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第四十話~洛陽 二~


第四十話~洛陽 二~



 中平五年(百八十八年)



 匈奴鎮定に対する褒美が、劉逞へと与えられた。それは何かというと、州牧への就任である。かくて劉逞へ命じられた州牧は、并州牧であった。これにより、扱いが保留となっていた西河郡太守の地位も解任されることとなる。また、度遼将軍の地位だが、劉逞が并州より動くことがなかったのでそのまま留任となったのであった。

 また、使匈奴中郎将となっていた劉備であるが、引き続いてその地位に留まることになる。同時に彼は、劉逞が州牧となったことで空いた西河郡の太守へ就任することとなったのであった。


「劉常剛。そなたを、并州牧とする」

「はっ」


 匈奴鎮定の報告、並びに褒美を朝廷より賜った劉逞たちにもう洛陽に留まる理由はない。しかしてその前に、知り合いの家に顔を出すことを考えていた。だが劉逞には、宦官の邪魔もあって朝廷に出仕したという経緯も経験もない。つまり、洛陽にいる知り合いなどそれほどいるわけでもないのだ。

 そのような劉逞だが、全くの皆無というわけでもない。その彼にとって洛陽にいる一番の知り合いと言うと、それは曹操となる。しかも於夫羅との関係もあって、曹操の父親となる曹嵩とも知り合いであると言えた。それゆえに劉逞は、洛陽から離れる前に曹家へ訪問を予定していたのである。しかしながらその前に、何と曹操の方から申し出がある。そもそも自分の方から行くつもりだったこともあり、その申し出を受けることにした。

 それから数日後、曹操はいとこであり同時に家臣でもある夏侯惇。そして、遠縁の親戚となる夏侯淵を伴って劉逞の屋敷へと現れた。当然だが彼らは、曹操の護衛も兼ねている。しかしその理由以上に曹操が夏侯惇と夏侯淵を連れていたのは、劉逞の幼馴染に夏侯蘭がいるからであった。夏侯蘭は、姓が示す通り夏侯氏の一族である。分流の出とされているが、正確なところは分からない。しかし、間違いなく夏侯氏の一族なのだ。

 それに曹操自身、ある意味では夏侯氏だと言えなくもない。それは、父親の曹嵩の出身が関係している。曹騰の養子となったので曹嵩は曹の姓を名乗っているが、元は夏侯氏の出であったのだ。


「常剛様、洛陽を離れると聞き御挨拶に伺いました。それと、州牧への就任、おめでとうございます」

「孟徳殿、ありがとう。重責だが、尽力するつもりだ……ところでこちらのお二方だが、もし我の記憶違いでなければ孟徳殿の同僚である袁殿と淳于殿ではないかと思うのだが」

「流石ですな、常剛様。ご指摘の通り、袁本初殿と淳于仲簡殿です」


 劉逞が情報を気に掛けていることは、先の黄巾の乱で知っていた。しかし、袁紹と淳于瓊の顔まで見知っていたとは思いもよらなかった。しかしながら、だからといってあからさまな警戒感は出していない。それは幾度かの会合で分かったことだが、何となくだが気楽に会えるのだ。無論、相手は皇族であるので羽目を外したりするようなことはしない。その辺りのそつのなさは、流石と言える男であった。


「お初にお目に掛かります、常剛様。西園軍中軍校尉、袁本初と申します」

「同じく。西園軍左軍校尉、淳于仲簡と申します」


 何ゆえにこの二人が曹操と共に尋ねたのかというと、袁紹と淳于瓊の二人が劉逞に対して興味を持っていたからである。袁紹は名門袁家の出ということもあってか、世間に名が知れるようになって僅か四年で自身もまだ経験したことがない将軍にまでなった劉逞を気にしていたのだ。しかも劉逞は、盧植の弟子でありながら彼を軍師とまでしている。実は盧植に関してだが、袁紹自身が行ったわけではないが袁家で招聘したことがあるのだ。しかしながら盧植は、その招聘を辞退していた。そのような経緯を聞いたことがあり、袁紹はなおさら盧植の弟子でありながら彼を家臣とした劉逞を気にしたというわけである。しかしながら今までは、殆ど劉逞と顔を合わせる機会がなかった。それゆえ、劉逞と繋がりを持つ機会も得られなかったのである。しかし曹操が劉逞と知り合いであると判明したので、訪問することを知った袁紹が同行を頼んだのであった。

