「……気持ちは分からんでもないが、そのようなことなど子供でも分かるだろうが」
「常剛様。我も言葉は尽くしましたが、張殿と鮑殿ぐらいしか賛同は得られませんでした」
「そうか……そなたも傷を負ったのであろう孟徳殿、ご苦労であった」
実は曹操だが、汴水からの撤退時にいささか傷を負っていたのである。それほど大きい傷ではなかったこともあって、あの時は気付いていなかったのだ。しかも同じく傷を負った鮑信に比べればとても軽く、彼の怪我だが既に完治している。なお、鮑信が被った傷であるが、まだ完治していない。予想以上に傷が深く、思いのほか長引いていたのだ。
「常剛様、実は一つお願いがあります」
「何だ?」
「鮑殿の傷を、元化殿に診ていただきたいのです」
「元化に? ふぅむ……よかろう」
元化とは、華佗のことである。開腹手術を行った盧植の身を案じたことと、何より盧植からの勧誘を受けて華佗は劉逞の元に訪れていたのだ。盧植の治療を行った腕を買い、劉逞は彼を典医としたのである。しかも華佗は、医者としての腕もさることながら、孝廉としても推挙されるなど一廉の人物でもあった。それゆえに劉逞は、華佗を典医としてだけでなく、士大夫としても遇していたのである。これには、華佗も喜んでいた。この様な経緯もあって、華佗は劉逞に同行していたのだ。それゆえに曹操は、いまだに傷が癒えない鮑信を華佗に診てもらおうと思い至ったのである。そのことが彼だけの考えであったことは、同席している鮑信の様子を見れば一目瞭然である。その様子が少し面白かったこともあり、劉逞は許可を出したのであった。
「感謝します、常剛様」
「構わぬ。他ならぬ孟徳殿の頼みだ。それに、鮑殿のことも聞き及んでいる。何より、味方が多いに越したことはない」
「あ、ありがとうございます」
自身のことながら雰囲気に流されて碌に言葉を紡げなかった鮑信であったが、怪我の治療をしてくれるということには礼を述べている。しかも華佗の噂自体は、鮑信も聞いたことはある。その華佗の治療ということであるならば、断る理由なかった。ともあれ、鮑信は治療の為にこの場から離れることとなる。この場に変わらず残っているのは、曹操と張邈の二人であった。劉逞はその二人から、改めてどれぐらいの兵糧が残っているのかを尋ねる。果たして帰ってきた答えは、前述したとおりの残りが一月ほどという答えであった。しかもその期間とて、最低限にまで各人に支給される量を絞っていればである。今までの消費量から換算すれば、一月も持たないのは間違いない。だからこそ曹操は、考えに賛同してくれている二人と共に劉逞の元へ現れたのだ。しかしこれには、劉逞も悩みどころである。兵糧を送ることに否はない、戦線を維持する為にも必要なことでもあるからだ。とはいえ、無駄な宴で過剰に消費されるために送るなど言語道断である。その様な理由で兵糧を送るなど、できる筈もないのだ。
「兵糧を送ること、それ自体は吝かではない。だが、半ばやけだと思われる宴の為に送るなどできぬ」
「それは分かりますが……」
「まぁまて。策を講じる為に、少し時間が欲しいということだ。それに孟徳殿、そなたも酸棗には戻らぬのであろうが」
「はい。誠に申し訳ありませんが……手勢があまりにも減っておりますので」
こちらも前述したことだが、曹操が率いる自前の軍勢はかなり減っている。「汴水の戦い」で主だった将にこそ被害はなかったのだが、代わりに曹操が率いている軍勢の兵が被った損害こそが甚大だったのだ。そこで曹操は、一度連合軍より離れて兵を募集することを決めている。彼が兵を補充する為に目指すのは、揚州である。この地で兵を集めたあと、再び合流するつもりであった。なおこの件については、劉逞も理解している。流石に兵がいません、だから戦もできませんとは言えない。何より、曹操の面子にも関わるからであった。
取りあえず、兗州に送る兵糧を無駄にしない策を講じる為、時間を置くことになる。盧植たちに相談する為であったのだが、この数日遅れたことが影響を及ぼすことになるとは、劉逞も曹操も張邈もこの時点では予測できなかったのであった。
