第二十四話~冀州鎮定~
第二十四話~冀州鎮定~
中平四年(百八十七年)
平原郡から反乱勢力を駆逐した劉逞だが、いつまでも平原郡に留まるというわけにもいかない。彼らの目的は、漢に対して反乱を起こした張純や張挙を討つことだからである。いささか心苦しくもあるが、平原郡のことは郡太守となる常林に任せるしかなかった。厭次にて常林と別れた劉逞は、一旦東進して楽陵へと入る。そこで一日留まったあと、北上を開始する。やがて冀州と青州の州境を越えた劉逞は、ついに勃海郡へと進撃したのであった。
その一方で河間国へと進撃した孟益だが、彼も無事に反乱を起こした勢力を駆逐していたのである。劉逞からするといささか遅れてはいたが、それでもついに勃海郡へ向けて進撃したのだ。この状況に際し、冀州へと進軍した蘇僕延は援軍を要請している。しかし、張純と張挙に援軍を送るだけの余裕はなかった。それというのも中山郡から、圧力を受け続けているからである。この状況で大規模な援軍を送ろうものなら、何が起きるか分からないのだ。
もっとも、これは勘繰り過ぎである。中山郡に展開している軍勢に、涿郡を越えて広陽郡にある薊まですぐに進軍する気が今はないからである。しかしそのようなことなど、張純や張挙に分かる筈もない。それゆえに、警戒を続けないわけにはいかなかったのだ。しかしながら、丘力居からすればその判断は受け入れられるものではない。何せ救援を要請してきたのは、同族の蘇僕延である。烏桓を率いている大人の一人として、彼を見捨てるわけにはいかないからだ。
どうやら張純や張挙が当てにならないと判断した丘力居は、やはり同族となる烏延と図って数こそ多くはないがどうにか軍を仕立て上げることに成功する。その後、丘力居は勝手に援軍と称して勃海郡へ軍勢を送り込んだのであった。これを聞いた張純と張挙は怒りを覚えるが、既に軍勢を送られてしまったあとではあとの祭りでしかない。それでなくても、烏桓の持つ軍勢を当てにしなければ兵力の維持も難しいのである。いかに不快だと思っていても、我慢をするしかないのであった。
冀州へと入った劉逞は、そのまま勃海郡の南部にある重合へ向けて進軍する。その過程で散発的な攻撃を受けたが、そもそもからして兵力が違う。当たると幸いに劉逞は撃退しながら、ついに重合へと到着した。幸いにして、重合の県令は反乱に加担していない。だからこそ、劉逞もこの地をまず目指したのであった。
こうして重合の郊外に駐屯した劉逞は、趙燕より勃海郡の状況について報告を受ける。その情報から判断するに、情勢は意外にも五分であった。この理由は、討伐軍の存在にある。河間国をついに鎮定した孟益と、平原郡を鎮圧した劉逞によって西と南から攻められる形となっている。そして実際、劉逞は渤海郡へと進軍しており、孟益も遠くないうちに渤海郡へ進軍してくるのは必至であった。
しかも東は海であり、勃海郡の北にしか烏桓の脅威はない。この状況となり、漸く渤海郡の県令などは漢への旗幟をはっきりと示したのである。流石に勃海郡の北にある章武や浮陽は、反乱側に制圧されているのでどうしようもない。だが勃海郡の郡治府がある南皮から以南に関しては、ついに漢の側へと立ったのである。これには劉逞も孟益も喜び、そして安堵していた。
南皮より南の地が味方だと判明した劉逞は、重合を発つと南皮へと進軍する。そして孟益は、河間国の成平から勃海郡へ入っていた。その後、南皮にて待っていた劉逞と合流すると、劉逞らと共に間髪入れずに軍議を行っている。これは下手に時間を空けると、烏桓が増援と共に攻め込んでくるかも知れないからだ。
そして敵となる烏桓だが、二手に分かれて駐屯している。まず大将の蘇僕延だが、章武に陣取っている。そして丘力居が送り込んだ軍勢を率いる烏延は、浮陽に陣取っていた。その為、こちらも軍勢を二つに分けることとなる。総大将の孟益は蘇僕延のいる章武へ、そして劉逞は浮陽へと進軍したのであった。
