第四話~別動隊~
第四話~別動隊~
光和七年(百八十四年)
廮陶は、今まさに戦場の真っただ中にあった。
その理由は、広宗を手中に収めた張角の命によって軍勢が派遣されていたからである。しかもその軍勢の大将を務めているのが弟の張梁という辺りに、張角の本気度が見て取れていた。
とはいえ、鉅鹿郡太守である郭典も何もしなかったわけではない。彼は、廮陶の県令を務めている董昭とともに籠城して抵抗の意志と姿勢を見せていたのだ。その籠城している彼らが当てにしているのは、派遣される筈の皇甫嵩率いる軍勢である。鉅鹿郡を押さえる上で、治府がある廮陶が重要なのは間違いない。だからこそ、張梁率いる黄巾賊が攻めてきているのだ。しかも廮陶が重要なのは、黄巾賊であっても漢の軍勢であっても同じである。だからこそ郭典と董昭は、籠城して抵抗するという判断をしたのだ。
しかしながら、援軍がいつ到着するか分からないのも事実。しかも張梁が率いている軍勢だが、兵数だけはある。それだけに兵数が少ない籠城側としては、とても厳しいものがあった。
これでは、援軍が到着するまでは持たないかも知れない。そんな考えが、郭典の頭の中で鎌首を持ち上げていたとしてもそれは仕方がないと言えた。
そのように弱気な心に支配され掛けた頃、廮陶へ籠る郭典と董昭の元へ隣の常山国にて黄巾賊が散々に打ち負かされたという情報が流れてきたのである。この情報を聞いた郭典と董昭は、とても喜び勇んだ。何せ中央より派遣される軍勢よりもさらに近くに、黄巾賊を相手にして勝てる実力を持つ軍勢がいるからである。彼らに救援を頼めば、皇甫嵩の軍勢を待つ必要もないかも知れないのだ。
しかも常山国の軍勢を率いているのは、顔見知りの劉逞だという。これで彼らに、助けを求めない理由はない。郭典は急いで使者を派遣しようとしたが、董昭が進言したことで彼が使者となったのだった。
「そなたが行くと?」
「はい。攻めてきているのは、張角の弟です。万が一にも、失敗は許されません」
「……分かった。その方に任せる」
「お任せを」
こうして使者として董昭を送り出した郭典は、必死に味方を鼓舞して廮陶を守り続けることとなる。そして籠城している兵にしても、ただ籠城するより救援の当てがある籠城の方が士気も高くなる。そのお陰もあってか、結果として廮陶は落ちずに踏ん張り続けていたのであった。
その一方で高邑より出撃した劉逞は、董昭と共に郡の境を越えて廮陶を目指していた。地の利に関しては、董昭がいる。何より数年前とはいえ、劉逞たちも訪れたことがある地なのだ。それゆえに、黄巾賊より有利になることはあっても不利となることなどない。そのことを証明するかのように、劉逞たちは問題なく廮陶近郊に到着したのである。彼はそこで陣を敷くと、すぐに物見を派遣していたのだった。
やがて戻ってきた物見から報告を受けた劉逞は、率いてきた軍勢を再編する。内訳としては弓部隊と騎馬部隊、それから歩兵部隊にと分けていた。やがて再編成が終わると劉逞は、警戒もそのままに完全に味方を休ませる。既に夕刻であり、このまま攻め掛かってしまうと途中で夜になるのは必至である。そうなってしまうと、同士討ちが発生する可能性が否定できないからであった。
それに劉逞や盧植は、この戦で廮陶に籠る郭典との挟撃を考えている。その連絡をする為には、どうしても一晩は欲しかったのだ。劉逞は趙燕を呼び出すと、廮陶に籠城している筈の郭典への繋ぎを命じる。しかしそこで、董昭から進言されたのだった。
「その役目、我が請け負いましょう」
「だが、公仁殿。危険だぞ」
「何、既に一度は成功しています。ゆえに今回とて、同じことにございます。それに、我が行けば郭太守も信じましょう」
「……分かった。頼むぞ」
「お任せあれ」