曹操たちから兗州における詳細な状況を聞き、同時に洛陽にて動きがあったことを聞いた翌日、劉逞は盧植ら軍師たちを集めると、彼らと共に策を話し合っていた。そして曹操だが、日が昇ると鄴より揚州に向けて出立していたのである。流石に、早い動きであった。
「さて、どうしたものか」
「……ここはやはり、弘農王様のお力をお借りしましょう」
「やはりそこに落ち着くのか、公仁」
董昭が進言したこと、それは劉逞も考え付いたことでもある。だができうるならば、劉弁の名を使うことは行いたくなかった。しかし、劉逞が兵糧を送るともに劉岱たちに対して諫めたとしても、聞き入れるとは思えない。もし聞き入れるつもりがあったならば、既に曹操や張邈や鮑信の言葉を受け入れていただろう。たとえ劉岱が自負心を抱いていており、その思いが邪魔をしたとしても。いや、寧ろ自尊心や自負心があるからこそ董昭のいう劉弁の力は有効だと言える。元とはいえ皇帝であった劉弁であり、しかも今は軍勢の旗印とも言える立場にある。そのような劉弁から出たものであれば、劉岱でも従うと思われるからだった。
「はい。お相手が公山様であるからこそ、弘農王様のお力は有効となります。それに……」
「それに?」
「時間がありません」
董昭が言う時間がない、これがどうしても判断に制限を掛けてしまう。時を掛けすぎれば兗州から侵攻する予定の軍勢は瓦解してしまうだろう。いや、その前に解散するかも知れない。そのような事態を防ぐ為には兵糧を送るしかない、しかし兵糧を送れば宴などで無駄に消費されてしまう。その無駄を防ぐ手っ取り早い手立てこそ、劉弁の存在なのだ。
「……わかった。弘農王様から、書状を出して貰おう。併せて援軍も送れば、流石に公山殿も控えるようになるだろう」
「しかし援軍ですか……ああ、文台殿ですな」
「その通りだ、伯喈」
現状において孫堅は、遊軍状態としてこの鄴に駐屯している。彼と彼の軍勢を兵糧と共に送ることで劉逞は、兗州の軍勢に梃入れを行うつもりなのだ。これには、盧植以下劉逞の軍師たちからの反対も出てこない。彼らとしても、孫堅の彼が率いる兵を生かすことには寧ろ賛成であるからだ。
取りあえず兗州に駐屯する劉岱の軍勢に対する手立てが決まったことで、話は次の議題である洛陽のことへと移る。とは言うものの、洛陽のある河南尹に駐屯もできていない状況ではどうしようもない。董卓の行動を防ぐには洛陽へ攻め込むしかないのだが、しかし現時点ではとてもではないが無理である。せいぜいできることは現代で言うところのゲリラ戦を行うか、あとは暗殺を仕向けることぐらいだろう。だが、どちらの手立ても難しいと言わざるを得ない状況であった。
「致し方あるまい。打てる手があまりにも少なすぎる。無論、動向は注視はするが、それだけだな」
「無念でございます」
「言うな子幹、我も同じよ」
盧植の言葉は劉逞だけでなく、この場にいる者隊に共通した思いでもあった。
何はともあれ、方針が決まった以上、あとは実行するだけである。劉逞は、劉弁に対して兗州での状況を自ら赴いて知らせるとともに、劉岱への書状を願い出る。その話を聞いた劉弁は、半ば呆れ半ば怒りを表したが、彼の反応もそこまでである。劉弁は大きく息を吸い、それから何かを吐き出すかのように息を吐くと、劉逞からの要請を了承したのだ。程なくして無事に劉弁からの書状を入手した劉逞は鄴に戻ったが、流石にまだ援軍と兵糧を送る準備は終わっていなかったのである。やがてその準備が調うと、劉弁からの書状と共に孫堅を兗州へと送り出したのであった。
因みに孫堅の軍には、息子の孫策が同行している。このまま劉逞の元に置いておくことは、できうるならしたくなかったからだ。また、揚州から孫策とともに元氏へと訪れた周異と周瑜の親子も、孫堅に同行していたのであった。
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