第四十七話~盧植の旅 一~
第四十七話~盧植の旅 一~
永漢元年(百八十九年)
董卓の命で光禄勲となっていた荀爽の元に、荀攸からの書状が届いていた。訝しげに眉を寄せつつ中身を見た荀爽であったが、そこに書かれていたことに関しては唸りを上げるしかない。どのような手段を用いたのかは分からないが、皇帝の交代劇という有り得ないことを演出したのである。これから先、皇帝となった劉協は別としても、先代皇帝となってしまった劉弁にどのような手が及ぶか分からないという荀攸の言には否定の言葉を出せなかった。
「厄介なことだな……はてさて、どうしたものか」
そもそも彼は、前述したように董卓から距離を置こうと考えていたのである。そして実際、郷里に戻ろうとしていた。しかしながらその動きを董卓側に覚られてしまい、先手を打たれた形である。まず荀爽には、郡丞の役職が与えられる。その命を不承不承ながらも受けた荀爽は、任地へ向かった。しかしながらその途中で、今度は光禄勲に任じられたのである。職務どころか当該地へ辿り着く前に荀爽は、洛陽へととんぼ返りする羽目となっていたのだ。
荀爽の身に起きたことは兎も角として、今は荀攸から届いた書状に関してとなる。しかも記されている内容が内容だけに、生中な者を当てることなどできないのである。となれば、ここはやはり荀家の者を当てる必要があった。自分が行うことができれば最高なのだが、董卓の目がありそれは難しい。しばらく悩んだあと、荀爽が選んだのは二人であった。
一人は、自身の息子となる荀棐である。そしてもう一人はというと、一族の荀彧であった。荀爽から見て兄の子となる荀彧だが、劉協が皇帝となって間もなく孝廉に推挙されて朝廷に仕えたばかりであった。彼は嘗て南陽郡の太守を勤めていた陰修によって荀攸や鍾会、郭図などと共に引き立てられた人物である。それゆえに将来を嘱望されているのだが、流石に中央へ仕えてからまだ一年目の人物であり、そこまで気に掛けられてはいない。しかしながら、その才が本物であることは間違いなかったのだ。
「息子の荀棐には陛下近くに、そして荀彧には弘農王様の近くに有って貰うとしよう」
荀棐は父親同様、既に仕えている人物なので、皇帝である劉協の近くにいたとしても何ら問題とはならない。しかし朝廷へと出仕してから僅か一年目の荀彧では、逆に警戒されてしまう可能性がある。それでなくても、荀彧は荀家の者である。既に実績を重ねている息子ならばまだしも、まだ碌に実績すらない荀彧を中央で抜擢しようものなら董卓……いや李儒が探りを入れてくる可能性があった。それに新皇帝ではなく元皇帝の劉弁の元へと荀爽が送り込んだのは、荀彧を巻き込んでしまったことに対するせめてもの詫び、そう言っていいかも知れない。兎にも角にも荀爽は、息子の荀棐と甥の荀彧に対して新たな命が出るようにと仕向けたのである。なによりこれはあくまで人事上の問題でしかないので、命自体には不可思議なところもない。それゆえ、荀爽の狙い通りの命が二人に通達されたのであった。
さてその頃、ある人物が并州から徐州へと歩みを進めていた。無論、一人ではない。このご時世に、一人旅ができる筈もないからだ。彼は、数名の供と護衛を連れて行動していたのである。果たしてその人物というのは、盧植であった。前述したように荀爽を悩ませる動きをした劉逞たちであったが、その話し合いが終わってから数日したあとで盧植が劉逞に対してあることを進言していたのである。その進言というのは、人物の推挙であった。
「常剛様、我より一人……いや二人ほど推挙した人物がおります」
「それは、誰だ?」
「一人は、青州の鄭康成殿。そしてもう一人は、揚州の蔡伯喈殿にございます」
鄭康成とは、太史慈の師匠でもある鄭玄のこととなる。そして蔡伯喈とは、嘗て朝廷にて役職を勤めていた蔡邕のことであった。鄭玄に関しては、盧植の同期であるということと彼に太史慈が師事していたということもあって、劉逞にも馴染みがない人物ではない。ましてやまだ十代の頃だが彼には実際に会ったこともあり、人となりに関しては取り分けて言うことなどなかった。
