第三十二話~美稷攻防戦 二~
第三十二話~美稷攻防戦 二~
中平五年(百八十八年)
籠城の体勢を取った劉逞の軍勢を追って、匈奴の軍勢が美稷へと迫る。やがて近くまで到達すると、取り囲むように軍を展開をした。しかし兵はそこまでの数がいない為、完全包囲とまではなっていなかったのである。これが匈奴にて動員できる全て兵を揃えて出陣していたのであれば、その結果は違っていたかも知れない。しかし現実には、右部による主導で行われた戦ということもあって匈奴全ての兵というわけではない。それゆえに、美稷を完全包囲するには、純粋に兵数が足りなかったのだ。
それでも、使匈奴中郎将であり西河郡太守でもある劉逞を美稷へ追い込んでいる。その事実に、攻め寄せた匈奴の士気は上がっていた。たとえそれが、劉逞の意図したことであったとしてもだ。何せ美稷に籠城すること自体が策であることなど、敵は知り得ていないのである。知らないのであれば、目に見えることが全て現実と成り得てしまうのだ。
「ふん。思ったより、大したことはないな」
「全くですな」
多少の不備はあったが、それでも劉逞を美稷に押し込んだことに匈奴は意気揚々としている。そこには、ある種の余裕すら見受けられた。漢に対して反旗を翻した右部によって新たに擁立された単于もそれは同様であり、劉逞を倒す前祝いと称して彼は飲酒も兵に対して許可していたのである。ただ流石に、一杯だけとしていた。
無論、好きに酒が飲めないということで不満は出ているがそれ以上ではない。そこには劉逞を破った暁には、浴びるほどの飲酒と略奪を約束したこともある。敵を破れば、その先には愉悦が待っている。そう提示することで、発生した不満をそらし意向に従うように仕向けたのだった。
美稷へ籠城した劉逞だが、焦った様子はない。それは、当然である。はじめからその予定であったのだから、焦る必要などないのだ。これから暫く、匈奴を美稷から霧散させない為に戦うことになる。引き付けるだけ引き付け、匈奴が前方以外の警戒を疎かになるようへと仕向けるのだ
当初、劉逞は敵を引き付けることが一番難しいと考えていた。しかしいざこうして籠城してみると、それほど難しいとは思えなくなっている。その理由は、匈奴の士気であった。事前に予想していた以上に、彼らの士気が高かったのである。これならば、挑発を繰り返してやればいい。そうすれば、余計に彼らは嵩に掛かって攻めてくるだろうことが予測できたからであった。
「士気が高いこと、それ自体は悪いことではない。だがそれも善し悪し……ということか」
「せいぜい、苛立たせてやりましょう」
「そうだな、子幹」
流石に当日は、美稷を匈奴が取り囲んだだけであった。しかしながら翌日になると、早速にでも攻め掛かってくる。先の一戦で使匈奴中郎将たる劉逞を破ったつもりの匈奴であり、彼らは高い士気に任せて攻め込んできたというわけである。普通であれば、遊牧民となる彼らにとって城攻めは最も不得意な戦となる。それゆえに、通常であれば慎重に攻める筈だった。しかし今は、士気が高い為かただの平押しで攻めている。挑発でもして感情を逆なでしようかと思っていた劉逞だけに、この状況はある意味で予想外でもある。まさか敵の方が、こちらの望む方法で攻めてくるなど思ってもみなかったからだ。しかし、この状況は寧ろ好都合である。余計な手間を掛けずに、思惑通りの形となるからであった。
お蔭で、劉逞たち美稷へ籠った将兵は実に効率よく防衛を行えている。初めから相手を飲んで掛かっていただけに、この事態は攻め手となる匈奴の神経を逆なでしていった。これが、城攻めを始めてから一日や二日であれば、そのようなこととはならない。しかし三日経ち四日経ち、一週間経っても碌な戦果を挙げていないとなれば、話は別であった。何より、どう見ても敵である劉逞の方が上手く戦っている。そのことがなおさらに、匈奴の上層部だけでなく兵士の一人一人に至るまで気持ちを苛つかせていた。
確かに防衛拠点となる美稷へ陣取っている劉逞の方が、戦い易い。しかしその点を考慮したとしても、味方の不甲斐なさは目に余った。軍勢を率いている彼は、そう感じていたのである。そしてそのことが、余計に力攻めへ固執させていた。ここにきて士気の高さが、裏目に出た形である。高揚した士気が、逆に悪い方へと彼らを傾かせてしまったのだ。
