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第三十四話~帰路~


第三十四話~帰路~



 中平五年(百八十八年)




 皇帝との謁見から数日後、劉逞は於夫羅を伴って曹嵩の元を尋ねていた。紆余曲折うよきょくせつがあったとはいえ、今回の一件について曹嵩の存在が果たした働きは大きかったと言える。その為、劉逞と於夫羅は、洛陽を離れる前に洛陽を離れる挨拶と礼の為に彼の屋敷を訪れたのである。そこで二人揃って今回の労に対して礼を言上したのだが、その席で曹嵩からあることを尋ねられるとは劉逞も想像していなかった。果たして尋ねられたことというのは、劉逞が就任していた使匈奴中郎将の後継についてである。劉逞が度遼将軍へ就任されるに当たり返上した以上、代わりの使匈奴中郎将が必要となる。そこで曹嵩は、手っ取り早く前任者となる劉逞に尋ねたというわけであった。

 その時、彼の頭に浮かんだ人物というのは、三人いた。その一人目は、公孫瓚である。彼は涼州で起きた反乱で順調に功績を上げており、今ならば使匈奴中郎将として問題はないと考えたからだ。しかし劉逞は、その考えを振り払っている。それは、到底受け入れられるとは思えないからであった。涼州の反乱だが、一旦は収束したかに思えたのだが匈奴で起きた反乱の影響からかそれとも別の理由からかは分からないが再燃してしまっている。引き続いて涼州の鎮定を任されている皇甫嵩や董卓らの働きによって涼州で起きた反乱は下火へ向かっているのだが、それでもまだ鎮圧したとは言い難いのだ。

 しかしてその公孫瓚だが、皇甫嵩の元で目覚ましい活躍している。もしここで公孫瓚に対して引き抜きを掛けようしても、上司の皇甫嵩は首を縦には振るとは思えなかった。何より劉逞も、そのようなことを原因として皇甫嵩との関係を険悪にしたくはない。だからこそ、公孫瓚を使匈奴中郎将にという考えは振り払ったのだった。

 次に該当する人物だが、それは曹操である。だが劉逞は、彼の存在も振り払っていた。なぜかというと、目の前にいる曹嵩が彼を推していないからである。大尉の曹嵩が息子の曹操を推挙すれば、そこで終る話なのだ。しかしながら曹嵩は、息子である曹操のことなど一言も漏らしていない。それどころか、候補として名すらも挙げていないのだ。ならば、ここでは言うべきではないと劉逞は判断したというわけである。そしてその判断は、間違いってはいない。それというのも、曹嵩と曹操の仲がいささか拗れていたからだ。別に以前から、親子の仲が悪かったというわけではない。しかし、曹嵩が大尉に就任する少し前ぐらいからからだろうか。曹親子の仲に、すれ違いのような物が発生していた。しかも現状、曹操は役職をすべて辞している。そして自身は、まるで隠居でもしたかのように振舞っていた。そのお陰でということもないのだろうが、朝廷内における曹嵩に対する風当たりもいささかよくないのである。実際、その風聞を気にした曹嵩は、近いうちに大尉を辞するつもりだったのだ。しかし匈奴の一件に関わったことで、辞職もすぐには履行できる状況になくなってしまっている。それこそ、匈奴の反乱に解決の目途をつける。もしくは、度遼将軍となった劉逞が余程の失態を演じる。そのような事態にでもならない限り、彼の辞職も難しい状況となっていたのだ。

 話がそれたので、話を戻そう。

 曹操と公孫瓚を諦めた劉逞が最後に思い描いたのは、劉備であった。今さら言うまでもないことだが、使匈奴中郎将となった劉逞の従事として同じ時を過ごしている。そして、劉逞が使匈奴中郎将に就任して以来、ずっと従事であったこともあり於夫羅との付き合いも長い。その劉備ならば、匈奴と齟齬をきたすとは思えない。現状において劉逞の中では、劉備の一択しか残っていなかった。


