第三十九話~洛陽 一~
第三十九話~洛陽 一~
中平五年(百八十八年)
冬も目前というこの時期、劉逞はついに単于庭を落とすことに成功した。そのお陰で、盧植が先を見越して用意した越冬準備は無駄となったのである。しかし、ある意味では無駄になって良かったと言えた。
幾ら越冬の準備をしたとはいえ、かなりの寒さであることに変わりはない。下手をすれば凍死の危険すらもありえるので、越冬などせずに漢国内へ戻れるのであればそれに越したことはないのだ。幾ら并州に赴任してより数年、気候に慣れたとはいえども寒いものは寒いのである。まして単于庭は西河郡よりさらに北に存在しており、それはなおさらであった。
その劉逞たちだが、今は別の準備を始めている。それは首尾よく匈奴の反乱分子を討ったことを祝う宴である。とはいえ、前述したように早い帰還も望まれている。それゆえに劉逞は、二日だけ勝利を祝う宴を行ったのであった。
劉逞は、まだ残っていた輜重を開放して宴に回す。それ為、急遽始まった宴としては豪勢なものとなっていた。勿論、輜重の全てを開放したわけではない。西河郡へ戻るに十分な量を確保した上で、宴を催したのである。
「みなも、この勝利を喜ぶがいい!」
『おおー!!』
劉逞の音頭で始まった宴は、殊の外盛り上がりを見せたのであった。
都合、二日に渡って開催された宴も終わった翌日だが、大抵の者は深酒による二日酔いに苦しむこととなる。一部の酒豪や、節度を守って飲んだ者。さらには怪我の為に少量しか飲めなかった者や飲むこと自体を禁じられた者を除き、彼らは酒が抜けるまでの間、呻き苦しんでいた。仮にもし、この瞬間に何らかの存在に襲われたら反撃もできずに撃滅されていたのは間違いないだろう。しかしこの宴は、その敵となる者を殲滅した直後である。ゆえに彼らが襲われることもなく、遠慮なく存分に苦しんでいたのであった。
因みに劉逞はというと、苦しんではいない。これは一部の者、たとえば劉備家臣となる張飛のような酒豪だからというわけでなく、節度を持って飲んでいたからに過ぎない。別に劉逞は酒に弱いというわけではないが、しかし酒豪と言えるほどに強いわけでもないのだ。それに、彼自身皇族ということもあって、醜態を見せることに対する躊躇いもある。だからこそ、深酒とまではならないように気を付けていたのであった。
このように劉逞のような一部の者は別にして、大抵の者は大いに飲み存分に苦しんだのは前述した通りである。だがその酒も、いつまで残るわけではない。二日酔いも順次収まり漸く酒も抜けたことで、劉逞が率いてきた軍勢は撤収の準備を開始した。宴の席を設ける前に、討ち取った老王などの首は洛陽へと送っている。また、匈奴で起きた一連の戦乱の詳細についても、報告は行っている。ゆえに朝廷では、大よそであるが戦乱についての把握はしていた。しかし、それでも戦が終わったことを報告する必要がある。そのこともあり劉逞は、戦勝の宴が終了して将兵共に動けるようになると、即座に兵を纏めて西河郡の美稷へと戻っていった。
なお、単于庭を含む匈奴であるが、呼厨泉と去卑が纏めることとなる。本来であれば単于である於夫羅の役目だが、彼には劉逞と報告の為に洛陽へ向かう必要がある。そこで、於夫羅の弟と叔父が代理として纏めることとなったのであった。
并州へ戻る道中、特に問題が発生することもなく無事に西河郡美稷へと戻った劉逞は、そこで軍を解散した。その為、今回の匈奴遠征の為に劉逞の旗下に入っていた并州各郡の太守などは、率いた兵と共に各郡へと戻って行く。その為、美稷に残ったのは、於夫羅と彼の護衛。それと丁原とその家臣、そして劉逞の家臣であった。
「一応、最後に確認するが、以前話した通りに建陽殿……いや建陽を含め、我の旗下に入るということでいいのだな」
「無論です、常剛様」
問われた丁原が代表して答えると、呂布などといった彼の家臣らも頷く。いわゆる最終確認を行ったわけだが、それでも彼らからの答えは変わらない。その為、劉逞としても了承して頷くだけであった。
