第二十二話~張純・張挙の乱~
第二十二話~張純・張挙の乱~
中平四年(百八十七年)
幽州への侵攻後、并州にまで侵攻してきた鮮卑との戦を終えてから二月も経った頃、劉逞にとって嬉しい知らせが届く。何と、妻の崔儷が妊娠したことが分かったのだ。妻のからの知らせに、劉逞は大いに喜びを現す。彼はすぐに父親と母親、それと義父に連絡をしていた。その知らせを聞いて、劉嵩夫婦は喜びに溢れる。彼らにしてみれば、初孫に当たるのだ。何せ常山王家の直系は劉逞しかいないので、彼に何かあれば断絶してしまう。しかし子ができれば、そのような心配は大分緩和される。無論、まだまだ油断はできないが、それでも劉逞の両親が喜色を現すに十分であった。
一方で崔儷の祖父となる甘陵王の劉忠にとっても、孫婿の劉逞に長子が誕生したことは喜ばしい事態なのだ。何せ劉逞の次男は、甘陵王の後継となる。甘陵王家存続の為にも、第一子は無事に生まれて欲しいからであった。
「両親も義祖父も、大喜びらしい」
「当然でしょうね」
「そなたも気を付けるのだぞ」
「はい」
劉逞の心遣いに、崔儷は微笑みながら静かに頷いたのであった。
崔儷の妊娠という果報が劉逞に齎された翌月、妙な情報が劉逞の元に入ってくる。その情報元となるのは、なぜか幽州であった。ことの発端は、遼西郡にある。遼西郡に拠点を持つ烏桓を率いる大人の一人である丘力居が、どういうわけか食料を買い占めているという。しかし幽州周辺では、先の鮮卑侵攻以来戦らしい戦など発生していない。それであるにも関わらず、丘力居は食料を買い占めている。どうにも行動の意図が見えない劉逞は、首を傾げていた。そこで彼は、筆頭軍師の盧植へ丘力居が取っている行動の意味を問い掛ける。しかし、返ってきた答えは彼の想定していないものであった。一つは、鮮卑への侵攻である。しかし、こちらに関しては有り得ないと盧植は断言していた。しかしもう一つに関しては、看過できる物ではい。それというのも、丘力居が反旗を翻すというものであったからだ。
「……子幹、そなたはどうしてそう思った?」
「鮮卑を攻めるなど、烏桓を率いる大人の一人でしかない丘力居にできるとは思えません。そうなれば、おのずと答えが決まってきます」
「なるほど、な?」
しかし劉逞は、子幹の言葉に首を傾げた。
理由としては納得できるものだが、それだけで丘力居が反旗を翻すとは思えないからだ。そしてその考えだが、完全に正鵠を得ていた。実は丘力居の陰にも、人物がいたのである。その人物は張純と言い、黄巾の乱が起きた少し前までは中山郡太守を勤めていた人物であった。その張純だが、ある人物に対して嫉妬心を抱いていたのである。その相手というのが、何と公孫瓚であった。しかし何ゆえに、公孫瓚へ嫉妬心を抱いているのか。その原因は、涼州にあった。
話は、涼州で起きた反乱騒動の勃発時にまで遡ることになる。この反乱鎮圧の為に張温が車騎将軍として涼州へ派遣されたわけだが、その際に張純は参画することを志願していた。しかし張温は、孫堅や陶謙を指名したが張純は指名しなかったのである。この為、張純が活躍する場はなくなってしまったのだ。
こののち張温が洛陽へ召喚されたことで、代わりに皇甫嵩が涼州討伐の責任者となったことは前述している。この時にも張純は、涼州へ赴く軍の将の一人として志願している。だがその時点で、何と公孫瓚も同様に名乗りを上げていたのだ。そして皇甫嵩が選んだのは、張純ではなく公孫瓚である。とはいえ、別に皇甫嵩と張純の間に確執があるというわけではない。ならばなぜ皇甫嵩が公孫瓚を選んだのかと言うと、その理由は単純である。それは皇甫嵩が張純をよく知らず、公孫瓚を知っていたからだった。
しかし、張温に続いて皇甫嵩にも選ばれなかったことは、彼の誇りを大きく傷つけてしまったのである。だがこれで済めば、張純も漢に対して反旗を翻すまでは考えなかったであろう。しかし、自分の代わりに選ばれた公孫瓚が涼州で手柄を立てたことで話がややこしくなる。公孫瓚が涼州で活躍していることを聞き及んだ張純は、言いようのない腹立たしさに苛まれるようになったのだ。