「では、劉玄徳ではどうであろう?」

「劉玄徳にございますか? はて、どこかで聞いたような気は致しますが……」

「我が従事として、三年近くだが共にあった。それに玄徳ならば、於夫羅殿とも知合いである」

「ふむ……分かりました。では、劉玄徳を新たな使匈奴中郎将に致しましょう」


 ここに劉逞の推薦で、劉備に対しても新たな役職が与えられることとなったのである。



 曹嵩との面会を終えた数日、洛陽を出立した劉逞たちは、順当に河東郡へと移動を果たしていた。そしてこの河東郡だが、関羽の故郷である。そこで劉逞は、関羽に両親へ顔を出させるように仕向けている。当初は遠慮した関羽だったが、劉逞より強く勧められたこともあって最終的には了承していたのだ。

 そして劉逞自身は、遠慮するだろう思い同行していない。何といっても劉逞は、皇族である。そのような身分の者がいきなり顔を出したら、間違いなくかしこまられる。それでは、親子の再会を喜ぶなどできる筈がない。それゆえに劉逞は、関羽に同行しなかったのだ。そのお陰もあったようで、関羽は久方ぶりとなる家族との再会を大いに楽しんでいたのである。実家で過ごしたのは数日程であったが、その間は親子水入らずであった。その関羽だが、故郷から出立する前日に父親の関毅へある提案をしている。その提案とは、主君である劉逞に仕えないかという勧誘である。しかしながら父親は、腕を組んで悩む素振りを見せていた。実は関毅だが、嘗て郡吏として仕えていたことがある。しかし彼は、在職中に見た腐敗などに嫌気がさして職を辞して隠棲したという経緯を持っていたからだ。とはいうものの、息子からの話とはいえ劉逞について聞き及んではいる。それに、息子などを介さずに聞き及んだ話としても、そこまで悪い話は聞こえていないのだ。

 戦で挙げた功もさることながら、黄巾の乱の最中さいちゅうで一時的とはいえ甘陵国での治安回復と回復した治安維持での働き。それから、初めて任じられた鉅鹿郡での治安回復と復興もある。さらに言えば、西河郡太守としての働きもあった。特に西河郡での話については、州こそ司隸と并州と異なるとはいえ河東郡と西河郡は隣同士の郡となる。その為、話も割と正確に流れてくるのだ。それだけに、関毅も悩んだとも言える。ある意味で政において一度は失望しているので、もし仕えたとしてもまた同じ失望を味合わせられるのではないか。そういった考えが、脳裏を駆け巡ったのだ。その一方で、息子からの話や伝え聞く話を聞いても悪いところはない。たとえ話半分であったとしても、十分に評価できるだろう。関毅も即答はできず、一晩考えてみると返したに過ぎなかった。そして提案した関羽としても、自身が性急に勧めたという思いがないわけではない。それゆえに彼も、父親やの判断は尊重して一度は引き下がったのであった。

 そして翌日、関毅からの話を聞く。目がやや赤く充血しており、その様子から関羽は、本当に父親が悩んだことを推察した。親子は対面しつつ、どちらから口を開くまでもないという奇妙な沈黙が流れる。その間が暫く続いたあと、ついに関毅が口を開いた。


「分かった、雲長。我も今一度、仕えてみるとしよう」

「おお! では、すぐにでもお知らせしてきます」

「え?」


 前述したように、関羽が良かれと思って行ったことだがあくまで独断で及んだことである。説得に応じ、父親が劉逞に仕える決断をしたというならば、話を通しておく必要があると思えたのだ。だからこそ、関羽はすぐにでも劉逞の元へ行ったのである。そんな息子の後ろ姿を、関毅はやや呆れたような視線で見送ったのであった。



 戻ってきた関羽から、父親が仕えたいという話を聞き及んだ劉逞はいささか驚きを露にしていた。それというのも、河東郡にきたのは并州へ戻る為である。言わばついでとして、河東郡が故郷の関羽へ休暇と言っていい自由な時間を与えたのだ。しかし、戻ってくれば父親の仕官と言う話である。想定などしていなかっただけに、驚きの様子を見せたのだ。