浮陽へ到着した劉逞率いる軍勢は、すぐに陣の構築に入る。周りを柵で囲み、さらには出入り口となる柵の切れ目には、拒馬を置いたのである。何ゆえにこのような陣を構築しているのかというと、騎馬対策に他ならなかった。烏桓だが、元を辿れば北方の遊牧民族である。漢という国が成立して程なく、匈奴によって滅ぼされた東胡が始まりであるとされている。国が滅んだあとで生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、烏桓山に逃げた者たちが烏桓となったのである。そして、鮮卑山に逃れた者たちが鮮卑になったのであった。
その為であろう、烏桓もまた馬を操るのが巧みである。下手をすれば、劉逞隷下の将兵よりも上手いかも知れない。そのような相手に同じ騎馬で正面から挑めば、損害が大きくなるのは考えるまでもなかった。それに、戦はこの渤海郡で終わりではない。寧ろ、これからが本番であると言えた。
これから先、幽州の薊に陣取る張純や張挙との戦いも控えている状況で、手痛い損害は被りたくない。そこで盧植たち軍師の進言を採用し、このような陣を築いていたのだ。こうして構築した陣に籠り、弓兵や弩兵などを用いて騎馬の突進力を抑える。その隙に、あらかじめ控えさせて伏兵とした於夫羅率いる匈奴兵を使って横撃を加えるのだ。こうして彼らが駆け抜けたあとでもう一度、弓や弩など投射による一撃を加え、ついには烏桓の持つ機動力を奪う。その後は、陣より出て止めを刺すというのが、盧植らが進言した内容であった。
本当ならば、陣を構築する際に堀や土塁まで構築することも進言されたのだが、流石にそこまでは無理だろうと劉逞は考えていた。勿論、そこまでできればより完璧だろうが、流石に敵兵も見流さないだろうとの思いがあったからだ。そのことに関しては、進言した盧植たちも納得している。彼らもあくまでできれば、それぐらいの進言でしかなかったからだ。
そして、実際に劉逞が考えた通りとなる。柵と拒馬を完成させた辺りで、烏延率いる烏桓は軍を押し出してきたのだ。劉逞は内心でやはりと思いつつも連弩などを使用して、射程に入る端から矢継ぎ早に撃たせていく。連射性能で弓に劣るとはいえ、数が揃えば十分な脅威である。次々と撃たれていったこともあり、騎馬の足もいささか鈍ってくる。その時、満を持して伏兵となっていた於夫羅率いる匈奴兵が突撃したのだ。
前面に陣取る劉逞らに気を取られていたこともあって、完全な奇襲である。弓騎兵による一撃を加えつつ接近した彼らは、留まることなく真横から駆け抜けていった。その際に幾らかの損害は出たが、匈奴の軍勢全体からすれば微々たるものでしかない。その彼らが駆け抜けたあとで烏桓に対して今一度攻撃を加えることで、予定通り機動力を奪ったのであった。
「征け! ここを、あ奴らの終焉の地とするのだ!!」
「おおー!」
劉逞の命を受けて、陣から軍勢が出陣する。また、敵兵の中を駆け抜けた匈奴兵も、馬首を返して再度の攻撃を仕掛けていた。前面と側面からの攻撃をまともに食らった烏延は、必死にこらえようとするがそれも叶わない。次々と敵に食い破られていき、ついには後方から逃げ出し始めたのだ。すると、あっという間に烏桓内に状況が伝播する。烏延も必死になって軍勢の統制を図ろうとしたが、遅きに失しており遂には壊走という事態を迎えてしまう。これではもうどうしようがないと判断した烏延は、浮陽には戻らずさらに北へ向けて撤退したのであった。
浮陽を烏延率いる烏桓から取り返した劉逞は、数日程駐屯して将兵を休ませると、浮陽に董昭を残すと逃げた烏桓を追うように北上を開始する。その目的地は、蘇僕延がまだ籠る章武であった。流石は、冀州攻めを任された人物である。彼は孟益を相手に、一歩も引かずにいたのだ。しかし、兵数の差はいかんともしがたいものがある。蘇僕延も孟益の攻勢に押されてしまい、ついには章武へと引くしかなかったのだ。
籠城へと移行した蘇僕延であるが、彼もただ籠っていたわけではない。孟益の軍勢を章武に引きつけつつも騎馬で構成された別動隊を組織して、少数による奇襲を行うことで敵へ出血を強いていく。彼らによって行われる遊撃により、章武への攻めに集中できない孟益の苛立ちは徐々に高まっていった。
さりとて、彼らを無視して章武へ攻め込むなどできない。彼ら別動隊を放っておけば、好きなように損害を被ってしまうからだ。
「ええい、苛つく!」
「お気を沈めください」