ことここに至り張純は、公孫瓚への嫉妬心や自身が二度も選ばれなかったことに対する妬みも相まって、ついには漢への反旗を翻す決断をしたのだ。しかし、自身の力だけでは成功が覚束ないことぐらいは嫉妬心に狂った張純でも理解できる。そこで彼は、烏桓の実力者の一人であった丘力居を誘うことにしたのである。それは、丘力居が勢力を広げようという野心を抱いていることを利用してのことであった。
何せ烏桓の勢力は、幽州内に点在している。彼らの力を手にすることができれば、勝機があると判断したのだ。そして丘力居としても渡りに船の提案だったことで、両者は手を携えたのであった。
こうして烏桓という勢力を手に入れた張純が丘力居と共に手を付けたこと、それが食料の買い付けであった。反旗を翻すにしても、食料がなくては話にもならない。腹が減っては、戦などできないのだ。つまり張純と丘力居は、軍を維持する為の輜重を確保する目的で食料の買い占めを行ったというわけである。曲がりなりにも国へ反旗を翻そうという勢力の調達であり、その量たるやかなりのものとなるので隠しきれるものでもない。劉逞が知ったのも、正にこの時であった。
「常剛様、一まずは朝廷へ報告しましょう。下手に隠さず、ありのままを」
「ありのままか……分かった、子幹の助言通りにしよう」
その後、劉逞は朝廷へと報告した。だがその報告は、一足遅かったのである。これは偶然なのだが、劉逞の知らせが朝廷へ届くころとほぼ同時に張純は、同郷出身の張挙と丘力居と共に、兵を上げてしまったからであった。兵を挙げたあとで張純は弥天将軍・安定王を自称し、そして張挙は兵を挙げると天子を自称する。そして彼らは、兵を挙げた勢いそのままに幽州の治府がある薊を落としたのだ。しかし、彼らの勢いはそこで留まらない。何と、護烏桓校尉の役職にある公綦稠や右北平郡太守の劉政、さらには遼東郡太守の楊終らを奇襲してこれらを殺害したのであった。
するとこの動きに、幽州各地に拠点を持つ烏桓が同調する。上谷郡烏桓の難楼や遼東属国烏桓の蘇僕延、右北平郡烏桓の烏延が賛同したことで戦乱の嵐はついに幽州を席巻したのであった。
幽州で起きた反乱の第一報を受けた劉逞は、その報を盧植へと渡しながらこの反乱が幽州だけで収まるかについて尋ねる。なぜそのようなことを盧植へ聞いたのかというと、反乱騒ぎがこのまま広がりを見せないとは思えなかったからであった。
「子幹。この反乱騒ぎだが、幽州で収まると思うか?」
「……常剛様。張純らは冀州を攻めるかもしれません。いえ、攻めるでしょう」
「くそっ! やはりか!!」
盧植の口から出た最悪の言葉に、劉逞は悪態を吐く。何せ冀州には、故郷である常山国があるのだ。その思いからであろう、次の瞬間には盧植へと詰め寄っていたのである。しかし盧植は、慌てず騒がず自身の考えを伝えていた。
今さらながらに言うまでもないことだが、冀州はとても豊かな土地である。反乱を起こした張純らが地盤をより強固にする為、何より食料の確保をより確実にする為に豊かな冀州を手に入れようとするは必定だった。それは、酷くもっともな話である。だからといって、劉逞としては座視できるものではない。前述したように、冀州は故郷となる常山国があるからだ。とは言うものの、使匈奴中郎将であり西河郡太守でもある劉逞が勝手に并州から動くことは許されない。その彼ができるとすれば、并州入りする際に率いていた将兵の一部を常山国へ戻すぐらいしかなかったのだ。
ゆえに劉逞は、自身の副将を務めている韓当に兵を預けて常山国へと向かわせることにした。また補佐の将として、関羽と朱霊の二人も韓当へ同行させたのだ。やがて、この盧植の言葉が実現してしまったのである。