 そして淳于瓊はというと、こちらは袁紹に比べると単純である。武人として、そして武将として、劉逞の功を気に掛けていたのだ。要は袁紹と似ており、劉逞が僅か五年にも満たない間に重ねた戦功について、とても興味を示したのである。しかもよくよく話を聞いたところ、劉逞の功績は武だけではないというのだ。まだ三十にも満たない、ある意味で若造と言っていい人物が、戦でもまつりごとでも功を挙げているという事実になおさら興味が駆られたというわけである。そして袁紹と同じく、彼も同僚の曹操へ仲介を頼んだという次第であった。

 これには劉逞も、内心で驚くことになる。何せ西園軍の将を務める八人のうち三人が、それも同時に訪問してきたからだ。曹操は前からの知り合いであるから別にするとしても、袁紹の淳于瓊に関しては驚き以外ない。だが、これは彼らの人となりを知る機会でもある。趙燕からの情報で袁紹と淳于瓊を知らないわけではないが、あくまで報告での知識でしかないからだ。それぐらいで対象の人物の人となり全てが分かるなどと言うような傲慢なことを述べるつもりは劉逞にない。しかし、当人に全く会ったことがないよりは実際に会ったことがある方がいい。その意味では、劉逞にとっても曹操と共に現れた袁紹と淳于瓊との出会いは、悪いものではなかった。



 実は今この場にいる四人の中で劉逞が一番年下となるが、それでも四人の間は親子ほどに年が離れていない。ましてや、曹操という劉逞と袁紹と淳于瓊を繋ぐ存在もいる。それでも当初はややぎこちないところも見受けられたが、やがて話が進むうちに普通に話せるようになる。そのような時、劉逞は偶々だが視界に曹操を収める。正にその時、劉逞はふとあることを思い出していた。


「そうだ、孟徳殿」

「何か?」

「巨高殿が大尉を辞すると聞いた。匈奴のことで礼を兼ねた挨拶をしたいのだが、よろしいか?」

「常剛様……分かりました、父には伝えておきましょう」


 実は、曹操の父親の曹嵩だが年が変わるのを契機として大尉の職を辞することとなっていた。本来であれば、今年の四月にでも職を辞するつもりだったのである。しかし劉逞が仲介を頼んだことで匈奴の反乱に関わってしまった件が原因となって、大尉を辞めることができなくなったのである。少なくとも、匈奴の騒動が落ち着きを見せるまではと留意されたのだ。

 つまるところ曹嵩は、匈奴の反乱騒ぎを押し付けられたのである。何せ宦官はむろんのこと、何進たち外戚も北狄と認識している匈奴のことなどに係りあいたくなかったのだ。そこで、朝議で言い出した者となる曹嵩が責任者とされてしまったというわけである。そのような思惑も絡んでいたこともあって、実にすんなりと曹嵩の大尉留任が決まっていたのであった。

 なお曹嵩だが、彼は内心で「このように早く決まるならば、他の案件に付いても早く決めて貰いたい」と思ったとか思わなかったとか言われているがそれも定かではなかった。ともあれ、こうして決まってしまった以上は仕方ないとして気持ちを切り替えて、曹嵩は度遼将軍たる劉逞の後援を行う。大尉である曹嵩の支援という実質的な後押しもあって、劉逞の匈奴鎮定は数ヵ月という短時間で終わりを見せたという一面は確かにあったのだ。

 実は、劉逞が曹家の屋敷を訪問しようと考えたのは、何も洛陽から出立する前の挨拶という理由だけではない。匈奴鎮定を滞りなく進められたことに対する礼、これは於夫羅も関わることだが、ともあれそのような意味合いもあって、劉逞は曹家への訪問を計画していたというわけであった。