「これが、沈められるかっ。あの動き回る輩を何とかできぬのか!!」
「はぁ……」
「ええい!! 忌ま忌ましい!」
孟益は苛立ちをぶつけるように、先ほどまで腰掛けていた椅子を蹴り飛ばしていた。上手く蘇僕延を章武へ押し込んだはいいが、打ち破れないまま時が過ぎていく。だがそこに、孟益にとっては嬉しく蘇僕延にとっては不幸な知らせが舞い込んできた。その知らせとは、浮陽の陥落である。この知らせを使者から聞いた孟益は、喜色を現す。そして浮陽から逃げ延びてきた烏延から聞いた蘇僕延は、驚愕を現すこととなった。
浮陽が落ちたのならば、何れ劉逞らがくるだろうと考えた孟益は、攻めの姿勢から一転して章武を包囲することに留めたのである。そんな敵の変化を感じた蘇僕延と烏延は、眉を寄せ不機嫌を現していた。
それから暫くのち、ついに劉逞率いる軍勢が到着する。孟益だけならばまだしも、劉逞率いる并州と匈奴の兵にも合流されては章武に籠って耐えることは難しい。そこで蘇僕延は、遂にある決断をしたのであった。
「開城と、撤退だと?」
「はい。蘇僕延様と烏延様は、その条件で和睦を致したいと」
「……和睦……のう」
烏桓からの使者から出た話を聞いた孟益だが、この提案を受けるべきか迷っていたのである。ここで冀州から敵勢を追い払えば、次はいよいよ幽州への進軍となる。それだけに、このまま籠城戦を続けて被害を大きくしたくはない。かといって、蘇僕延や烏延を見逃せば張純らに合流されてしまう。そうなれば、敵兵を増やすだけでしかない。正に、二律背反となっていたのだ。
すぐには答えられないとして孟益は、取りあえず話を預かる。それから、合流した劉逞や丁原や於夫羅を交えて軍議を開いた。しかし、丁原と於夫羅も悩むことになる。その理由は、孟益が悩んだこととあまり変わりはなかった。だがそこで、劉逞から提案がされたのである。その提案とは、蘇僕延の提案を受ける代わりに一つ条件を追加するというものであった。
「不参戦?」
「蘇僕延と烏延の章武から撤退条件に、張純と張挙を討ち果たすまでの不参戦を約定させる。さすれば、ここで兵を保ったまま彼らが撤退しても、問題は発生しないだろう」
「しかし、守りますか?」
「守らねば討てばいい、それだけのことだ」
確かに劉逞の言う通り、和睦の約定を守るのならばよし。もし守らないならば、それ相応の報いを味合わせてやればいいだけである。そう判断した孟益は劉逞の提案を受け入れ、その旨を烏桓の使者へと告げたのであった。
程なくして戻った使者より和睦における追加項目を聞き及んだ蘇僕延と烏延は、二人してじっと考えに耽る。暫く考えぬいたのち、孟益からの提案である追加項目をも受け入れる判断をした。
「このままでは、負けるのは必至。そのような結末となるのならば、まだ追加の条件を受け入れて和睦した方がましだ」
「それしか……ないか。分かった、受け入れよう」
これにより、孟益率いる漢の軍勢と蘇僕延と烏延率いる烏桓の軍勢との間による和睦が成立。蘇僕延と烏延は、城内を祓い清めたあとで静かに章武より撤退したのである。二人はそのまま幽州に戻ったが、以降は約定通り張純と張挙の二人ばかりではなく丘力居などからの要請にも応じなかったのであった。
なお、劉逞から出された提案だが、実は彼の考えではない。では誰の考えであったのかというと、程昱である。軍議が始まる前に和睦の話とその条件を聞いた彼が、もし孟益が和睦を受け入れることに迷っていたならば先の条件を提案するべきだとして進言してきた策であったのだ。
またこの和睦だが、思わぬ影響が出ることとなる。それは、遠く中山郡で起きた。無事に冀州と青州で起きた争乱が鎮定されたことを知ると、今まで牽制に徹していた郭典が動いたのである。今ならば好機ではないかと考え、中山郡から涿郡へと兵を進めたのだ。
今まで、散々牽制に終始していた郭典が動いたことで、張純と張挙も慌ててしまう。彼らにできた精一杯の対策は、薊を守りながら広陽郡と涿郡の境にまで兵を派遣することだけであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
併せてよろしくお願いします。
ご一読いただき、ありがとうございました。