瞬く間に幽州内での勢力を広げた張純は、烏桓の大人の一人である蘇僕延に対して冀州へ攻め込むよう命じたのである。すると蘇僕延は、命に従って間もなく冀州に攻め込んだ。冀州へ侵攻すると、東部を荒らした蘇僕延率いる烏桓であったが、その一方で冀州西部への侵攻は上手くいかずに頓挫してしまう。その理由は、既に劉逞より知らせを受けていた常山王の劉嵩や中山郡太守の郭典、老齢を理由に隠居した張牛角より平難中郎将の地位に就任した張白兎や甘陵国の劉忠。それから劉逞が離れてから鉅鹿郡の太守となった王観が、連合して迎え撃ったからである。流石にこの連合を前にしては、蘇僕延も迂闊には攻められなかったのだ。
「子幹! そなたが危惧した通りになったぞ」
「やはり、冀州を攻めましたか」
「ああ。だが事前に知らせていたおかげか、蘇僕延は冀州西部に手出しができなかったようだ。そのせいでと言うわけではないのだろうが、冀州東部の渤海郡などは被害が大きいようだ」
事実、冀州東部では烏桓から受けた被害は大きい。しかもこの争乱に乗じて、黄巾賊の残党までもが蜂起したことでことさらに規模が大きくなる。既に反乱の影響は幽州や冀州東部に留まらず、青州にまで平がってしまったのだ。
ことここに至って、ついに朝廷は鎮圧に動き出した。中郎将の孟益を討伐の大将に任じて、冀州へ軍の派遣を決めたのである。さらには劉逞や丁原、そして匈奴へも兵の派遣を命じたのだった。
援軍の要請を受けた匈奴単于の羌渠は、劉逞と繋がりのある於夫羅を派遣することに決める。父親からの命を受けた於夫羅は、兵を調えると并州へと向かったのだ。彼は西河郡の治府がある離石にて、劉逞との合流を果たす。こうして匈奴の軍勢を加えたあとで西河郡を出陣すると、太原郡の晋楊にて丁原と合流。その後は、劉逞の故郷である常山国へと向かったのである。しかし、并州からの援軍である劉逞と丁原がどうして常山国へ向かったのか、その理由は総大将を拝命した孟益が常山国にいるからである。朝廷より張純討伐の命を受けた孟益は、冀州治府がある高邑を一まずの本陣としたのだ。
やがて常山国に辿り着いた劉逞は、元氏へと入る。そこで久方ぶりに、両親との会合を果たしていた。明けて翌日、劉逞は以前に援軍として常山国内へ派遣した韓当と関羽と朱霊の三将を加えてから高邑へと向かう。程なくして現地へ到着した劉逞は、率いてきた軍勢を高邑の郊外へ駐屯させていると、幾人かの将と護衛の兵を率いて孟益の元へと向かったのであった。無論、向かったのは劉逞たちばかりではない。共に行軍していた丁原や於夫羅も、同様であった。
孟益がいる本陣に到着すると、間もなく孟益との面会を果たす。しかしながらこの中で、孟益を直接知る者は丁原だけなのだ。その彼とて、顔と名前は知っている程度でしかない。朝廷にあまり関与していない劉逞は無論のこと、匈奴の右賢王たる於夫羅は知る筈もなかった。それゆえ、この場で口を開いたのは一応でも面識がある丁原である。もっともそこには、彼が最年長であるという理由も存在していた。
「劉常剛様、丁建陽、於夫羅。朝廷からの命により、参上した」
「各々方。よく、参られました」
丁原から到着の知らせを受けて孟益は、笑みを浮かべながら彼らを出迎えていた。
その後、孟益は到着した劉逞たちも加えてすぐにでも軍議へと入っている。冀州に侵攻していきた蘇僕延率いる烏桓や、この反乱に乗じて蜂起した黄巾賊の残党を討たなければならないからだ。幸い、冀州西部が無事なことで幽州へ圧力が掛けることが可能である。その理由もあって、張純は大量の軍を冀州へ送ることができなかったのだ。
そこで孟益は、冀州西部を防衛していた常山国と中山郡と甘陵国と鉅鹿郡より抽出した軍勢を中山郡に集めることで圧力を掛けることにする。その軍勢を率いるのは、中山郡太守の郭典であった。先の黄巾賊との戦いという経験を買われてのことであったが、しかし彼らの役目はあくまで反旗を翻した張純らに圧力を掛けるだけである。機を見れば動くかもしれないが、無理をしてまで幽州へ攻め込ませるつもりは彼らになかった。
その一方で孟益が大将を勤めている討伐軍であるが、こちらは二つに分かれることとなる。一つは総大将の孟益が率いる、いわば本隊である。孟益は冀州を開放する為に、まずは河間国へと進軍したのだ。そして劉逞は、もう一つの部隊を率いることとなる。彼らは甘陵国を経由して、青州の平原郡へ進軍したのであった。