一方で蔡邕であるが、彼に関しては盧植がまだ劉逞の師となる以前、つまり盧植が馬融の弟子として洛陽にいた頃からの知り合いである。しかも蔡邕だが、嘗て石経を作成するに当たり霊帝へ奏上した人物の一人であった。石経の作成は、蔡邕や当時五官中郎将の一人であった堂谿典、他にも楊賜や馬日磾。さらには議郎の張馴や韓説だけでなく、太史令の単颺らなどといった錚々(そうそう)たる人物たちが中心となって始められた事業である。しかしながら石経の編纂が始まってから三年もした頃、漢に仕える政治家でもある蔡邕は、当時の皇帝であった霊帝に対して宦官の専横を嘆いて厳しく直諫したことがあった。霊帝自体は不問に付したその直諫だが、何の因果かその一件を宦官の一人、曹節が知ってしまったのである。このことに怒りを覚えた曹節の暗躍によって、蔡邕は獄へと繋がれてしまったのだ。そして死を賜わるところまで追い詰められてしまったのだが、皮肉なことに彼の命を救ったのは曹節と同じく宦官の一人であった呂強である。彼は蔡邕が無実であるとして、霊帝に取り成を行う。霊帝としても蔡邕を助けたいという思いもあったので、罪を一等減じている。とはいえ、曹節に対する配慮から、蔡邕は并州の朔方郡へ家族諸共追放されたのであった。
因みに呂強だが、宦官の中ではまともな人物である。黄巾の乱が起きた際に霊帝から対処について皇甫嵩らと並んで問われた呂強は、霊帝の側近で汚職に手を染めている人物に対して罰を与え処刑した上で、さらに党錮の禁によって捕らえられている者たちへ大赦を与えるべきだと進言している。しかも、能力に合わせて刺史や太守に登用するべきとまで意見していたのだ。
その言葉に霊帝も納得し、まず党錮の禁によって捕らえられていた者たちを大赦によって解放する決断をしている。しかしこのことが、同じ宦官である張譲や夏惲の機嫌を損ねることとなる。既に曹節は身罷っていたので彼の出番はなかったが、もし生きていれば彼が音頭を取っていたことは想像に難くなかった。
それはそれとして、今は張譲や夏惲らの動きである。彼らからすれば、党錮の禁によって捕らえられた者など邪魔な存在でしかないのだ。その者たちを開放するなど、看過できなかったのである。だからこそ張譲たちは、呂強が進めた党人の解放は朝廷を乱す為の策略であると霊帝に対して奏上したのだ。権力を握っている張譲たちの手前、一顧だにしないなどという態度をとることができなかった霊帝は、建前上とはいえ黄門の兵を出して召し出そうとする。あくまで形だけのつもりだったのだが、呂強はこのことに憂いを覚えると、抗議の意味を込めて自殺したという人物であった。
話がそれたので、蔡邕の件に話を戻す。
かろうじて罪を減じられ朔方郡へと流された蔡邕とその家族であるが、幸いなことにその翌年には大赦を与えられ罪を許されている。しかし蔡邕は、彼が持つ一本気な気骨の為か、今度は別の宦官の一族と揉め事を起こしてしまう。すると蔡邕は、家族と共に朔方郡から密かに離れたのである。彼らが向かったのは、揚州であった。揚州は、洛陽から距離があり、その分だけ中央からの目が届きにくい。朝廷に仕えていた蔡邕は、当然ながらそのことは認識していた。それゆえに、蔡邕は密かに朔方郡から揚州へと移動したのである。彼は揚州へ移動後、初めのうちは呉郡にいた。しかしながら、のちのちより南部の会稽郡へと移動している。こうして蔡邕は洛陽から離れてよりおよそ十二年に渡って、逃亡者に近い生活を余儀なくされていたのであった。
しかしながら、蔡邕が中央より追放されるきっかけとなった曹節は前述したようにもはや死んでいる。また、朔方郡で揉め事を起こした者に繋がる宦官も先の洛陽で起きた政変によって死亡した。その上、彼を疎んでいる可能性もある他の宦官も著しく力と数を減らしている。もはや宦官たちを考慮する必要などなく、蔡邕を招聘したとしても何ら言われることもないのだ。
「ふむ。康成殿については我も知っている。それから伯喈殿に面識はないが、話ぐらいなら聞いたことがある……いいだろう。では、早速にでも書状を認めよう」
