第五十話~劉弁の意志~
第五十話~劉弁の意志~
永漢元年(百八十九年)
ここで少し、話を戻すことにする。時期としては、盧植一行が揚州へと入った頃のことであった。
嘗ては弘農郡と呼ばれていたが、現在は弘農国と称されている地においてある人物が怒りに肩を震わせていたのである。そのある人物というのは、先月皇帝より退位して弘農王となっていた劉弁であった。しかして劉弁が怒りに震えていた理由だが、董卓の思惑によって皇帝の地位を弟の劉協に譲らざるを得なかったからというわけではない。無論、その気持ちが全くないとは言わないが、それ以上に腹に据えかねていた事態があったからである。果たしてその事態とは、実母である何皇太后に対して董卓と李儒よって行われた仕打ちであった。
前述したように劉弁は、董卓から全権を預けられた李儒は劉弁を皇帝から退位させている。しかして劉弁に退位を決断させる決め手となったのは、何皇太后の董皇太后に対する振る舞いがあるのもこれまた前に述べた通りであった。いかに母親のしでかしたことがあったとはいえ退位させられたことは、彼としても甚だ業腹ではある。それでも劉弁は、自身が皇帝の地位から身を引いたことで母親を守れたとして安堵していたのだ。しかし、そうは問屋が卸さなかったのである。何皇太后の存在価値を、当時皇帝であった劉弁をその座から退位させる為の道具程度にしか見出していなかった李儒は、自身の主である董卓に対して何皇太后の行為を全て告げたのである。用済みとなった何皇太后を、排除する為に。
この様に李儒から話を聞かされた董卓も曲がりなりにも董の姓を冠しているので、董一族だと言えないこともない。それだけに何皇太后の行った董皇太后に対する振る舞いは、董氏全体に対する侮蔑である捉えたのだ。しかも劉弁を退位させたことで李儒同様に彼女自体がもはや用済みとなったことも重なって、董卓は何皇太后に対して目上の者に対する道に反する行いだとして彼女を詰問したのである。実際に行っていたということもあってか言い逃れができない何皇太后に対して董卓は、問答無用で彼女を幽閉したのである。しかも幽閉後に何皇太后へは一切弁明の余地を与えず、彼女を捕らえてより僅か半月後には李儒に命じて毒殺させたのであった。
「董卓! それに、李儒!! 我は絶対に、そなたらを許さぬぞ!」
母やの身の上に起きた事態の詳細を聞き及んだ劉弁は、怒りのあまり握りしめた拳から血を滴り落としていたという。それぐらい劉弁は董卓に、何より何皇太后が死亡するように誘導したばかりか実際に毒殺した李儒に対して怒りを表していたというわけであった。その様相は彼の心情を表すかのようであり、凄まじいの一言に尽きるであろう。だが、皇帝であった頃ならばまだしも、いまや退位させられ弘農王として祭り上げられた状態である。当然ながら権力などからは切り離されており、王という名誉以外は何もない状況であった。こういった場合、当事者は酒に逃げることがままある。しかし劉弁の怒りがあまりにも凄まじく、酒ぐらいではとても怒りが抑えられない状況であった。
「穎伯!」
「はっ」
「あの腐れ外道どもを誅殺することはできぬのか!」
「……難しくございます。亡き遂高殿と叔達殿の持っていた軍勢を取り込み、自身も大尉となり虎賁兵を手にしておりますゆえ」
側近でもある种払からの言葉に、劉弁は唇を噛み締めていた。その為、彼の唇からは血が一筋流れ落ちている。確かに劉弁も、种払の言わんとしていることは既に認識している。それでも、口に出さずにはいられなかったのだ。しかし現実問題として、今の劉弁にできることはない。そのことが余計に、劉弁の怒りを呷っていたのだ。
「弘農王様、穎伯様。手がない、こともないかも知れませぬ」
「何!? 文若、それはどういうことだ!」
「失礼を承知で申し上げます。確かに、弘農王様には力がありません。しかしながら、力がある人物を動かすことはできるのではないでしょうか」
荀彧の歯に衣を着せぬ物言いに怒りを覚えた劉弁ではあったが、彼の言葉の後半に出てきた力ある人物を動かせるという物言いに怒りを表すことを止めている。そればかりか自身を落ち着かせるかのように一拍入れたあとで、彼は荀彧へ続きを促すように言葉を続けたのであった。
