第五十三話~争乱への道 二~
第五十三話~争乱への道 二~
永漢元年(百八十九年)
荀彧との会合後、劉逞が洛陽での動きをより正確に知る為に送り出した趙燕率いる者たち。彼らが洛陽へ到着すると、その洛陽内にてある話がまことしやかに囁かれていたのである。その話とは、つい先日に董卓が相国へ就任したと言うものであった。
相国とは朝廷における最高位であり、現代で言えば首相に当たる。その意味では丞相と同じとなるのだが、相国と丞相を比べた場合だと相国の方がより上位の扱いであった。ただ一説には、相国が宰相と同義であり、丞相は副宰相に当たるなどという話もある。しかしながら、明確なところは分かっていなかった。
何はともあれ、相国就任によって董卓は、位人臣を極めたこと言っていい……と考えるのだが、どうもそういった感じにはなりそうもなかった。なぜかと言うと、それは董卓が相国へ就任した方法にある。そもそも相国であろうが丞相であろうが、はたまた下級職であろうと官職を命じるのは皇帝である。少なくとも、皇帝の名において職に任じられるのだ。しかし董卓は、皇帝となっている劉協の手によらず自らの力で相国に就任したのである。当然ながら認められるような物ではないのだが、この相国への就任は認められてしまっていた。それは、董卓の持つ力が齎したと言っていい。皇帝以下、董卓の配下以外は、忸怩たる思いを抱きながらも認めざるを得なかったのであった。
「……専横を極めるとは、このことだな」
劉逞との会合を成功裏に終えたあと報告の為に洛陽へと戻ってきた荀彧は、この話を聞いたあとで嘆きながらもそう一言漏らしたと言われている。その一方で先に洛陽へと入っていた趙燕はというと、さっそく準備を整えていた。その準備とは、劉逞への連絡である。とはいえ、洛陽に到着してそうそうにも連絡が必要になるとは、趙燕としても予想外であった。ともあれ彼は、部下を劉逞の元へと送り出す。同時に趙燕は、荀彧からの話に基づいて、种払の動向を調べることにした。洛陽にて彼が誰に接触し、そして董卓暗殺を実行しようとしているのか。これが分からなければ、意味がないからだ。幸いなことに、光禄勲の荀爽が味方となっている。彼に尋ねれば、すぐに分かるだろうと趙燕は考えていた。それで彼は洛陽へと戻ってきたばかりの荀彧と接触し、彼と共に荀爽の屋敷へと赴いたのである。果たしてその予測は、大当たりとなった。
それというのも、実は荀爽も動いていたからである。話としては、种払が王允と接触した時期にまで遡ることとなる。劉弁の密使である种払が董卓暗殺の為に王允へ白羽の矢を立てたわけだが、その王允がさらに複数の者を引き入れたのだ。それが荀爽であり、他にも何顒と鄭泰という人物も加担していたのである。果たして彼らによる董卓暗殺計画だが、今回の相国就任を利用するというものであった。
王允たちは、董卓の相国就任の祝いと称してある名物を献上したいと申し出たのである。その名物とは、王允の持つ名剣であった。嘘か誠かは分からないが、その名剣とは七星剣である。これには董卓も、過分に喜びを表していた。だが、ここで問題が一つ発生する。それは、誰が暗殺を実行するのかというものであった。董卓は武将であるが、同時に武人でもある。种払や王允、荀爽や何顒に鄭泰といったいわゆる文官では、とてもではないが実行したところで成功するとは思えない。それに董卓の周りにも、華雄を始めとした豪の者がいる。なおさら、基本的には文官でしかない彼らでは成功はおぼつかなかった。そこで王允は、ある人物にその役目を任せることにしたのである。その人物とは、何顒の推薦もあって引き込んだ曹操であった。何顒は、曹操を特に買っていたのである。実際、曹操ならば漢を立て直し、そして天下を安んじることもできるであろうとまで評していたぐらいなのだ。
何より曹操は、武人としても腕が立つ。少なくとも王允たちが暗殺を実行するよりは、成功する確率は高い。それに万が一、失敗したとしても、曹操ならば切り抜けられるだろうという思いも彼らの中にあった。
「そうだったのでしたか……ところで叔父上、実行はいつになりますか?」
「それはだな、今日だ!」
「……え? 今、何とおっしゃられましたか!?」
「今日だと言ったが、それがどうした?」
『はい!?』
荀爽から聞かされたまさかの事実に、荀彧と趙燕は揃って素っ頓狂な声を上げたのであった。