その丁原だが、多少歩き方が不格好となっている。しかしそれだけであり、日頃の生活に苦慮するほどではなかった。しかし斬られた肩に関しては、その限りではない。肩を切り付けられたことで腱が損傷したらしく、怪我を負った腕が殆ど動かないのである。食事用の椀ぐらいならば、どうにか持つことは可能である。しかしながら、逆に言えば椀ぐらいまでしか持つことができない。動かない腕が丁原の利き腕ではないことだけは、不幸中の幸いと言っていいのかも知れない。だが丁原には、もう両手で愛用の武器を持ちながら戦うこと事態が無理となってしまったのだ。
そもそも丁原の戦だが、自ら先頭に立って兵を共に敵を叩くというやり方を一番の得意としている。そのような戦い方をする彼が、今までそれこそ長年に渡って愛用してきた獲物を持つことができないのだ。その上、丁原は老境とまで言わないが壮年期も終わりに近い年齢へと達している。この年で今までとは違う戦い方を覚えるというのは、面倒でもあるがそれ以上に難しい。とても残念だが、彼は武人としてもそして武将としても終わりだと言っても過言だとまでは言い切れなかった。だが同時に丁原が、武人として、また武将として今まで培った経験は大きく、その経験を無為に失うのは惜しい。ゆえに劉逞は、彼をいわば相談役として家臣に加えたのだ。
なお、丁原が率いていた并州兵であるが、こちらに関しては丁原の家臣となる張楊が大半を率いて晋陽へ戻っているので問題にはなっていない。幾ら丁原が彼の家臣と共に劉逞の旗下となるとはいえ、今はまだ并州刺史の地位にある。彼が朝廷へ役職を返上するまでは、并州に対しての責任がある。その責任を果たす為に、張楊が丁原の代理として晋陽へ戻ったというわけであった。
「離石には、明日向かう。その後は、目処が立ち次第、洛陽へ向かうこととなる。よいな」
『はっ』
明けて翌日、劉逞は使匈奴中郎将の劉備を美稷へ残すと、将兵を率いて南下する。やがて離石近郊に到着すると、そこで褒美として金子などを与えたあと、軍を解散した。その日は、数ヵ月振りとなる劉儷の元へ行きしっぽりと過ごすこととなる。それから二日ほど休んだあと、劉逞は溜まっていた仕事を行う。主に緊急な案件や、劉逞でなければ判断できない仕事を優先的に行っていた。
やがて緊急に処理を行わなければならない書類を数日掛けて片付けた劉逞は、いよいよ離石より出立し洛陽へと向かったのである。同行者として趙親子に夏侯恩、そして丁原などであった。幸いにして道中では何も起きず、無事に洛陽へと到着する。そのまま常山王家の所有する洛陽での屋敷に入ると、匈奴での戦における最終報告の為に朝廷への目通りを希望した。しかしながら、数日ほど待たされることとなる。これは劉逞が嫌われているから……ではなく、ちゃんとした理由があった。その理由というのが、反乱である。無論、劉逞が鎮定したばかりの匈奴などではない。ならばどこで起きているのかと言えば、青州と徐州であった。
話は、一月ほど遡ることとなる。劉逞が匈奴鎮圧の最終段階となる単于庭を攻める為に進軍している矢先、遠く離れた青州と徐州で黄巾賊残党が蜂起したのである。嘗て張純・張挙の乱のときに彼らに同調して兵を挙げ、そして劉逞によって蹴散らされた黄巾賊残党が、またしても反旗を翻したのだ。その勢いはかなりの物で、青州と徐州は混乱の坩堝へと叩き込まれることとなる。しかもこの反乱騒動は、青州と徐州の二州だけに留まらない。何と黄巾賊の食指は、兗州にまで及び始めたのだ。
ことここに至り朝廷は漸くその重い腰を上げ、討伐へ舵を切ることとなったのである。つまりその対応を決めていたので、待たされたというわけであった。しかしてその対応も涼州の反乱に当たっていた陶謙を引き抜き派遣することと決まったので、漸く劉逞へ召喚の命が届いたのであった。
翌日、劉逞は於夫羅と丁原を伴って宮中へと参内する。そこではまず、劉逞からの報告が行われる。引き続いて、於夫羅から漢の助力に対する礼が述べられていた。無論、言葉だけではなく、目録も併せて献上されていた。そして最後になるが、丁原から并州刺史の返上が進言されたのである。彼が負った怪我やその後のことについては既に報告されていたので、取り分けて問題とされることもなく丁原の進言は受理されたのであった。
「常剛。よくぞ、匈奴を鎮定した。大義である」
「はっ」
「褒美は追って伝える、下がれ」
「御意」
皇帝から言葉を賜ったあと、劉逞たちは謁見の前から辞したのであった。