さらに言えば、美稷へ籠っている劉逞の兵より自軍が抱える兵数の方が上である。そのことも、彼らから力攻め以外の選択肢を奪っていたのだ。そのことを証明するように匈奴は、愚直なまでに力押しを行っていく。だが、流石に一週間も碌な戦果がなければ変化は出てくる。基本的に平攻めなのは変わらないが、ただ力押しに攻めるだけでなくより弱い個所を見付けてそこを攻めるようになっていたのだ。しかし、それでも上手くいかない。だがそれも、当然であった。籠城している劉逞からすれば、美稷は庭である。防御が堅い個所も、そして弱点と成り得る個所も、全て知り尽くしている。少なくとも本来ならば使匈奴中郎将の拠点となる美稷に対して、何も対応しないしないなどといったことを盧植たちがする筈がない。たとえ劉逞が指示しなくても、彼らは自主的に行っていた筈なのだ。もっとも、劉逞はしっかりと指示はしていたが。
「流石に七日も攻めて成果が出なければ、変化を出すか」
「碌な戦果が出ていないのです、彼らなりに考えもするでしょう」
「だが、これで当初の目的は果たした。違うか? 仲徳」
「は。匈奴が美稷を攻め始めて七日ですか……よき頃合いでしょう」
「では、最後の締めにとりかかるぞ」
『ははっ』
その夜、劉逞は夜陰に乗じて軍使を派遣する。その行き先は、別動隊と共に伏兵となっている劉備の元であった。
劉備は、じりじりとした気持ちを押し殺しながら劉逞からの出る最後の指示を待っていた。彼の元には、既に何度か連絡役となる者が派遣されているので連携自体に齟齬はない。その為、戦の趨勢については参画していないにもかかわらず劉備たちは戦況をしっかりと認識していた。だからといって、焦りがないのかと言われればそうではない。それでなくても上司である劉逞が、美稷で攻防戦を演じている。その状況に焦りを生まないほど、彼は冷酷でも冷徹でもなかった。
事実、劉備たちは、幾度となく出陣を行おうとしている。これは劉備だけでなく援軍とされた劉逞家臣の一部も、同様である。具体的にいえば、朱霊と白波衆に属する五人の将のうちで白波衆を率いる郭太を除く者たちであった。しかしそのたびに、劉備は荀攸や田豊。それから、配下の田豫によって諫められる。そして朱霊は太史慈に、白波衆は頭領となる郭太によってそれぞれ諫められていた。
そのような彼らの元へ、またしても軍使が現れる。当初はいつものごとく、経過報告かと思っていた。しかしながら、今回は違っていたのである。ついに別動隊である彼らへ、出陣の命が届いたからだ。焦りと言っていい思いに身を焦がされていた彼らに出された、出陣の命である。これに奮起しない者はいなかった。劉備はすぐにでも行動に移ろうとしたが、荀攸と田豊から止められる。このような夜中から行動を起こしても、同士討ちなどが発生して碌なことにはならないと。
流石にそれももっともだと感じた劉備は、考えを改める。すぐに行動へ移ることは諦め、日の出を待つことにしたのだ。明けて翌日、ついに劉備は別動隊を率いて動き出す。当初は一気に攻めるべきだと考えていたのだが、またしても荀攸や田豊へ止められてしまっていた。代わりに、劉備へ二人から提示された策の通り進軍。すると別動隊は、美稷攻めに意識が完全に集中している匈奴の本陣近くの後方へと移動していた。実はその過程で二度ほど、劉備たち別動隊は匈奴に遭遇し掛けている。しかし、匈奴の警戒を予見していた荀攸と田豊の二人が派遣した斥候によって匈奴の兵は討ち取られていた。そのお陰もあって別動隊は、最後まで敵に動きを悟られることもなく無事に辿り着けていたのである。ここまでくれば、もう静かに動く必要などない。劉備は腰に佩いた剣を抜くと、率いる別動隊全ての将兵に向けて宣言したのであった。
「突撃ー! 敵を蹴散らせー!!」
『おおー!!』
劉備の命を受けた別動隊は、掛け声と共に敵本陣へ向けて突き進んでいく。流石にこのような事態となれば、匈奴も様子がおかしいことに気付く。すぐに物見を、周囲に向けて派遣しようとしたのである。だがそれは、遅きに失していた。
「大変です、単于! 後方からの奇襲です!!」
「何だと!?」
報告を聞いた単于は、驚愕の表情を浮かべていた。今は、美稷攻めに傾注している。その為、一人でも多くの兵を前線へと送り込んでいた。何せ本陣からも、将兵を派遣していたぐらいである。士気の高さと、思うように美稷を攻め切れない事実が彼らにこの判断を選択させてしまったのだ。
「拙い! 直ぐに呼び戻せ!!」
「は、ははっ」
慌てて伝令が前線に向けて出て行くが、今さらでしかない。劉備率いる別動隊は、すぐそこまで迫っている。果たして彼らは、急襲されたのであった。
順調とは言い難いが、それでも美稷を攻めていた。しかしながら、突如として後方から襲われたのである。しかも襲撃を受けたのは、本陣からほど近い場所であった。しかも厄介なことに、美稷攻めに傾注するあまり本陣からも将兵を割いている。つまり、本陣の守りがとても薄くなっているのだ。