 とはいえ、劉逞自身は関毅を知っている。関羽が旅に同行する、即ち仕えると決まった時に顔を合わせたということもある。だがそれ以上に、身上を調べたからであった。特に盧植や程昱などは、その辺り手を抜くことはしない。しかも一時的とはいえ、関毅は郡吏として仕えたという経緯を持っている。それだけに、調べるのはそう難しくなかったのだ。

 その調査では、いわゆる別駕従事のような太守を除けば郡の最上位に当たるような職に就くなどという出世をしたというわけではない。だが、働きぶりは標準以上であったので郷挙里選に選ばれるぐらいには周りから思われていたのだ。また、郡吏として仕えていた頃から、関毅は文人として地方限定とはいえ名が知られている。もともと関家は、文人の家系である。関羽の祖父となる関審も、また関毅同様に文人であったのだ。その点から考えても、仕えさえたところで邪魔になるとは思えない。それどころか、十分に官僚としても使えるだろうと思われた。実際、関羽にしても「春秋」の注釈書となる「春秋左氏伝」をそらんじることができるのである。それゆえに、断る理由などなかった。


「よかろう、雲長」

「真ですか! では、早速にでも」

「ああ、慌てなくてもいい。今日は、その旨をそなたの父親へ伝えるだけにせよ」

「わ、わかりました」


 そう言ってから関羽は、一礼してから劉逞の前より辞する。そんな彼の姿を見て盧植などといった年嵩としかさの者は、微笑ましいような視線を向けていた。その関羽だが、早速さっそく郷里へと戻っていたのである。そして数日後の昼過ぎであったが、関羽が戻ってくる。当然ながら、父親の関毅もまた同行していた。

 

「ご尊顔を拝し、恐悦にございます。関雲長が父、関道遠と申します」

「我が劉常剛だ。歓迎するぞ、関殿。嘗ては官吏として仕えたその手腕、わが元でも存分に発揮して貰おう」

「ご、ご存じでしたか」

「うむ」


 まさか、自身の過去を知っていたとは思ってみなかったので、関毅は驚きの表情を見せた。だが、息子が仕えているのだから知っていてもおかしくはないと思い至る。そう考えた関毅は何とはなしに関羽の方を見たが、息子の表情を見てその思いが間違いに気付く。そして同時に、一度は収めた驚きの表情を再度浮かべていた。

 その理由は、息子の関羽が驚きの表情をしていたからである。既に家臣として仕えている息子が驚いているのだから、少なくとも自身のことについて話はしていないことは関毅にも想像がつく。ということは、調べるだけの手段を有していることに他ならない。そのことを気付いたから、勘違いに気付きそして改めて驚いたのだ。これは、噂以上の人物かも知れない。関毅は仕えるに当たって、改めて気を引き締めたのであった。


「し、しからば常剛様。我より一人、推挙したい人物がおります」

「ほう。それは、どなたかな」

「実は、河東郡の北に楊という地がございます。そこに若いながらも、一廉の人物がいると」

「して道遠、その者の名は?」

「確か……徐公明であったと記憶しております」


 これから匈奴との戦いを行わなければならない劉逞としては、一人でも有能な人物は欲しいところである。そして関毅は文人であり、それは即ち士人(士大夫)であるということとなる。その関毅からの推挙であるのだから、無能であるとは思えなかった。

 ただ、中には本人の持つ能力とは別な点で評価されることもあるので、必ずしもそうだと言い切れないところがある。ただ、皇族である劉逞が、考えることではないのかも知れない。ある意味でその究極の位置にいるのが、劉逞なのだ。