何はともあれ丁原が并州刺史の役職を返上したことで、丁原と彼の家臣だった者たちは正式に劉逞の家臣となったのである。これにより、今まで保留していた匈奴遠征時における彼らへの褒美が与えることとなった。とはいえ、今すぐではない。匈奴鎮定の褒美を朝廷から貰い、そして彼ら一行が離石へと戻ってからであった。今のところ、いつ褒美が渡されるかは分からない。だが、そう時間が掛るとも思えないと劉逞は考えていた。しかしながらその褒美が朝廷より渡される前に、劉逞は朝廷へ出向くことになったのである。その理由は、皇帝から召喚されたからであった。
それから三日後、通達された時刻へ間に合うように宮中へと赴く。すると劉逞を出迎えたのは、十常侍の筆頭である張譲であった。その姿を見て、彼は無意識に視線を険しくしてしまう。だがそれは一瞬のことであり、次の瞬間には険しくなった視線を元に戻していた。しかして、これが幸いすることとなる。それというのも、張譲がなぜか視線を劉逞に向けたからであった。どうやら、厳しい視線を向けられたことに気付けたらしい。自分に害があるようなことには敏感な辺り、流石は朝廷で権力を握った化け物である。だが前述しての通り、既に劉逞の目つきは戻っていたので、張譲へ気付かれることはなかったのである。ただ、首を傾げてはいたが。
ともあれそれから暫くしたのち、劉逞と張譲は皇帝の元へと到着したのである。すると間もなく、劉逞は中へと通される。だが、宦官の張譲は呼ばれなかった。そのことに対してあからさまな不満を見せなかった張譲であるが、だからと言って黙って受け入れたわけではない。何と彼は、隠し部屋へと移動していたのである。この部屋は、数年前に行われた宮殿の改築に伴って密かに作らせた部屋である。その理由は、言うまでもなく皇帝の動向を監視する為であった。
そもそもからして、劉逞が皇帝に呼ばれるのは二度目である。一度目は、匈奴侵攻の前となる。於夫羅が漢の助力を頼む為、劉逞と共に洛陽へ出向いた時であった。前回と違う点は、皇帝の二人の息子となる劉弁と劉協がいることである。しかも、弟となる劉協がせがむような仕草をしていた。だが、皇帝も兄の劉弁もそして張譲も意外だとは思っていなかった。
その理由は、劉逞が度遼将軍となったこれまた前回の洛陽訪問時にまで遡ることとなる。皇帝から召喚され非公式な謁見を終えて宮中から辞去する為、歩みを進めていた時分のことである。その途中で劉逞は、自身が歩みを進めていた場所からさほど離れていないところにある茂みに二つの気配を感じていた。いわゆる殺気などはないのだが、そもそもからしてそのような場所に気配を感じること自体がおかしい。宮中への参内ということもあり無手であったが、それでも咄嗟に身構えていた。実は劉逞だが、無手であっても戦える術を持っていたのである。一説には孫臏拳の使い手でもあった言う話もあるが、そもそも孫臏拳成立の由来が伝説の域を出ないので定かではない。しかし、無手であろうと人並み以上に戦えるという事実に変わりはなかった。
「出でこい!」
劉逞が凄みを込めて誰何すると、間もなく茂みが揺れた。どうやら気付かれていたとは、夢にも思っていなかったらしい。暫く静かな時が流れたが、もう一度改めて誰何すると諦めたかのように二人の人物が茂みより現れた。一人は、年の頃なら十五ぐらいの男児である。そしてもう一人は、驚いたことに十にも満たないような子供であった。
ここは仮にも、宮中である。そのような場所で子供がいたことに、劉逞は驚いていた。その時、劉逞の耳に誰かを探しているかのような声が複数聞こえてくる。遠くではあったが、幾人かの人物が男女問わずに探している様子が見て取れていた。
前述したようにここが宮中であるということ、そして複数の人間が必死に探しているという事態から劉逞は目の前の二人が誰であるかを察する。十五才ぐらいの子供が皇帝の長子である劉弁であり、十歳にも満たない子供が劉協であることに。
その思いにまで至った劉逞は、即座に礼を以て二人に接していた。
「失礼いたしました、皇子様」
「……そなたは何者か?」
「はっ。常山王が一子、劉常剛にございます」