荀爽の屋敷で趙燕と荀彧が揃って驚きの声を上げていた頃、宮中では曹操と董卓が面会今まさに行われようとしていた。献上品を届ける為に宮中にある一室にて待たされていた曹操の手には、当然だが王允より預けられた七星剣がある。その七星剣を曹操は、じっと見つめていたのである。そんな曹操の元へ、董卓の来訪が告げられたのであった。
「楽にしろ孟徳」
「はっ」
「して、そなたが手にしているのが件の剣か!」
「はい。七星剣にございます」
曹操は両手に掲げ、董卓へと差し出す。その剣を取ろうと、董卓は歩み寄る。実はこの接近、これこそが暗殺する絶好の機会であった。曹操は七星剣を献上するに当たって、わざと両手を開いて掲げている。まるで董卓へ、その開いた間を握れと言わんばかりにであった。
通常、人の心理として持ちやすい場所を持とうとする。まさにその心情を突いた、罠であったのだ。つまり董卓が七星剣の鞘を握った瞬間、両手の空いた曹操が即座に剣を抜く。そのまま董卓へと切り掛かることで、暗殺を成功させる。これこそ、王允たちの描いた董卓暗殺の骨子であった。こうして董卓さえ討ってしまえば、あとは宮中を抑えるだけである。その準備も完了しており、暗殺成功の連絡があり次第兵を雪崩れ込ませて入れて宮中を抑えるつもりであった。
そしていよいよ、予想通りに董卓の手が伸びてくる。さしもの曹操も、噴き出る汗を止める術を持たない。もし董卓が目にすれば、大丈夫かと心配してくることは必定であった。しかし曹操にとって幸いなことに、剣を董卓へ献上するに当たり彼は頭を下に向けている。その為、曹操の表情を董卓が窺い知ることができなかったのだ。
いよいよ、曹操の視界に董卓の足が見えてくる。それこそあと一歩近づけば、董卓は七星剣の鞘を握るだろう。そうなれば、あとは実行するだけである。七星剣を掲げる曹操の耳には、自身の心臓がとても五月蠅く聞こえてくるようであった。
だが、正にその時のことである。曹操と董卓がいるこの部屋へ、近付いてくるような音が聞こえてきた。しかも音を聞く限りそれは複数であり、しかも音から判断するに武装をしているかのようである。これには董卓も気に掛かり、歩みを止めてしまう。そればかりか、曹操との間に数歩ほどの距離を取ったのである。それだけではない、董卓は身構えたのであった。果たして董卓が取った行動だが、これは曹操の様子がおかしいことに気付いたからではない。徐々に近づいてくる音に対して、警戒したゆえの動作であった。何せ曹操とは、すぐ近くまで距離を縮めていたのである。それでは万が一立ち回りをしなければならなくなった時、窮屈ことこの上ない。その為、どうしてもある程度の距離を開ける必要があったからだ。
その一方で曹操だが、思わず小さく舌打ちをしている。それというのも彼は、王允たちが勇み足をしたからではないかと考えたからであった。要は、連絡を待たずに宮中へと踏み込んだのではと勘繰ったのである。すると曹操は、今まさに献上しようと考えていた七星剣を腰に構える。何せ曹操は、相国となったことで帯剣しての参内ができる董卓と違って帯剣して宮中へ参内することはできない。それこそ、丸腰で宮中へは赴かねばならないのだ。
ここに暗殺するつもりだった曹操と暗殺される直前だった董卓が、揃って不審な物音に対して警戒するという奇妙とも皮肉とも取れる僅かな時間が流れたのである。果たして長いのか短いのか分からない時が流れたあと、物音の正体が判明した。それは、董卓家臣の中で武の筆頭と目されている華雄率いる兵たちであったのである。しかもその一団には華雄だけでなく、董卓の懐刀である李儒まで同行していたのだ。曹操も華雄については見知っていたし、李儒も同様である。流石に華雄と違って李儒については、以前から知っていたわけではない。だが、董卓による皇帝交代劇を司った存在であると知ったことで、即座に情報を集めたからである。同時に曹操は内心で、いやな予感に包まれていたのであった。
さて、どうして李儒や華雄がこの場に現れたのか。その理由は、やはり李儒にあった。実は七星剣の献上だが、董卓以外では僅かな者しか知らなかったのである。その僅かな一人が、実は華雄だった。その華雄が偶々であったが、何気に七星剣の献上について李儒へと漏らしたのである。今日、孟徳殿が仲頴様へ七星剣を献上するのだと。その話を聞いて、李儒は眉を顰めることとなった。
