第三十一話~美稷攻防戦 一~
第三十一話~美稷攻防戦 一~
中平五年(百八十八年)
大義名分と成り得る於夫羅と彼に付き従った去卑と呼厨泉を確保した劉逞は、すぐに動き始めた。そもそもの話なのだが、使匈奴中郎将だが別に護匈奴中郎将ともいうのである。その名が示す通り、役目の中に単于の護衛がある。その役目を行使する上で、於夫羅という一度は単于に推戴された人物が手元にいるという事実は大きかった。
それでなくても匈奴は漢に服属しているので、新たに単于となる為には漢からの承認を受ける必要がある。しかし、現状において匈奴は、勝手に擁立した者を単于としている。これは、漢として許せるものではなかった。
その一方で於夫羅はと言うと、実は彼もまだ漢に認められていない存在である。つまり匈奴としては兎も角、漢という国からしてみれば正式に単于として承認したわけではないのだ。しかし彼の匈奴の長である単于への推戴は、正式な手続きに則り行われている。ゆえに於夫羅は、現状で唯一の単于候補と言える存在なのだ。その上、於夫羅は匈奴の中で反旗を翻したといっていい者たちから刺客までも差し向けられている。使匈奴中郎将を拝命ししている劉逞としても、これは許されるものではない。その上、服属した漢に反旗を翻した匈奴は、劉逞が太守を務めている西河郡にまで侵攻してきている。要は使匈奴中郎将としても、そして西河郡太守として看過できる筈もないのであった。
「恐れ多くも漢へ、否! 皇帝陛下に対して反旗を翻した者どもを討つ! 各々方、大いに奮起せよ!!」
『おおっ!』
劉逞による出陣前の発破を受けて、彼の軍勢は鬨の声を上げたのであった。
しかして軍を動かした匈奴であるが、彼らの足並みが違うことなく揃っていたのかというとそうでもなかった。先代の単于となる羌渠を討ったとはいうものの、匈奴の全てがその行動に対して賛同したわけではないからである。匈奴は単于を輩出する中心的な一族を頂点としており、その下は主に左部と右部に分かれている。その二つに分かれたうちで右部に所属する有力な一族として須卜氏がある。その須卜氏が、今回羌渠を討ったというわけであった。
しかしながら、何ゆえに疎まれていたとはいえ彼の者たちが単于を討つまでに至ったのか。それは、先に述べた匈奴の国としての内情を無視した派兵にある。しかしそれ以上に、待遇の差が存在していたからであった。
今回の政変だが、前述したように匈奴の中でも右部と呼ばれる者たちによって行われている。そして生前の羌渠は、彼は右部の者より左部の者をより重用していた節がある。その結果、羌渠が意図していたのかは分からないが、現実として左部と右部の間に待遇の格差が生じてしまったのだ。
ことさら言うまでもないが、匈奴は決して豊かであるとは言えない。しかしそれであるにも関わらず羌渠は、国内の事情など汲むこともせずに漢からの要請に対してほぼ無条件に答えていたのだ。このことがよい判断であったのか、それとも悪い判断であったのかを断じることなどできない。しかしここで問題となったのは、先に述べた待遇の差が左部と右部で表れてしまっていたことにあった。
そのことを証明するかのように羌渠は、漢から行われた援軍要請を答える際に左部に対しては軽くそして右部に対しては足りなくなった分を補うように重い負担を掛けている。そのような理不尽とも取れる扱いを受ければ、右部の者たちに不満が溜まるのは必定だった。
漢からの要請に応える形で行われた援軍の派遣という実質的に被る負担の上に、左部の者への優遇と右部の者に対する重負担という待遇の格差が如実に表れたことで右部の将来に対しての悲観も重なっていく。そしてそれが積もりに積もってついには爆発し、単于を討ち取るという事態へと繋がっていったのだ。ある意味で羌渠は、自身の命をもって自身が生み出していた匈奴内の問題に対する責任を償ったという形であった。
