第百四十五話~益州の戦乱 一~
第百四十五話~益州の戦乱 一~
建安四年(百九十九年)
劉逞による青州鎮圧の為の遠征と、ほぼ同時期に起こった袁紹による荊州南部四郡鎮圧への援軍を大義名分とした戦が終わりを迎えてからおよそ一年。既に恩賞などといった諸手続きも終わっており、劉逞らは晩夏の中にいた。最も、だからといって安穏としているわけではない。戦があろうがなかろうが、政務はあり続けるからだ。
「……一息入れるか」
「今、お茶をお持ちします」
「すまぬな」
劉逞のそばでともに政務を行っていた程昱が、気を利かせて茶を持ってこさせる様に指示を出す。すると、凝り固まった体を伸ばすかの様に大きく伸びをする。それから肩などを回していると、その場に侍女が茶を運んでき。程昱が茶を受け取ると劉逞の机に置く。と同時に彼は、毒味でもするかの様に先に茶を飲む。それを見届けた後、劉逞も茶を口にする。そして一口含んだ後、彼は安堵の息を小さく漏らしていた。
「やれやれ。中々に終わらぬものだ」
「致し方ございません」
「まぁ、確かにそうだ」
政務の煩雑さに対して愚痴ともとれる言葉を漏らした劉逞に対して、程昱は一言で切り捨てる。遠慮会釈など全く感じさせないその一言を聞き、劉逞だけでなく蔡邕や廬邑といったこの場にいる者たちからも苦笑を浮かべられてしまう。だが、誰の口からも否定の言葉が出ない辺り、彼らも大なり小なり思っていたことではあった。
ところで、日頃の政務を司っているこの場にいる筈の人物が一人足りていないのは気付いておられるであろうか。しかしてその人物というのは、他でもない劉逞の師でもあり同時に家臣筆頭でもある廬植であった。
実は彼だが、年が明けると同時に隠居を申し出ているのである。既に家督に関しては、長男である前述した廬邑が継いでいるので何ら問題とはならない。ゆえに彼としては、すぐに了承されるだろうと思っていた。しかし廬植は、漢の丞相である劉逞の筆頭家臣であり、また彼の師でもある。しかも彼自身、海内の学者・大儒として名高く人望が厚かったのだ。その為、劉逞を始め多くの者が慰留を求めたのである。だが彼は、頑として聞き入れなかった。この師の様子に、彼のことをよく知っている劉逞は、もはや梃子でも動くまいとして、ついには留意を諦めたのであった。
その上、廬植の隠居に関してはある人物からの意見具申もあったのである。しかして劉逞へ具申した人物が誰かというと、何と華佗であった。ところで彼が何を思って劉逞へ意見を述べたのかというと、廬植の年齢もさることだがそれ以上に自らが行った手術にあった。確かに手術事態は無事に成功しているし、その結果にも華佗も自信を持っている。とはいえ、開腹手術など廬植の負担が大きかったことは否めない。そこに、加齢から来る身体の衰えが加わっている。ゆえにこの辺りで激務である政務から離れ、悠々自適な生活を送ることは決して悪いことではないと医者の立場から意見具申を行ったのだ。こういった経緯も加味され廬植は隠居し、しかして廬植の地位は程昱へと受け継がれることになったというわけである。とは言うものの、程昱の他にも廬植の地位を受け継ぐ候補はいた。それであるにも関わらず、程昱が廬植の地位を受け継いだことには理由がある。それは、劉逞の立ち位置こそが理由であった。
今さら言うまでもないことだが劉逞は丞相であり、位人臣を極めていると言っても過言ではない。しかも彼自身、皇族であり常山王でもあるのだ。その様な人物に対して、時には劉逞に対して厳しい意見も言わねばならない。それどころか、叱りつけねばならない時もあり得るのだ。このような劉逞へ、先に述べた様に意見具申どころか諫言をも行うという重責を全うできる者などかなり少数であることは言うまでもない。そして程昱は、その数少ないことができる人物なのである。それゆえに彼が廬植の後継となることは、寧ろ必然でもあった。そして劉逞も、程昱であればと言う思いはある。何はともあれこうして廬植の隠居は無事に行われ、彼の立ち位置は程昱へと受け継がれたのであった。