何ゆえに眉をひそめたのかというと、七星剣を献上するのが曹操だということに他ならない。これがもし王允であれば、李儒も不審には思わなかっただろう。それほど有名というわけではないのだが、七星剣を王允が所持していることを李儒が知っていたからだ。そして同時に、曹操が七星剣を持っていないことも李儒はやはり把握していたのである。つまり今回の一件は、七星剣を持たない曹操が七星剣を献上すると言う多分に矛盾を孕む事態なのだ。ならば、なぜに曹操が所持すらしていない七星剣を献上できるのか。そのことを考えた時、李儒の脳裏をかすめたのは暗殺の二文字であった。もしかして今回の献上騒ぎ、それは王允と曹操の画策した董卓暗殺の策ではないか。そう考えれば、七星剣を曹操が献上できる理由もわかる。同時に、なぜ王允ではなく曹操が献上するのかについてもであった。
これは、李儒と王允が同じ文官だからと言っていい。仮に李儒が董卓を暗殺しようとして実行に移すならば、間違っても自身で行おうとは思わない。それは多分に、成功する確率が低いからだ。董卓は、武将としても武人としても頭一つ抜けた人物である。その董卓を暗殺するのに、一文官でしかない自分ではまず成功しないからだ。そして実行する際には、腕に覚えを持つ者に実行させるだろう。それは正に、今回の一件のように。
「……都尉殿。今すぐ用意できる兵はどれぐらいか?」
「えっと、文優殿。いきなり何を言われる」
「すぐに答えて貰いたいのだ。ことは、一刻争うかも知れぬ」
「そ、そうだな、数十ぐらいならすぐにでも」
「それで十分。すぐに兵を集めて貰いたい。今すぐに!」
「あ、ああ。分かった」
李儒の勢いに気圧されたかのように、華雄は頷きすぐに兵を集める。そして自身が述べた通り、僅かの時間で数十の兵を集めたのである。すると李儒は華雄と彼が集めた兵を伴って、今まさに七星剣を董卓へ献上しているであろう曹操の元へと現れたというわけであった。そしていざ董卓の元へ訪れてみれば、主である董卓は腰の剣を抜いて警戒している。その近くでは、曹操が身構えていた。しかし、ここでの行動が曹操を救うこととなるとはこの場にいる誰もが予測していなかったのである。それというのも曹操が、七星剣を抜いていなかったのだ。あくまで彼は、鞘に収まった状態で構えているに過ぎない。これは曹操が宮中で剣を抜くことに躊躇いを覚えた上でのことであった。しかして、これが幸いした。剣を抜いていないのであれば、曹操に罪を問うことは難しい。何せ曹操は、七星剣を献上すると言う建前で参内していたのである。その曹操が、たとえいかなる事態であっても宮中で剣を抜いていればいかようにもすることはできた。しかし事実として、曹操は剣を抜いていない。しかもそのことは、他でもない董卓が証明することとなる。これでは少なくとも、この場で曹操を糾弾することは難しいように思える。それは即ち、共謀したかも知れない王允も罪に問うことが難しいということであった。
「ふむ……何かあったかは知らぬが、丁度いい。そなたらも見ていけ」
「相国様。何をでございますか?」
「文優よ。それは、我が七星剣を得るところをだ。のう孟徳
「え? ……あ、はい。こちらにございます」
董卓から問われた曹操は、改めて鞘矢に収められたままの七星剣を掲げていた。しかし先ほどまでと違っているのは、この場に数十の兵に加えて華雄までいることである。これではどうあがいても、暗殺など成功する筈がない。この場で曹操にできることは、文字通り董卓へ七星剣を献上するより他なかった。そして今度こそ七星剣を手にした董卓は、その場で剣を抜いてみせたのである。するとその刀身には、見事なぐらいの北斗七星が描かれていた。
「流石は七星剣、見事なものよ」
『ははっ』
内心で忸怩たる思いを抱きながらも、曹操は董卓の言葉に同意するしかなかった。その後、董卓より褒美の言葉と金子を受け取った曹操は、無表情のまま宮中より辞したのであった。なおそれから数日後の話となるが、董卓は李儒に対して質問を投げ掛けている。その質問とは、今回の一件に対するものである。そこで李儒から出た言葉に、董卓は驚愕の表情を浮かべることとなったのであった。
「暗殺だと!? それは真か!」
「疑いはあります。我はほぼ確信していますが、現状ではあくまで疑いです」
「ふむ……あの曹騰の孫であるからこそ優遇したのだがな。警戒はしておいた方がいいかのう」
「分かりません。但し、無警戒よりは警戒をしておいた方がよろしいかと」
「そうか。その辺りはそなたに任せる」
「御意」
董卓から命じられた李儒もまた、動き始めたのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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ご一読いただき、ありがとうございました。