さて今回の匈奴による西河郡への侵攻だが、新たに単于を擁立した右部の有力一族となる須卜氏が中心となっている。ならば左部は関係ないとばかりに動きを見せていないのかと言われると、必ずしもそうではなかった。確かに左部に所属する者たちが、表立って動くという事態にはなっていない。だがそれでも彼らは、一応でも動いていたのである。その動きというのは、兵力の捻出などといった積極的なものではない。軍を動かす上で必要となる物資の調達などという兵の拠出に比べれば消極的なものや、侵攻へ加担せず中立というものもある。だが少なくとも、今回の侵攻を原因とした明確な内部対立がおきているわけではなかった。
これもまた、羌渠の討伐から今回の侵攻までという一連の動きが右部の有力氏族が中心となっていたからである。左部としても、現状では匈奴にて内訌までは引き起こしたくはない。そこで、前述のような消極的な動きに留めていたのだ。つまり今回の西河郡侵攻、引いては漢への反旗は、新たに単于を擁立した須卜氏などが所属する右部による左部に対する主導権争いという側面が大きいのである。実際に力を見せつけることで、完全に主導権を握るという目的がそこには見え隠れしていた。何より漢へ反旗を翻す以上、右部だけでは対抗することができるのか言われれば不安でしかない。やはり、匈奴全体でことに当たらねば勝てるとは流石に思えないのである。幾ら黄巾の乱以降、漢の各地で反乱が著しいとはいえそれでも漢は漢である。匈奴須卜氏からすれば、畏怖させるだけの存在感はまだあるのだ。もっとも、漢という国の内情が、それほどだとは言い切れないのも悲しい事実はある。しかし、漢の辺境のさらに外となる匈奴ではそこまでの内情は把握できていなかった。
そのような匈奴における主導権争いを証明するかのように、今回の西河郡への侵攻を行った軍勢を率いているのは重要人物であった。その人物とは、匈奴にて於夫羅の代わりに単于となった者である。何ゆえにそこまでの人物が出てきているのかといえば、相手が相手だからである。使匈奴中郎将であり、そして黄巾の乱勃発以降、戦で幾つもの戦功を上げている劉逞を討つ。自身の単于としての地位を確立するには、十分であった。
さて侵攻を行った匈奴の軍勢の目的地は、当然ながら劉逞が駐屯している美稷に他ならない。しかし、そのようなことを劉逞が黙って許す気などなかった。彼は匈奴の軍勢が美稷へ到達する前に、先んじて出陣したのである。こうして劉逞が出陣したという報告を聞いた単于率いる匈奴の軍勢は、すぐさま進軍先を変えていた。どのみち、劉逞を討つのは大きな目的の一つである。寧ろちょうどいいとして、軍勢の矛先を出陣した劉逞の軍勢へと変えたというわけであった。
匈奴より一足早く戦場となる地へ到達していた劉逞はというと、敵を迎え撃つべく布陣を開始していた。しかしこれも、実は策略の一端でしかない。それというのもこの出陣自体、策の一環なのだ。この地で匈奴を迎え撃つ所存の劉逞であるが、真の目的は誘因にある。敵軍となる匈奴を美稷までおびき寄せること、これに尽きていたのだ。
何ゆえにこのような手間を掛けているのかと言うと、それは匈奴を散り散りにさせない為であった。戦って勝つのはいいが、そののちに匈奴が散らばってしまうのが厄介なのだ。騎馬民族である彼らを西河郡内、いや并州内にある程度の戦力を保ったまま散らしてしまうと、補足して撃滅するのが大変だからである。そこで侵攻してきた匈奴を美稷へと誘引して、一気に漸減するという策であった。
果たして策の内容だが、奇襲による挟撃を目的としている。その為、使匈奴中郎将である劉逞自身が囮となるのだ。まずは一戦し、そののちにさも負けたかような体で撤退して劉逞が軍勢と共に美稷へ籠る。そうすることで、攻め寄せてくる匈奴の主力を引き付けるのだ。その一方で、劉備を主将とした別動隊を組織しておく。その彼らを事前に美稷の外に配置し、伏兵として待機させておくというものであった。