「そのことですが、常剛様。我が自ら、使者として向かいます」
「子幹! ほ、本気か!?」
「はい。康成殿は、同じ師から学んだ同門であります。また、蔡邕殿は大学者でもあり、礼を以て当たるべき人物です」
「……分かった。子幹、そなたに任せる」
「はっ」
劉逞も、盧植の弟子である。彼に関しては十分認知しており、今の盧植が放つ雰囲気から翻意させることは難しいと判断していた。それゆえに劉逞は、不承不承ではあるものの盧植の申し出を受け入れたのである。だからといって、盧植の身を案じていないわけではない。そこで劉逞は、護衛として趙伯と呂布、太史慈と崔琰と田疇を付けたのである。流石に盧植もこれは断らず、彼らと共に鄭玄と蔡邕を訪ねるべく晋陽より出立したのであった。
晋陽を出た盧植たちの一行は南下し、まず司隷に入る。そこから豫州を抜けて徐州へと至っていた。彼らが冀州を抜けて行かなかったのには、理由がある。それは、青州で起きた黄巾賊残党の反乱が原因である。主に青州で起きた反乱だが、その余波は南の徐州にまで広がっていたばかりか、兗州の東にある泰山郡にまで広がっていたのだ。この反乱に当たり朝廷は、陶謙に鎮圧を命じている。命を受けた陶謙は、まず徐州に入る。そこで活動していた黄巾賊残党と対峙し、どうにか徐州から黄巾賊残党の脅威を追い払っていたのであった。この追い払われた黄巾賊残党が向かったのが、兗州泰山郡だったのである。一部は冀州渤海郡南部に移動していたが、その数はそれ程でもない。大半の黄巾賊残党は、兗州泰山郡と反乱を始めた青州へ移動したからであった。その様な事情もあって盧植一行は、冀州を抜けて徐州へ向かうという道筋を使えなかったのである。なお、馬融が亡くなったあとに鄭玄が移動したのは青州である。それであるにも関わらず盧植が徐州へ向かっている理由、それは鄭玄が黄巾賊残党の脅威から逃れる為に徐州へと避難していたからであった。
「盧師父。この先の峠に、賊がいるようです」
「ふむ。季珪、避けることは可能であるか?」
「奉先殿の話では、恐らく無理であるとのことにございます」
「……なれば致し方ない。討たねばならぬであろう」
「はっ」
弟子でもある崔琰より賊がいるとの報告を受けた盧植だが、当初は避けようと考えた。しかし地の利もなく、案内人もいない。これでは、避けることは難しい。そうなると、あとは力押しぐらいしかない。そう決断した盧植は、賊は討つべきだとしたのだ。趙燕が一行に同行させた護衛も兼ねる密偵からの物見の報告によれば、賊の数はそれほど多くはないらしい。少なくとも、この一行であれば苦も無く倒せるだろうとのことであった。
それは、そうだろう。先にも述べているが、劉逞旗下の中で最強と言われている呂布を筆頭に劉逞の武における師である趙伯。さらには、太史慈と崔琰と田疇がいる。そして彼らが率いている護衛の兵というのも、劉逞旗下の中では精鋭である。彼らに掛かっては、対立する羽目となった賊の方がいっそ哀れであった。
事実、その通りとなる。馬を駆る呂布を先頭に、弓を得意とする太史慈が援護する。そこに生まれた隙を突く形で崔琰と田疇が兵の三分の二を率いて吶喊したのだ。しかも彼らを指揮するのは、万の兵すら操ることができる盧植である。初めから、賊に勝ち目などなかったのだ。
損害を殆ど被ることもなく、それこそ赤子の手を捻るかのごとく盧植一行は賊を撃破してみせたのである。先を急ぐのでこのままにしたいところではあったが、流石にそう言うわけにもいかない。盧植は峠を降った先にある町の役人へ報告させて賊の一件を預けると、旅路を再開したのだった。
因みに呂布の駆る馬だが、元は劉逞の愛馬である汗血馬の雷閃となる。呂布が正式に劉逞の家臣になった匈奴の反乱を鎮圧した際に、敵将を討った褒美として劉逞が与えたものである。汗血馬を与えられたことに呂布は痛く感動したのは、言うまでもないことであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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