因みに、先の黄巾の乱のときの実績というならば平難中郎将に任命されている張白兎も該当するにも関わらず彼が選ばれなかった理由は、元は山賊であるという事実が大きい。単独で行動するならばまだしも、複数の郡から抽出されたいわば連合軍を率いる者として、流石に任じられなかったのである。そのことに張白兎としても思うところがないではないが、今は漢の臣であるので表面上は粛々と受け入れていたのであった。
平原郡にて暴れている者たちは、殆どが元黄巾賊である。彼らは、張純のように事前に計画した上で蜂起したわけではない。あくまで、張純が起こした反乱に乗じて兵を挙げたに過ぎず、およそ連携というものが取れていなかった。その為か、彼らは主に三つの勢力に分かれており、それぞれが平原郡北部にある厭次と平原郡の治府が存在する平原のさらに南にある高唐、それと平原郡南部にある祝阿を制圧している。その後は、制圧した地を拠点に周辺を荒らしていたのだ。
その黄巾等残党が暴れる平原郡内へ侵攻する為に甘陵国へと入った劉逞は、甘陵国東部の鄃へと入る。そこで二日ほど将兵を休ませてから、平原郡へと向かったのだ。侵攻の目標は、平原郡の郡治府のある平原となる。まずはここで郡太守の常林と合流し、そのあとに高唐を落として黄巾賊残党を南北で分断するつもりであった。
一方で高唐を拠点としている黄巾賊の残党だが、兵数だけ見れば劉逞たちより若干だが上である。数の上では負けていない彼らは、流石に負けはしないだろうと安易に考えてしまう。その結果、正面から攻撃を仕掛けたのであった。この攻撃に対して劉逞は中央を、丁原は左翼を於夫羅は右翼を担当して迎撃する。黄巾賊残党の兵数が多かっただけに当初は優勢であったが、それも長くは続かない。最初の破綻は、左翼から発生していた。
黄巾賊残党を崩したのは、丁原である。彼は家臣のうちでもっとも武を信頼する呂布を先鋒として突き進み、続いて張遼と高順が呂布によって開かれた敵の軍勢を突き崩した。丁原が誇る三将の働きによって勢いを失った黄巾賊に対して、中央を担当する劉逞から指示で彼の軍勢が突撃を行う。その様子を見て間もなく、ついに於夫羅も攻勢に出たのだ。彼らは騎馬にて構成された匈奴の兵であり、その勢いたるや相当の物である。それでなくても当初の勢いを失くしていた黄巾賊残党に、この攻撃を受け止めきるだけの力はない。しかも、間髪入れずに劉逞が攻撃を仕掛けてきたのだ。しかも先頭にいるのは、劉逞の従事である劉備の家臣となる張飛、それと劉逞の家臣である関羽であった。
二人とも、それぞれが仕える将の家臣の中でも一二を争うぐらいの力量を持つ武人である。その二人が、当たるを幸いとばかりに敵を駆逐しているのだ。左翼と右翼に続いて軍の中央でも劉逞からの圧力に抗しきれなくなり、黄巾賊残党は完全に瓦解してしまう。こうなってしまえば、どうにもならない。次々と黄巾賊残党は討たれていくこととなり、ついに彼らは恐慌に駆られて高唐へと逃げ込んでいったのだ。しかし、劉逞も丁原も於夫羅もそんな敵勢を見逃すほど愚かではない。彼らはすぐに、追撃へと入っていった。
すると黄巾賊残党は、急いで門を閉めようとする。無論、逃げ遅れた味方は見捨てである。しかしながら、その判断は遅いと言わざるを得なかった。追撃に移っていた先鋒が、門を締め切る前に侵入を果たしたからしたからである。こうなっては、籠城など無理だとしか言えない。高唐へと逃げなかった一部の黄巾賊を除き、高唐を拠点としていた黄巾賊残党の悉くが討ち取られたのであった。
連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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ご一読いただき、ありがとうございました。




