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第十四話~出世? ……出世~


第十四話~出世? ……出世~



 中平三年(百八十六年)



 年も明けた二月、冀州刺史であった皇甫嵩が刺史を解任された。

 だが、別に不祥事や失態が彼にあったわけではない。これは、人事異動の一環であった。実はそれまで大尉の地位にあった張延が罷免され、代わりに左車騎将軍として涼州の反乱に当たっていた張温へその地位が与えられたのである。彼は先年に涼州の反乱で敵勢を大いに打ち破っており、漢の面目を立てている。今回の人事は、その褒美といった側面も強かったのだ。

 そして中央に呼び戻された張温に代わって、今度は皇甫嵩が涼州へ送られることになったというわけである。これにより彼は再度、左車騎将軍の地位を得ることとなった。こうして将軍に任じられることとなった皇甫嵩は、すぐに涼州へと旅立つ為に冀州から出立する。しかし彼は、戦地へ向かう前に廮陶に立ち寄り劉逞と面会していた。


「済みませぬ。かような仕儀となり、そなたの華燭の典へ出ることが叶わなくなり申した」

「致し方ないであろう、役目となれば」


 実はあと二か月後に、劉逞と崔儷の華燭の典が行われる予定であった。そして皇甫嵩も、賓客として参列する予定だったのである。しかし彼へ涼州で起きている反乱鎮圧の命が下ったことで、それが不可能となってしまった。

 劉逞としても、皇甫嵩は黄巾の乱で世話になった相手である。ゆえに参列をお願いしていたのだが、こればかりはどうしようもない。寧ろ、わざわざ詫びを入れに来てくれた皇甫嵩に、悪い気がしていた。


「いずれ、借りはお返しします」

「そのようなことを気にするな、義真殿」

「常剛様にはかたじけなく。では、いずれまた」


 その後、皇甫嵩は一まず洛陽へと向かったのであるが、このことが結果として劉逞の助けとなるとは、劉逞もそして皇甫嵩も思ってもみなかった。

 途中で大した問題もなく無事に洛陽へと辿り着いた皇甫嵩は、正式に将軍職を拝命する為に宮中へと向かう。そこで左車騎将軍職を拝命した皇甫嵩は、いよいよ涼州へと向おうとしていた。しかしその朝廷では、十常侍が妙なことをしようとしていたのである。その妙なこととは、盧植に関してであった。

 つい先日のことであるが、石経がいよいよ完成の運びとなっていた。そこで盧植も洛陽から劉逞のいる廮陶へ戻ろうといていたのだが、そこで十常侍の一人となる宋典が盧植に対して褒美の官職を与えようと動いたのだ。これは文武にける盧植を劉逞から離し、急速な出世を果たした劉逞の力を削ぐことを目的としている。流石に彼ら十常侍といえども、皇族となる劉逞に簡単には直接的な干渉をするのは難しいのだ。

 そこで劉逞の陣営において、盧植が主要な人物であることなど既に把握しているからこそ、盧植を彼から離そうとしたのである。しかしこれには、馬日磾や楊彪、張馴や韓説が反発した。

 盧植へ官職を与えるのはまだいい、石経の完成に協力したのだからそのことに対する褒美となるからだ。しかし、官職を与えることを理由に盧植を劉逞の元に戻さないことは座視できなかった。何せ盧植は、ある意味で強引に石経へ参加させたような物である。彼らとしては、少なくとも一度は無事に劉逞の元へ戻さなければ面目が立たないのだ。

 だが、言い出したのはよりにもよって十常侍の一人である。それゆえ、彼らとしても強く出ることができずにいた。一応、抗議をしてはいるが、それ以上となると大胆には動けない。下手に刺激をすると、自分たちやその家族が危うくなるからである。しかしながら、皇甫嵩が洛陽にいたことで風向きが変わったのだ。

 そもそも彼は、十常侍をあまり恐れていない。寧ろ、疎んでいると言っていいだろう。その為、相手が十常侍の筆頭と目される張譲であっても、昂然と意見を言う男なのだ。その皇甫嵩が、盧植に関する話を聞くと馬日磾らの動きに賛同したのである。何ゆえに馬日磾らへ味方したのかというと理由は二つあり、一つは劉逞の婚儀に参画できなかった借りをここで返そうと言う思いであった。

 そしてもう一つ理由は、この辺りで一つ十常侍を牽制しておこうかと考えたのだ。彼はこれより涼州へ赴くことになるので、もし朝廷で十常侍が何やらよからぬことを画策しても駆けつけることは難しくなる。ゆえに彼らへ、釘でも刺しておこうと考えたのだ。この皇甫嵩の動きによって、流石の十常侍とは言え思惑を通すことが難しくなってしまった。

 話を持ち掛けた宋典であったが、渋々しぶしぶながらも引き下がらざるを得なくなる。それゆえに宋典は面目が潰されたとして、皇甫嵩をそしてなぜか盧植を恨むようになる。そのような宋典の気持ちなど分かる筈もない皇甫嵩は、早々に涼州へと向かったのであった。