「さて。と。そろそろ戻るか」
「はっ」
茶を二杯ほど飲んだ後、劉逞は政務に戻る。当然ながら、程昱たちも政務を再開していた。それから一時もした頃だろうか、劉逞の元にある人物が来訪してくる。その人物だが、彼の家臣で密偵などの情報方を纏める趙燕であった。仕え始めた当初は兎も角、現在の彼はあまり表情を表に出すことはない。しかしその彼をしては珍しく、苦々しい表情を浮かべていた。最近ではとみに見なくなった表情を珍しく顔に浮かべていることに、劉逞も表情を変える。彼らは今までは忙しく思いつつも、比較的穏やかな表情を彼は浮かべていたのだ。その表情が引き締まったものになったわけだが、それは上場だけではない。彼らの主である劉逞の発する声もまた、威厳がある者へと変わっていた。
「いかがした」
「これを」
劉逞の前に跪いた趙燕は、書状を取り出す。それは纏められてはいるが、報告書であった。但し、通常の報告書であれば、わざわざ趙燕が届ける必要など無い。いつもの通り、書類として提出すればすむ話である。だが今回は、わざわざ趙燕が自ら足を運んで報告している。それだけ重要な話であり、だからこそ劉逞の雰囲気も変わったのだ。決して、趙燕が苦々しい表情を浮かべていただけではないのである。そして雰囲気が変わったのは、何も劉逞だけではない。程昱たちの雰囲気もまた、変わっていたのだ。
「……そうか……ついにだな」
「はっ」
拱手したまま未だに跪いている趙燕に対し、書状を最後まで目を通した劉逞が呟く。その言葉を耳にした趙燕は、短く一言だけ返答した。そんな二人のやりとりから、並々ならぬ事態が発生したのだと察する。その直後、図らずもこの場にいる者たちの代表する形で程昱劉逞へと話しかけた。
「丞相。いかがなされましたか」
「仲徳よ。これを見よ」
そう言って差し出した書状を劉逞から受け取ると、程昱も目を通していく。そして表情を変えることなく最後まで目を通した後、蔡邕へ書状を渡す。受け取った蔡邕は、書状を読み進めるうちに驚きの表情を浮かべていた。そして彼は、思わず趙燕へ確認の為に再度尋ねてしまう。しかし、漢において皇帝に続いての地位を持つ劉逞に対して、趙燕が冗談の報告などするはずがない。それであるにも関わらず蔡邕が尋ねてしまうくらいの報告であった。
ところで、蔡邕が驚きを表した報告の内容についてだが、実は一つではない。何と、書状には複数のできごとが記されていたのだ。まず一つ目だが、益州で起きた戦についてである。しかも一つではなく、益州の南北でほぼ同時に起こっていたのだ。まず一つ目の益州の南にて起きた戦だが、これは漢に対する反乱であった。元々、この辺りの地域は漢に対して反抗的な気運を持っていたので、あり得ると言えばあり得る事態である。ゆえに益州の刺史に任命されている劉瑁は漢の為、何より自身の為に反乱を鎮圧する兵を差し向けようとした。しかしながら、兵の派兵自体ができなくなってしまう。その理由こそが、益州北部で起きた事案、いわゆる反乱であった。こちらの反乱だが、漢に対してではなく劉瑁に対してである。形式上で言えば、荊州南部で起きていた反乱に内容が近い。しかし実質は、ただの反乱でしかなかった。この益州北部で起きた反乱の首謀者は趙韙と言う人物で、今は亡き劉焉の頃より彼の家に仕えていた重臣である。彼は劉焉亡き後の劉瑁による家督継承時にも働きを見せており、その為か劉瑁が益州刺史に任命された頃は、信頼が厚い人物であった。しかし思いのほか劉瑁に指導力が無かったこともあって、益州の軍勢の一端を担っていた兵たちからの信頼も薄かったのである。その為、彼らが原因による治安悪化をまねていてしまうこととなった。そのことに憂いた趙韙は、度々諫言をしていたが、寧ろ疎まれてしまう。ついに劉瑁は、自分から遠ざける意味もあって彼に益州の治安回復と綱紀粛正を命じたのだ。