「……文若。力ある人物、だと? 誰だ、それは」
「度遼将軍、並びに大司馬にございます」
荀彧の言う大司馬とは、三公の一つである大尉と同じ役職であると言っていいだろう。そもそも大尉は、秦の時代から続く役職である。しかし武帝の時代になると、大尉は廃止されている。だが漢を再興した光武帝によって、大司馬は大尉に改称されていたのだ。ならば改称されてしまったその大司馬を、どうして今になって董卓が復活させたばかりか劉虞をその役職へ任命したのか。それは董卓自身が、大尉に就任する為であった。
何と言っても劉虞には、落ち度がない。しかも彼自身、光武帝の長男となる劉彊の末裔である。また中央、地方問わずに尊敬を集めており、幾ら朝廷を掌握した董卓と言えどもそう簡単に罷免させられる人物ではなかったのだ。しかしながら董卓としては、漢の軍事中枢は掌握しておきたい。どうしたものかと悩んでいたのだが、その董卓へ解決策を進言したのが李儒であった。しかして李儒が提案した解決策というのが、大司馬の復活である。しかも李儒は、幽州牧のままで大司馬へ任じるべきであると進言したのだ。
幽州は、漢と対立する遊牧民族である鮮卑と隣接している。今は内訌が起きている関係で、漢への侵攻などは行われていない。だが、逆に言えば内訌さえ終わってしまえば侵攻が再開されてもおかしくはないのだ。そのようなきな臭い幽州へ大司馬である劉虞を配したとしても、何ら不思議ではない。寧ろ、推奨されるかも知れないのだ。しかも幽州牧であれば、余計に現地から離れることが難しくなる。こうして幽州へ劉虞を釘付けにしておき、その隙に大尉となった董卓が中央の軍事を完全に掌握するというものであった。
李儒から進言を受けた董卓は、はたと膝を叩くとすぐに実行へと移る。こうして董卓は、無事に劉虞から大尉という役職から引き剥がした上で、自分が後釜に収まったのであった。
話がそれたので、話を戻す。
荀彧から劉逞と劉虞の話を聞いた劉弁は、話を聞いた当初より感じていた怒りを幾分か抑えたかのような雰囲気となっている。その分だけ冷静になった頭で考えたあと、劉弁は荀彧の言葉に同意していたのであった。
「……常剛に伯安か。確かにな」
劉虞にはあまり面識がない劉弁であるが、それでも漢というか皇帝に対して忠義ある人物であることを亡き父から聞いてはいたのでそれなりには人となりを知っている。そして劉逞に至っては、何度か顔を合わせているので劉虞よりは比較的詳しいと言えるだろう。それだけに、この二人であれば信じるに値すると確かに思えたのであった。
もっとも、劉虞に関していえば易々と動くことは難しい。彼には、前述したように鮮卑を抑えるという役目があるからだ。現状、鮮卑は内訌中なので簡単に漢へと手を伸ばせる状況にはない。しかし、内訌が終わってしまえばその限りではなくなってしまう。それゆえに劉虞が動くことは、難しいのであった。
「弘農王様、どうなされますか?」
「……穎伯! 文若! 董卓を討て!!」
『御意!』
劉弁は自身の命すらも道具とする決断をし、董卓を討つべく動き始めたのであった。
先にも述べたように、今の劉弁には弘農王という見かけだけの権威はあっても権力などといった実際の力はほぼないに等しい。そのような彼らが打てる手はそう多くはないのだ。それが例え、荀彧という稀代の策略家がいたとしてでもある。このような打てる手が少ない中にあってそれでも荀彧と种払は、二つの策を進言したのである。その一つは、先にも述べた劉逞や劉虞など信用が置けると判断できる者たちを中央へ引き込むことで軍事力を使い、物理的に董卓を排除するという策となる。そしてもう一つの策というのが、暗殺であった。
董卓は名家の者を味方に引き入れることで、中央における権力の掌握を目指している。その為、実際に大規模な人事異動も行っていた。前述した荀爽が、僅かな期間に光禄勲へと就任したのもその一環である。勿論、人事は荀爽だけに留まるわけではない。丁宮が罷免された為に空位となっていた司徒に豫州牧であった黄琬を就任させたり、自身が大尉となったことで空位となった司空には楊彪を就任させたりと良く言えば大胆な、はっきり言えばとても自分勝手に役職を与えていたのだ。