 そして当然だが、この一件は洛陽に忍ばせている密偵を通して劉逞の知るところとなる。すると彼は、怒りをあらわにしたのであった。


「ふっ……ざけたことをしてくれたな! あの、玉なしども!!」


 大声を上げたぐらいでは怒りが収まらなかったのだろう、劉逞は手近にあった机に対して握りしめた拳を振り降ろしている。彼の怒りをぶつけられた机は、軋んだような音を出していた。それでも怒りは収まらなかったらしく、彼は肩で大きく息をしている。その剣幕ゆえに、近づく者は誰もいない……かに思われた。


「落ち着け、常剛」

「子龍の言う通りだ」

「落ち着けだと!? 子龍、衛統!! 我は落ち着いている!」

『ならば、荒ぶるのはやめろ』

「……くそっ!」


 そう。

 幼馴染みの二人、趙雲と夏侯蘭が近づいて諫めたのである。流石は幼少の頃より、共にあった者だと言えよう。すると幾らかでも気持ちが落ち着いたのを見計らったのか、静かに程昱が劉逞の元に近づいたのだ。


「常剛様。お二方の申す通りにございますぞ」

「仲徳か。分かって……分かってはいるつもりだ」

「そうですか。なれば常剛様は、お礼の書状でも認めなさいませ」

「礼だと?」

「はい。取り成しをしていただきました、将軍宛にございます」


 皇甫嵩は、十常侍の一人である宋典に恨みを買われた。いや、もしかしたら十常侍そのものからの可能性もある。今回の一件を知った程昱は、そう考えていた。だからこそ、礼状を出して、感謝の気持ちを皇甫嵩へ伝えるべきだと程昱は言っているのだ。


「そう……だな。しかし、まさかこのような形で返されるとは」


 結果として劉逞は、涼州へ赴任する皇甫嵩から言われた華燭の典に参加できなかった借りを返された形と言える。しかも前述した通り恨みを買った可能性があり、これは寧ろ劉逞の方が借りを作ったと言えるかも知れないのだ。それぐらい、大きいと感じられるものと言えるだろう。彼は内心で「これは、機会があれば返すべきことだな」などと思いつつ、程昱の進言通りお礼の書状を認めるのであった。



 それから一ヶ月もした四月、廮陶にて劉逞と劉忠の孫である崔儷との間で華燭の典が執り行われていた。賓客として郭典や曹操や劉備、そして意外なところで并州刺史の丁原がいた。実は劉逞と丁原は、旅をしていた頃に結んだよき因縁を持っていたのである。その縁に従って、彼も招待していたのだ。

 そして言うまでもないことだが、参列者には劉嵩や劉逞の生母となる彼の正室。そして、崔儷の祖父となる劉忠もいる。他にも、亡き父親の一族である清河崔氏からも参列者がいたのだ。

 因みに劉逞の両親と劉忠だが、息子と孫娘の晴れ姿を見て涙を流していたのである。両親からすれば、漸く一粒種が結婚してくれたのである。これでお家は安泰だという思いがあり、思わず涙ぐんでいた。

そして劉忠はというと、二重の意味で喜んでいた。一つは唯一の肉親となった孫娘である崔儷が、これまた気に入っていた劉逞と夫婦になったことに対する喜びである。そしてもう一つの理由は、朝廷より届けられたある約定であった。

 その約定とは、劉逞と崔儷の子供が成長した暁には、甘陵王となる確約である。つまり、もし劉逞と崔儷の間に子ができる前に劉忠自身が亡くなったとしても、家の存続が保証されたに等しいのだ。

 なお、この確約を得る為、甘陵国の相となっていた劉虞が果たした役割は大きいものがある。しかしその劉虞だが、華燭の典に参列していない。劉逞は賓客として招待しているが、参列することができない事情があった。

それは、甘陵国内の事情である。甘陵国解放直後における劉逞の動きや、劉虞が相となってからの手腕によってかなりの落ち着きを見せている甘陵国だが、それでも劉忠と劉虞が揃って甘陵国から出られるほどには落ち着いていなのである。それゆえに劉虞は、参列を断ったのであった。

 実際、情報を集めている趙燕からも、同様の情報が上がってきているので疑う余地はない。これでは仕方がないとして、劉逞は劉虞の参列を諦めていたのであった。


『おめでとう、常剛殿』

「玄徳も孟徳殿もありがとう」

「しかし、中々に美姫で羨ましい」

「おっと。孟徳殿には、御自重願いますぞ」

「む……これは、してやられた」


 劉逞の返しに、場は笑いに包まれた。

 曹操には、成人して間もない頃に人妻を婚儀の際に攫ったなどという話がある。ゆえに劉逞が、曹操が妻の崔儷を褒めたことに対して即座に返したのだ。心当たりのある曹操が思わず詰まってしまったが、すぐに切り返した辺りは流石である。これにより空気が和み、以降はより楽しい宴となったのであった。

 なお、招待された賓客たちだが、数日ほど廮陶で過ごしたあと戻ることになる。だが劉逞の両親と劉忠は、さらに一週間ほど滞在していたのであった。





 廮陶にて行われた華燭の典が終わった翌月の洛陽では、十常侍が動いていた。とはいえ、主に動いたのは宋典である。彼は結果として盧植絡みで恥をかかされたという思いから、ある意味で暴走したのである。何と、盧植の主で皇族である劉逞へ意趣返しをすることで盧植へ抱いた憂さを晴らしたいと考えたのだ。