使者の役目を引き受けた董昭は、趙燕配下の中で特に潜入に長けた者と共に廮陶へ戻ったのである。彼は廮陶を出た際に使用した道筋を通り、何とか黄巾賊に見付かることなく戻ることに成功したのであった。
「真か!」
「はっ」
董昭から劉逞が軍勢を率いて廮陶近くにいると聞いた郭典は、喜色を満面に表す。郭典にしても、劉逞のことは知っている。何せ、実際に会ったことがあるのだからそれも当然であった。
「分かりました。劉常剛殿へお知らせください。機を見て、打って出ると」
「ははっ」
董昭と同行した趙燕配下の者は、董昭と共に通った道筋にて廮陶より抜け出ると、劉逞の元に戻ったのであった。するとその翌日、静かに劉逞の軍勢が動き始める。順番としてはまずは弓隊であり、続いて騎馬隊が進む。最後に進むのが、歩兵を主体とした本隊であった。
やがて彼らが廮陶の近くで進軍すると、劉逞が移動を開始する前に派遣していた斥候が戻ってくる。その斥候からの報告によれば、黄巾賊は劉逞たちの存在に気付いている様子がないとのことだった。となれば、ここは機先を制するに限る。そう判断した劉逞の命により、弓隊の矢が届く距離まで軍勢を移動させた。幸いなことに、気付かれた様子はない。その様に状況を見て取った弓隊を率いる将は、一斉に矢を放っていた。
その弓隊を指揮している将、それは太史慈という人物である。彼とは、劉逞が旅の途中で青洲へ赴いた際に知り合った人物だった。何ゆえに劉逞と彼が知り合ったのかというと、太史慈がある人物の私塾に通っていたことによる。その塾を開いていた人物とは、鄭玄という者であった。
その鄭玄だが、実は盧植と知り合いなのである。何せ彼は、盧植の紹介で盧植の師であった馬融の元へ留学したからだ。しかし馬融は当時すでに大学者であったということもあり、中々紹介のあった鄭玄も面会が叶わないでいたのである。彼が漸く馬融に目通りできたのは、留学してから実に三年近くも経ってからのことであった。
時間こそ掛かったが、漸く叶った面会の席で鄭玄は馬融の質問にとてもよく答えてみせる。このことを痛く気に入った馬融は、鄭玄を愛弟子の一人に加えていた。しかしその鄭玄も師である馬融が亡くなる頃と前後して、故郷のある青洲へと戻っている。しかも彼を慕って、かなりの者たちも同行していたのであった。
いわば弟子と言っていい彼らとともに鄭玄は、共同生活をしながら故郷で私塾を運営していたのである。その私塾の門を叩いた人物の一人に、太史慈がいたのだ。彼は若い頃から武に秀でており、特に弓を得意としていた。しかしそれと同じぐらい、学問にも勤しんでいたのである。だからこそ太史慈は、鄭玄の私塾に通ったのだ。
その師と崇めた鄭玄の元に、盧植が訪ねてきたというわけである。これは彼が劉逞と共に青洲を訪れたので、ついでとばかりに嘗ての学友を尋ねたものだった。当然ながらそこには劉逞や趙雲や夏侯蘭が同行していたので、鄭玄の門下生であった太史慈とも会うことになる。しかも太史慈と劉逞たちは年齢が近いということもあって、すっかり意気投合してしまったのだ。
この時、劉逞は太史慈に対して良ければ同行しないかと持ち掛けている。しかし彼に父親がおらず母親一人だったこともあり、残念に思いながらも断っていた。劉逞もそれならば仕方がないとして、無理強いはしなかったのでる。こうして一旦は別れた二人だったが、劉逞が故郷に戻ってから出した書状により、再度交わることとなる。それは故郷の常山国へ戻ったあとで劉逞が、旅の間に知り合った者たちへ書状を出していたからだ。
要は仕官の誘いだったわけだが、当然のように太史慈へも出している。しかも劉逞はその際に、母親も共にという内容で誘っているのだ。元々その気はあっただけに、太史慈も仕官に了承する。そして彼は、母親と共に常山国へ赴くと劉逞に仕官したのであった。