 話を戻そう。

 ともあれ、関毅の言った通り楊は河東郡の北にある。正確に言えば、北東になるが北であることに変わりはない。西河郡は河東郡の北に位置するので、どちらにしても北は向う先になるのだから会ってみるのもやぶさかではない。そこで劉逞は、せっかくなのでくだんの人物を招いてみることにする。北へ向かう先で会うように仕向ければ、問題になるとは思えないからだ。


「道遠、よき話を聞いた。大儀である」

「ははっ」


 そこで、会合は一まず終わりを見せる。以降、関毅は官僚の一人として劉逞の元で働きを見せることとなったのであった。



 それから二日後に出立した劉逞は、東河郡の北にある平陽へと差し掛かる。そこで彼は、招聘に応じた徐公明こと徐晃と面会していた。その徐晃だが、当初は郡吏になることを考えていたのである。しかしそんな彼の元に、皇族である劉逞からの招聘が届いたのだ。黄巾の乱や張純・張挙の乱などで抜群の功を挙げた皇族ぐらいしか聞いたことない相手からの招聘ということもあって、彼も初めは慌てふためく。だが、そのような戦功抜群の者から家臣にと望まれているのだ。

 徐晃は武も文もたしなむ人物だが、どちらかと言えば武人や武将である。その徐晃が、既に武将として名を馳せている劉逞からの招聘に応じない理由はなかった。ただその中には、純粋に皇族に対するある意味での畏れのような物がなかったわけではない。しかし大半は、大いに功を挙げている劉逞へ会ってみたいという思いの方が大きかったのだ。


「お目通りが叶い、望外の喜びであります」

「徐殿、我が会いたいと招いたのだ。かしこまる必要はない、顔を上げられよ」

「ははっ」


 劉逞は皇族である。しかも属尽などではない、れっきとした皇族なのだ。確かに招聘を受けたからこそ会ってみたいと思ったのだが、やはり実際の皇族を目の当たりにすると説明できない何かが徐晃自身の身に振り掛っていたのである。それでも徐晃は、その何かを抑えて、しっかりと顔を上げていた。

 一方で自分より五歳ぐらいは若いだろう徐晃の様子を見て、劉逞は微かに笑みを浮かべている。その様子から、十分に肝が据わっていると見えたからだ。また、武人としても悪くないと思える。これは、自身も武人であるからこそ感じ得たものであった。


「よき目と面構えをしている。子幹、勲圭。そうは思わぬか?」

「……ふむ。そうですな」

「しかり」


 劉逞は学問の師である盧植と武術の師である趙伯に尋ねていた。すると、師匠である二人も、同じく肯定的な返答していたのである。自身だけではなく、二人の師からも同様な判断をしたことに彼は間違いなどないと感じる。そこで劉逞は、徐晃に対して招聘に応じるかの最終確認を行う。すると徐晃は、片膝をつきながら招聘に応じる旨を答えたのであった。


「この徐公明。常剛様へ、終生の忠義を」

「うむ。期待しているぞ」

「はっ」


 河東郡内で、徐晃と関毅と言う二人の家臣を加えた劉逞は、郡の境を越えて并州西河郡へと入る。そのまま足を停めずに、西河郡の治府がある離石に向かった。やがて無事に到着した劉逞は、主だった将を集める。それは使匈奴中郎将であった劉逞の代理として美稷へ駐屯していた劉備や田豊も同じであった。

 多少の時間が掛かるも主要な者たちが参集した頃を見計らって劉逞は、朝廷で決まったことを伝えていく。自身が新たに度遼将軍へ就任したこと、それに伴い使匈奴中郎将を返上したこと。それから、当初の目的であった於夫羅の単于就任が承認されたことなどであった。そしてその中には、当然だが劉備の使匈奴中郎将就任の話も含まれている。まさかの話を聞かされた劉備は、驚きをあらわにしたのは言うまでもないことであった。

連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」

併せてよろしくお願いします。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 徐晃といえば 曹操の股肱の臣の1人じゃないですか!? 曹操軍団大丈夫?
[一言] 劉備が二千石に!面白いです!毎週楽しみにしてます!更新頑張ってください!
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