やがて引いた劉逞を追って美稷へと攻撃を仕掛けた匈奴に対し、伏兵となっていた劉備率いる別動隊が劉逞からの合図を受けて匈奴の本陣を襲撃する。これが、戦術の骨子となる。この策を盧植ら軍師たちから提案された時、劉逞は思わず問い掛けてしまっていた。
大丈夫なのか。問題はないのかと。
すると盧植は、力強く頷いてから一言答えたのであった。
「常剛様。問題ありません」
「……わかった。子幹、いや貴公らを信じよう。玄徳!」
「はっ」
「そなたは、荀攸と田豊と共に伏兵となれ。また我が家臣から太史慈と朱霊、並びに白波衆を出す」
「承知」
「うむ……では、出陣するぞ!」
『おうっ!!』
美稷から出陣した軍勢は、暫くしたのちに二つに分かれる。劉逞率いる本隊から静かに離れた劉備率いる別動隊は、事前に取り決めしていた場所にて潜むことで伏兵となる。とはいえ、お互いに連絡を欠かすことはしない。何か想定外の事態が起きて、最悪同士討ちとなることを避ける為である。そこで常に本隊と別動隊との間で、連絡を絶やさないこととしていたのであった。
劉逞の出陣という報を受けて軍勢の矛先を美稷から変更した匈奴は、やがて進軍する先に劉逞の布陣を認める。しかしその布陣は、匈奴の目から見ても中々にしっかりとしていた。流石は、幾度も軍功を上げた劉逞の構築した布陣であると匈奴に思わせていたのである。だが、それも当然であった。
幾ら策で負けを演出するつもりであるとはいっても、すぐに相手へ看過されてしまうようではお話にならないからである。敵にはあくまで、雌雄を決するべく出陣してきたと思わせなければならないのである。その意味では、その役目を果たしたと言えるだろう。だからと言って、敵の布陣を見て匈奴が臆するのかと言われればそのようなことはない。彼らは寧ろ、劉逞が出陣してきたことで手間が省けたとすら思っていたのだ。
明けて翌日、匈奴は劉逞へ向けて襲撃を仕掛けたのである。しかし、布陣を見て事前に予測した通り、手強いことは否めなかった。事実として、そう簡単に打ち破れるような雰囲気を全く感じられないのである。だからといって、劉逞へ全く付け込む隙が無いとは思えなかった。それは、数度襲撃を掛けてみて分かったことである。ところどころ、反撃の弱い個所が散見されたのだ。そこで匈奴は、あえてその反撃が弱いと感じた場所を避けて攻勢を仕掛けてみたのである。但しそれは、匈奴が仕掛けた罠であり、敵である劉逞の目を匈奴が弱点と感じた個所よりそらすことを目的としていた。その隙に軍勢を分けて、数か所見付けた敵の弱点と呼べる場所を急襲する。これにより、敵勢を撃破することを目論んだというわけであった。
しかしながら、この匈奴の画策した目論見は劉逞側に見破られていた。そもそもからして劉逞が率いている軍勢は、敵である匈奴へ弱点があると思わせることを目的としている。そんな劉逞たちから匈奴の動きを見れば、こちらの思惑に敵が嵌ったことは容易に想像できたのだ。この匈奴の動きから頃合いだと判断した劉逞は、慌てたように退却の命を出す。そして一見すると無様に、しかしてその実、巧みに敵である匈奴を引きつけながら少しずつ美稷へ向けて後退を開始したのであった。
前述したようにこれは策であり、元から予定されている退却である。それゆえに、味方の統制が乱れるなどといったことは生じていない。軍勢の後退を見て追撃に入った匈奴をあしらいつつ、偶には逆に多少なりとも損害を与えながらも美稷へと入ると即座に門を閉じて籠城したのだ。そしてこの劉逞の動きは、別動隊を任されている劉備に対しても逐次齎されていたのである。その報告からいよいよ策が佳境へと入ったと荀攸と田豊から告げられた劉備は、すぐにでも動きたいというはやる気持ちを抑えつつも劉逞からの合図をじっと待っていたのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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