「それで後任だが、聞いておられるか?」

「父上の話では、樊陵殿だとは聞いているがな……」

「そ、それは本当か!」


 実は曹嵩の後任については、候補が何人か上がっていたのだ。候補として挙がっていたのは、馬融の同族で射声校尉の職にある馬日磾や幽州牧の劉虞などである。そのような候補の中の一人、それが樊陵であった。この人物だが、あまり褒められた人物でもない。何より宦官にこびへつらうことで、樊陵は出世を重ねていたのだ。それだけに劉逞たちは、彼が大尉へ就任する可能性は極めて低いだろうと考えていたのである。しかしながらその予想は、ただ今を持って覆されたのだ。

 なお、劉逞の軍師の中で程昱だけは就任する可能性は低いが有り得ないわけではないと予想していたのであった。


「孟徳殿、真であるか!?」

「あの! 阿諛追従あゆついしょうの輩が大尉だとっ!」


 曹操から後任人事の話を聞いて、淳于瓊は劉逞と同様に驚きをあらわにする。そして袁紹はというと、大尉の人事には宦官が関わっていることに気付いて怒りを隠すようなことはしなかったのであった。前述したように樊陵は、宦官にこびへつらい出世を重ねたという経緯を持っている。そのような人物が、三公の一角である大尉に就任したのだから彼らの反応も分からなくはなかった。特に袁紹は、四世三公を輩出した袁家の一族である。それだけに、三公に対する思い入れも深かったのだ。


「だが……」

『だが?』

「長くはないだろうとも父上は言っておられたな」

『なるほど』


 人が悪い笑みを浮かべながら続けた曹操の言葉に、劉逞と袁紹と淳于瓊は納得したような言葉を揃って漏らしていた。その後、樊陵について話題にしても気分が悪くなるので、樊陵の話を打ち切ると別の話で盛り上がる。それは思いのほか長くなり、何と夕刻近くまで続いていたのであった。

 因みに曹嵩の予測だが、のちに現実となっている。年明けと共に大尉に就任した樊陵だったが、彼は翌月の朔日となると大尉の役職から解任されてしまう。そして樊陵の後任には、すぐに馬日磾が就任したのであった。





 曹操たちが訪問してから数日後、劉逞は盧植の紹介で幾人かを訪問を受けていた。その相手というのは、楊彪や馬日磾、張馴や韓説や単颺などである。彼らの名を聞いて、どこかで聞いたような面子だと思った劉逞であったが、やがて石経の作成に関わった人物たちであったことを思い出していた。そのような彼らが訪問してきた目的だが、結果として自身たちが呼び寄せた盧植を朝廷における権力争いに巻き込んでしまったことに対する詫びであった。


「気にせずともよい。悪いのは、宋典どもだ。のう、子幹」

「はっ」


 劉逞にしても盧植にしても、確かにあの一軒は業腹ごうばらである。しかし、彼らが悪いというわけでもない。確かに間接的な原因を作ったと言えなくもないが、そのことに乗じて劉逞の力を削ごうとしたのは宦官なのだ。それゆえ劉逞も盧植も、彼らに対してそれほど思うところはなかったのである。ただその分だけ、宋典など宦官に対する嫌悪感などは増していたのであった。


「確かにそれはそうかも知れませぬが、それでも切っ掛けとなったのも事実です。何かあれば、我らがご助力いたします」

「そうか。分かった、何かあれば力を借りるとしよう」

『はっ』


 内心で安堵しつつ屋敷を辞去していく彼らを見ながら、当てにするのは難しいかも知れぬとも劉逞は考えていた。それは、盧植が実際に巻き込まれた時に抗議以上のことを彼らが行わなかったからである。だがそれでも、朝廷に個人的な伝手ができたのもまた事実。今まで大した伝手を持っていなかった劉逞としては、大いなる収穫だと思える事柄であった。

 そしてその日の夕刻、曹家より連絡が来たので劉逞は盧植と於夫羅を伴い指定された日に曹家の屋敷を訪問している。曹操の出迎えを受けた劉逞たちは、そのあとで曹嵩と面会して匈奴鎮定や於夫羅に対する助力への礼を告げたのである。これで洛陽における全てのことを片付けたとして劉逞は、洛陽から并州西河郡へ向けて出立したのであった。

連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」

併せてよろしくお願いします。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 中央における人脈を増やせたのは大きな収穫ですね。今後曹操や袁紹らとどのように関わっていくのか楽しみです。 更新お疲れ様です。
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