その太史慈の隊に続く騎馬隊を率いているのは、韓当である。彼は弓術と馬術に優れていたこともあり、実は仕官したあとは趙伯と共に劉逞たちへ武や馬術を指導した人物なのである。それゆえに劉逞は、彼に騎馬部隊を彼に預けたのであった。
何はともあれ、太史慈指揮の弓隊より放たれた矢による奇襲攻撃を受けた黄巾賊は、たちまち混乱してしまう。奇襲ということもあったが、何より廮陶への攻めを集中していたという事情もあったからだ。それゆえに彼らは、その一斉射でかなりの被害を出すこととなってしまったのである。しかもその直後には、韓当が騎馬隊を率いて突撃を行っている。彼が率いる騎馬隊は、まるで杭を打つかのような突撃を敢行すると、そのまま敵中の真っ只中を駆け抜けて行った。
この弓と騎馬という二重の奇襲を立て続けに受けた黄巾賊は、損害を受けた以上に新たな敵軍勢の出現という事実を認識した為に動揺が広がってしまう。これを見た劉逞は、傍らにいる盧植へ視線を向けた。その視線に対して盧植は、頷くことで返答する。その直後、彼は自らが率いている本隊に対して黄巾賊への突撃を命じていたのであった。
その先頭に立つのは、幼馴染みの趙雲である。彼は騎馬によって切り裂かれた黄巾賊の傷口をさらに押し広げるかのよう攻撃を仕掛けていった。そのような城外の様子を見ていた董昭は、今こそ好機だと郭典へ進言する。すると郭典も頷き、彼は先頭を切って門より打って出たのであった。
因みに、もう一人の幼馴染である夏侯蘭はというと、劉逞の傍にいて彼を守っていたのであった。
想定外の挟撃ということもあってか、黄巾賊は一気に混乱していた。これではもう、指揮どころの騒ぎではない。軍としての士気も保てなくなっており、もはや烏合の衆以外の何ものでもなかったのだ。
「これでは、もう維持はできん。撤退しろ!」
既に大将の張梁から撤退の指示が出るまでもなく一部が逃げへと転じていた黄巾賊であったが、大将である張梁から出た撤退の指示が決め手となり完全に瓦解してしまう。彼らは取る物も取りあえず、張角がいる広宗を目指して逃げ出したのであった。
そのような黄巾賊を見た劉逞は、すぐに追撃の命を出す。そして自身は、解放に成功した廮陶へと入り郭典と董昭に再会したのであった。
「お久しぶりです常剛様。それと援軍、忝く存じ上げます」
「郭太守も無事で何よりだ」
郭典が、そして黄巾賊の裏をかいて廮陶へ戻った董昭が無事であったことを安堵している劉逞であり、そのことに郭典も董昭も嬉しく思っていた。
「それで、常剛様。これから、いかが致します」
「それは……恐らくだが、左中郎将殿からの指示を待つことになるだろう」
今回は皇甫嵩が間に合いそうにないことと、廮陶が落ちれば折角追い払った黄巾の過が再度常山国を襲うかも知れないという事実。何より郭典と董昭の連名による救援要請もあって、劉逞は廮陶を攻めている黄巾賊を打ち払うという手に出たのだ。
その廮陶もこうして守りきったのだから、兵を引いてもいい。そう考えていたが、そういうわけにはいかなくなってしまったのである。それはこの廮陶を巡る戦の為に、周辺地域の治安が乱れてしまったからであった。
もしこのまま治安を放棄して兵を引けば、いつ何時廮陶とその周辺が荒れてしまうか分からない。その影響は、隣の常山国まで及ぶ危険があるからだ。少なくとも、ある程度は治安を安定させる必要がある。そういった事情もあり劉逞は、治安安定化の為に廮陶近郊へ滞陣せざるを得ない状況になってしまったのであった。
それから半月ほど経った頃、劉逞の元に二つの書状が届くこととなる。一つは皇甫嵩からの書状であり、その内容は廮陶を含む鉅鹿郡西部に跋扈する黄巾賊を討伐せよというものだった。そもそもからして朝廷の職を食んでいない劉逞に、そのような任務がくるというのはおかしい。しかし、もう一つの書状の存在がその問題を打ち消していたのだ。ではもう一つの書状は誰からなのかというと、父親である劉暠からである。そこには、皇甫嵩の指揮下に入るようにとの旨が記されていた。