劉弁から誰何された劉逞が、自身の名を二人の皇子へと告げる。すると兄である劉弁は、いささか驚いたような表情を浮かべていた。そして弟の劉協はといえば、とても嬉しそうな表情を浮かべていたのである。そのような対照的と言える兄弟の様子を見て訝しげに思いつつも、劉弁と劉協に対して何ゆえに茂みなどに隠れていたのかを尋ねたのである。すると気まずそうにしながら、二人の皇子は視線を互いに向けるばかりで答えようとしない。その様子に、大体の事情は察しつつも劉逞は静かに答えを待っていた。これはある意味で、無言の圧力を掛けられていると言っていい。やがてこの状況に耐えられなくなったのか、劉協が短く答える。果たしてその答えは、劉逞の予想した通りであった。
つまり二人の皇子は、宮中から黙って出ようとしていたのである。それというのもまだ幼い劉協が、子供らしいわがままを言って兄である劉弁を誘ったのだ。しかし劉弁は、流石に拙いと考える。そこで諫めさせようとしたのだが、劉協は聞き分けようとしない。それどころか怒って一人でも行くと言い出したのだ。流石に放置するわけにもいかず、不承不承ついてきたというわけである。そこには、すぐに見付かるだろうという考えもあった。そうなれば、弟と一緒に叱られるつもりであった。だが劉弁の思惑と違って、そして劉協にとっては幸いなことにこの場に到着するまで誰にも見つかることがなかったのだ。
途中で劉弁と劉協の兄弟を探している声も聞こえていたのだが、逆にそのことが劉協にとって面白かったらしくいつの間にか宮中から出ることより自分たちを探す者たちから隠れることに夢中となっていた。そのことに内心で安心した劉弁は、そのまま弟に付き合っていたのである。そこにあらわれたのが、宮中から辞去する途中の劉逞であった。
当初、声を掛けてきた劉逞を劉弁は警戒する。しかし、見つかっている以上はいつまでも隠れきれるものではない。そこで、弟と共に茂みから出てきたのだ。だがいざ相対してみれば、礼を以て挨拶してくる。そこで名を尋ねてみれば、劉逞であった。彼については、父親などから伝え聞いてはいる。だからこそ劉弁は驚いたのであるし、劉協は嬉しそうな表情をしたのだ。まだ幼い劉協からしてみれば、聞き及んでいる劉逞の活躍は一種のあこがれのようなものがあったのである。
「常剛」
「はっ」
「そなたから、戦などの話を聞きたいぞ」
劉協からそう言われた劉逞は、戸惑ってしまう。話をするぐらいはいい、ましてや相手が皇子なのだ。しかし、今は宮中より辞去する途中である。勝手にそのようなことをしていいのかと、考えてしまったのだ。どうしたものか劉逞は、思わず劉協の兄である劉弁へ視線を向ける。するとその意味を理解したのか、劉弁は一つ頷いたあとで口を開いていた。
「常剛。弟の我がまま、聞いてはくれぬか。何とするならば、父上に話を通してもいい」
「……はっ。承知致しました」
皇帝からも許可を得られるならば、劉逞としも否はない。彼は劉協の要請に、答えたのであった。同時に劉逞は、劉弁に対して抱いていた印象を変えていたのである。それというのも劉弁には、暗愚であるという噂があったのだ。しかし実際に相対してみると、とてもそのような感じはしない。その証拠に、この僅かな時間のやり取りであっても、劉弁はしっかりと対応している。これで暗愚であると言われたら、大抵の人物が暗愚と言われかねないからだ。
なお、劉弁と劉協の兄弟仲だが、決して悪くはない。しかし劉弁の母親である何皇后と、劉協の育ての親である董太后の仲はかなり悪い。そのこともあって、回りからは兄弟の仲が悪く見られていたに過ぎなかったのだ。
因みに劉逞だが、その後に劉協に請われるまま戦などの話を語ったのであった。
話がそれた。
兎にも角にも劉逞は、前回と同様に今回も劉協にせがまれながら匈奴鎮定での戦の話などをしていたのである。そこには陰謀のいの字も見えない、語らいでしかなかった。
「ふむ……やはり気まぐれか。これは、気にし過ぎたかも知れぬ」
張譲はそう独白すると、監視を止めて隠し部屋より出ていったのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
併せてよろしくお願いします。
ご一読いただき、ありがとうございました。