このようなことをすれば、当然ながら反感を買う。それは地方より中央の方が、より顕著であった。だからといって今の董卓は、完全にとは言えないが皇帝の地位すらある程度自由にできるだけの権力を持っている。とてもではないが、表立って声を上げるなどできるわけがなかった。そのような彼らとしては、宴と称して集まって愚痴を言うぐらいしかない。無論、彼らの中にはどうにかしようと考えている者がいないでもない。しかしながらその一部の者たちも、実行へ移すには二の足を踏んでいた。この理由には董卓の権力もさることながら、現皇帝である劉協を半ば自家薬籠中の物としていることが大きい。自身の持つ権力に加えて皇帝としての権威、さらには中央の軍事力と、もはや一介の人物の手に負えるような相手ではなくなってきていたのだ。
せめて大義名分でもあれば別なのだろうが、その大義名分も劉協を握られてしまっていることで得ることが難しい。これでは、正に八方塞がりだと言ってよかった。しかし、この状況が動くこととなる。それは劉弁の密使として、种払がある人物の元を訪れたことが切っ掛けであった。
「穎伯殿。弘農王様はお元気であらせられましょうか」
「子師殿。本気でそう思われるのか?」
种払が訪問した人物、それは王允であった。彼は若い頃、王佐の才があるとまで称された英才である。先の黄巾の乱でも活躍しており、彼は一軍を率いて主力ではなかったとはいえ、豫州に跋扈した黄巾賊の一部を打ち負かしてもいた。その功績もあって、王允は豫州刺史にも任命されている。しかして彼は、黄巾の乱が形の上でも収束すると、今度は張譲を張角と繋がっていた裏切り者として処罰するように亡き霊帝に直訴するぐらいに硬骨漢でもあった。だが王允より直訴を受けた当の霊帝が張譲を許してしまったことで、彼への処分が有耶無耶となり、その後に張譲から逆恨みされて王允は投獄されてしまう。張譲はそのまま死刑に処するつもりであったが、助命の嘆願が多数寄せられたことで流石に死刑を実行できなかった。代わりに王允は閑職へと追いやられ、不遇の時を過ごしていたのである。
しかしながらその王允に対して転機が訪れたのが、霊帝の死であり劉弁の皇帝即位であった。霊帝が亡くなると、何進が張譲ら宦官に対する牽制として閑職へと追いやられていた王允を引き上げて河南尹に任じたのである。その後、劉弁が正式に皇帝に即位すると、今度は皇帝の命で尚書令へ任じられたのだ。つまり王允は、亡き何進と劉弁に対して並々ならぬ恩義を感じている。そこで种払は、彼の元へ現れたという訳であった。
「……いや、済まぬ。聞き流してくれ」
「ふむ。さて子師殿、今宵我が訪れた理由だが……」
そう前置きしてから种払は、懐より劉弁の認めた密書を取り出す。まさかの書状に王允は、奉るかのように頭上へと掲げた。それから暫くしたあと、書状を隅々まで目を通す。しかして最後まで読んだ王允の表情は、驚きに彩られていたのであった。しかしながら、それも当然であろう。そこには弘農王たる劉弁より、董卓を討てという上意が記されていたからである。厳密に言えば、上意ではないかも知れない。しかし董卓に対する不満がそれこそはいて捨てるぐらいにある王允からすれば、正しく上意と言って差し支えがない書状であった。
「は、穎伯殿! こ、これは!!」
「弘農王様ご自身の意志である」
「は、ははっ! この王子師、しかと承りました!!」
書状を机の上に置き、片膝を着きながら王允が書状に向けて了承する。その様子を种払は、いっそ厳かと言っていいぐらいの表情を浮かべながら見つめていた。その一方でもう一つの策となる劉逞などが持つ軍事力を洛陽へ引き入れるという策だが、こちらも同時に動き始めていた。この策を実行する為の使者となったのが、荀彧である。当初この密使だが、种払が行く筈であった。しかし荀彧と王允に面識がなく、逆に种払と王允には面識がある。その為、种払と荀彧の役目を交換したのだ。
こうした理由もあって荀彧は劉逞に対する使者となり、代わりに种払が暗殺の手筈を整える役目を担うこととなったのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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