今さらながらに自身たちの身が非常に危険だということに気付いたわけだが、だからと言ってすぐにどうすることもできなかった。すぐに前線に割いた将兵を戻すように伝令を出してはいるが、すぐに戻れるわけもない。本陣にいる将兵は、大将たる単于を守るべく防御態勢を取る。しかしながら、本陣を守る者たちより襲撃を掛けてきた劉備率いる別動隊の方が多いのである。兵数が少ない匈奴本陣では、守りきれるものではなかった。特に、前線をまるで無人のごとく味方を蹴散らしながら駆け抜けてくる将と、その男のすぐうしろを騎射しつつ付いてくる将の働きはすさまじい。とてもではないが、易々と止められるとは到底思えなかった。
「単于!! すぐにお逃げください!」
「な、何を言っておる」
「このままでは、単于のお命も危ぶまれます! 悔しいお気持ちも分かりますが、今は御身をご自愛ください!」
「くっ! あい、分かった!!」
単于は悔しさを滲ませながらも、進言した家臣の言葉に従う決断をする。彼は愛馬に跨ると、すぐに駆けさせていた。流石は、遊牧民の匈奴である。その手綱捌きは、目を見張るものがあった。数名の護衛と共に奇襲を受けた本陣から離れた単于は、一度馬を立ち止まらせると悔しさを滲ませつつうしろへ視線を向ける。そんな彼の目に映ったのは、蹂躙されていく本陣の様子であった。しかも、本陣を強襲されたという情報は、味方の間に徐々にだが浸透しているように思える。その証拠に本陣から近いほど、味方の動きがおかしくなっていることは間違いないかと思われた。
その事実を目の当たりにした彼は、悔し気に歯ぎしりをする。それから意を決したように視線を切ると、愛馬を走らせようとした。しかしその瞬間、不意に痛みに襲われる。何だと思い痛みがした自身の右肩に目を向ける。すると肩には一本の矢が突き立っていたのである。その矢は深々と刺さっており、肩を完全に貫通していたのであった。
「……ぐぁぁぁ!!」
『単于!』
漸く自身が射抜かれたことを自覚した彼は、急速に襲いくる痛みに思わず叫び声を上げてしまう。聞いたこともない主の声を聞いた馬は、驚きからか別の理由からか分からないが棹立ちとなる。そしてそのまま主を振るい落とすと、混乱したまま走り去ってしまった。
さて、彼を討ち抜いたのは果たして誰なのかというと、実は太史慈である。彼は先頭を切って敵へと突撃した張飛と共に行動していたのである。そして偶然、敵本陣から脱出しようとする小集団を発見したのだ。彼は弓の名手ということもあって目はとてもよいのだが、流石に距離があって逃げ出そうとしている者の顔までは判別できない。しかし、敵の本陣から逃げ出した以上は敵だろうと判断し、先頭を駆ける馬に乗る男へ狙いを定めると矢を放ったのであった。
一方で美稷にて籠城していた劉逞だが、敵の様子から劉備の奇襲が成功したことを確信する。彼は即座に城門を開かせたかと思うと、美稷に籠っていた兵の大半に出撃を命じたのである。それは正に、匈奴の前線にまで自軍の本陣が奇襲された事実が知れ渡った頃合いでもあった。まさか本陣が奇襲されたことも十分に驚きなのだが、さらにまるで計ったかのように打って出られたことに匈奴の軍勢は慌てふためいてしまう。図らずも前後を挟まれた形であり、彼らは劉逞と劉備が率いた軍勢に蹂躙されてしまっていた。やがて匈奴は、撤退へと移り始める。勿論、組織だった撤退ではなかった。そしてその旨を察した劉逞は、すぐに追撃を行わせている。追撃へと移った将兵は逃げる匈奴兵に追い付くと、今までの鬱憤を晴らさんばかりの勢いで、手当たり次第に討っていくのであった。
因みに太史慈によって射抜かれた単于であるが、共に行動していた護衛の尽力によって辛くも虎口から逃れることに成功している。しかし、逃げることを最優先したことが災いして治療が遅れてしまったのである。その結果、彼は肩の傷が悪化して重傷を負うこととなってしまうのであった。
大半の兵を追撃に投入した劉逞であったが、その一方で勝利宣言を行うことも忘れていない。彼は手にした槍を預け、それから腰の剣を抜く。陽光を反射して光る剣を掲げつつ、劉逞は声を張り上げていた。
「勝ち鬨を上げよ!」
その直後、美稷近郊に絶叫とも言っていいくらいの雄叫びが木霊する。それは正に、勝利を祝う歓喜の迸りであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
併せてよろしくお願いします。
ご一読いただき、ありがとうございました。