劉瑁のことを思い諫言をしていた趙韙にとり、この自らを遠ざけるという命は屈辱でしかない。ついに不満を爆発させた彼は、治安悪化が原因となって不満を募らせていた民衆や兵を扇動し、劉瑁に対して公然と反旗を翻したのだ。民の不満や先に述べた益州の軍の一端を担っている治安悪化の軍勢の一部すらも旗下に取り込んだ軍勢の勢いはすさまじく、益州の州治所に迫るぐらいであったという。これでは劉瑁が、益州南部に軍勢を送れる筈もない。まずは、趙韙を討ち取らねばどうしようもならないからであった。
「そして、五斗米道か」
これまた益州での話となるのだが、益州を構成する郡の一つに漢中郡がある。そしてこの漢中郡には、ある宗教が中枢拠点を置いていた。しかしてその宗教こそが、今劉逞が名を上げた五斗米道である。元は、蜀郡の成都にある鶴鳴山とも鵠鳴山とも呼ばれる地にて起きたとされる道教の宗教組織である。後に州牧として益州に赴任した劉焉と彼らは通じると、彼の命にて漢中郡の郡太守であった蘇固を討ち滅ぼしたのだ。しかし彼らの扱いも、劉焉の後を継いだ劉瑁の時代には疎遠となってしまい、ついには五斗米道を率いている張魯は袂を分かって独自に活動を始めたのだ。その張魯であるが、実は漢に対して恭順を申し出ていたのである。きっかけとなったのは、黄巾賊残党の相次いだ討伐である。つまり張魯は、次は我が身ではないのかと恐怖したのだ。別に張魯率いる五斗米道が、圧政を敷いていたわけではない。寧ろ、劉逞らに滅ぼされた黄巾賊残党に比べれば遙かにましだと言ってよかっただろう。しかし漢に従順な宗教組織であるとは思われておらず、一部の高官からは同じ穴の狢だとすら判断されていたのだ。
そして当然ながら、張魯もこのことについては周知している。しかしその周知していたことが、彼の恐怖を増大させたのだ。そこで張魯は密かに使者を送って、漢に対して恭順する旨を記した書状を届けさせたのである。その書状を受け取った劉逞は、すぐに議題に挙げて五斗米道の扱いを議論したのだ。そして出た答えは、恭順は認めるが漢中郡は明け渡せと言うものであった。
そもそもの話として、漢は五斗米道による漢中郡掌握など漢は認めていない。それでも州牧であるが劉焉が黙認していたので、文句は言えなかった。だが、その劉焉も今は亡い。そして、彼の後継となる劉瑁とも彼らは事実上断絶している。もはや漢に五斗米道、いや張魯に対する配慮など必要ないのだ。だからこそ張魯は、漢に対しての恭順を決意したのである。そして彼自身、恭順する以上はいかなる命であっても従う気でいた。ゆえに漢の、と言うか劉逞の出した結論に対しての異論は無かったのだが、張魯とは反対に不満を露わにした人物がいる。その人物とは、張魯のすぐ下の弟である張衛であった。彼は兄が漢に対して事実上の降伏を申し出ていることを知ると、五斗米道を漢に売り渡すのかと激怒する。しかし張魯は、弟の言葉に耳を貸さず取り合わない。それでも張衛は幾度か兄に対して思い留まる様に諫めるが、全く耳を貸さなかったのである。事ここに至り張衛は、ある人物と同盟を結んで張魯に対して兵を挙げたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
https://ncode.syosetu.com/n4583gg/
も併せてよろしくお願いします。