これは少しでも早く黄巾賊を討ちたい朝廷が、皇帝を通して皇族の劉暠を動かしたからである。実情は別にして公式な皇帝からの命とあっては、従わないわけにもいかない。こうして劉逞は皇甫嵩の旗下へと入ることになり、粛々と皇甫嵩から届いた命を実行していくのであった。
その働きは、目覚ましくかったと言えるだろう。何せ翌月の中頃に入った当たりになると、劉逞は命じられていた鉅鹿郡西部の黄巾賊討伐を大した損害も出さずにあらかた成功させていたからである。こうも短時間で成功した理由は二つあり、一つは廮陶が落ちなかったことにある。そしてもう一つはというと、曲がりなりにも太守の郭典が健在なことであった。
しかし今あげた二つの理由以上に影響を齎したのは、討伐軍を率いている皇甫嵩の存在であろう。何せ彼は冀州に入って以来、黄巾賊との戦で殆ど勝利を収めている。そのことが黄巾側に厭戦気分を、そして漢側に高揚を齎していたのだ。
無論、黄巾賊が全てにおいて敗北しているわけではない。その証拠に隣の幽州では、幽州刺史と幽州の治府が存在する広陽郡の太守も討っているのだ。しかし黄巾を率いる張角がいる冀州で戦が振るわないという事実は、彼ら黄巾賊の士気があまり上がらないという効果を生み出していたのもまた事実であった。
そんな黄巾側の事情はとりあえず置いておくとして、鉅鹿郡西部の鎮定に成功したことを報告した劉逞は鉅鹿に移動していた。連戦とは言わなくても戦が続いていたので、兵の休息を兼ねて同地に留まっていたのである。どのみち、皇甫嵩の指示を仰ぐ必要があるのでちょうどよかったとも言えた。
その劉逞の元に、皇甫嵩から新たな指示が届く。そこに書かれてあったのは、共に行動している郭典の招集と、そしてなぜか甘陵国への派遣だった。何ゆえに劉逞へこのような命が届いたのかというと、甘陵王である劉忠の救出にある。前述したように、甘陵王は蜂起した黄巾賊によって甘陵国内に捕らえられている。今はまだ生存は確認されているが、いつ安平王のように黄巾賊によって命を奪われるかは分からない。それゆえ、自前の兵を有している劉逞へ甘陵国への派遣というお鉢が回ってきたのであった。
そして皇甫嵩が郭典を召集した理由だが、こちらはいよいよ広宗を攻める為である。皇甫嵩は鉅鹿郡太守である郭典を広宗攻めに参加させることで、彼に名誉挽回の機会を与えようと考えたのだ。勿論、郭典は喜び勇み参画を了承する。劉逞も彼と二月近く共に行動したこともあって、共に喜んでいたのだった。
何はともあれ新たな命を受けた劉逞は、広宗へ向かう郭典と別れることになる。その劉逞の元には、郭典が抜ける代わりに皇甫嵩が派遣した援軍が到着していた。その軍勢と合流したあと、劉逞は甘陵国へ向かって行った。その援軍を率いていたのは、傅燮という人物である。彼は、身の丈八尺の偉丈夫である。劉逞も体つきは大きいのだが、さらに大きい人物であった。
その傅燮だが豪の者として名を馳せており、彼はその武勇を買われて護軍司馬として皇甫嵩と共に冀州へ派遣された人物となる。その傅燮の力もあって、劉逞が率いる軍勢は甘陵国内へ進撃すると瞬く間に黄巾賊を次々撃破していったのだ。
それは正しく、順調といっていいだろう。その証拠に劉逞は、甘陵国進撃から二月もした頃になると、ついに黄巾賊が籠る甘陵を取り囲んでいたのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
併せてよろしくお願いします。
ご一読いただき、ありがとうございました。