 その宋典の動きに、他の十常侍が乗る。たとえ状況が味方したとはいえ劉逞は、僅か一年で無官から校尉となり、そして太守にまでなった。そんな彼に対して、今のうちに彼の力を削いでしまおうと考えた彼ら十常侍、特に筆頭の張譲は宋典に便乗したのだ。一度でも叩いておけば、皇族とはいえ身の程を知るだろう。彼らは、そう考えたのだ。

 そもそも十常侍としても、黄巾賊によって荒らされた鉅鹿郡をこうも早く復興の道筋に乗せるとは思ってもみなかった事態なのだ。十常侍の勝手な思惑としては、今頃は荒れた鉅鹿郡という荷物の為に、二進にっち三進さっちもいかなくなっているはず筈だった。しかし、いざ蓋を開けてみれば復興までの道筋はつけている。そればかりか、その道筋に従って急速に立て直しを行っているのだ。これでは、劉逞が名声を得るのに力を貸してしまったようなものである。このことも、宋典以外の十常侍が、頭を押さえつけようと考えた理由の一端であった。


「何かよき手は、ありませぬか」

「……そうじゃ! 冀州から并州へ移動させよう」

「ふむ……悪くはない。出世もさせれば、文句も出すまい」

「出世? 并州? ああ、あの者か。そうよな、既に七年も就いておる。変えてもよかろう」

「では、そういうことで」


 十常侍の中で合意がなされ、彼らは調整に入ったのであった。





 劉逞と崔儷の華燭の典が無事に終えてからおよそ三ヶ月後、朝廷から召喚された。先の十常侍のこともあって、劉逞は警戒した。だが、正式な召喚を断ることなどできない。それゆえに劉逞は、不在の間に何が起こってもいいような体制を整えると、程昱や趙雲や夏侯蘭らを伴って洛陽へと向かったのであった。

 因みに、無事に戻っていた盧植ではなく程昱を連れてきたのは、やはり十常侍に対する警戒感からである。これが何年も時間が経っていれば気にもしないのだが、盧植に関する一件はまだ数か月前のことであり警戒するに越したことはなかった。そんな彼らの一行だが、治安の回復もあってか問題なく洛陽へと到着する。以前と同様に父親の屋敷に腰を据えると、その二日後には宮中へ参内していた。


「劉常剛。千人督校尉と鉅鹿郡太守の任を解き、新たに、使匈奴中郎将に任ずる。また、併せて西河郡太守にも任ずる」

「は? ははっ」


 警戒していたこととは全く違う方向の命に思わず呆けた劉逞だったが、すぐに気が付くと即座に拝命していた。

 だが、何ゆえにこのようなことを十常侍が結論したのかというと、劉逞叩きもあるが同時に辺境の治安を求められたのである。実は張角が蜂起する少し前辺りから、并州と幽州は北方の異民族である鮮卑から侵略されていたのである。つまりは、その対策の一環でもあったのだ。既に幽州には護烏桓校尉が送り込まれているので、劉逞を使匈奴中郎将に昇進させて并州へ送り込んだのであった。

 そもそも劉逞は、黄巾の乱において武名を馳せている。その彼を、辺境を脅かす鮮卑対策にというのは無理な話ではない。しかも使匈奴中郎将は、職名が示す通り匈奴に関連しているのだ。

 匈奴は当初、漢の仇敵だった。しかし紆余曲折の結果、匈奴の内紛で分裂してしまい北と南に分かれている。のちに北の匈奴は鮮卑に敗れ滅亡し、残された南の匈奴は漢に服属したのだ。以降、残った南の匈奴は漢と共に辺境の守備に当たっている。当然、鮮卑からすれば敵でしかないので唯一となった匈奴も標的とされていた。

 しかし匈奴は、そのような状況下にありながらも漢からの要請に答えて黄巾の乱では援軍を出している。その匈奴に対して、皇族の劉逞を使匈奴中郎将に据えることでして漢が匈奴を蔑ろとしておらず、かつ見捨ててもいないと示したのだ。

 つまり十常侍は、鮮卑と匈奴対策で冀州から辺境の并州へと移動させ、同時に鮮卑という敵に当てることで力を削ぐという一石二鳥どころか一石三鳥となる手段を切ったのである。だがそれならば、何ゆえに西河郡太守に任じたのか。それは、簡単には鮮卑に敗れて貰うわけにはいかない実情もあるからだ。

 力は削いでおきたいが、しかしすぐに敗れて貰っても困る。この二律相反する状況を解決する手段としての妥協点、それが劉逞の西河郡太守就任であった。

 一方で劉逞はと言うと、彼が警戒したような無理難題でもない。鉅鹿郡太守は解任させられるが、代わりに西河郡太守には就任できるのである。確かに赴任先は并州西河郡という辺境になるが、校尉から中郎将へと出世することには間違いないのだ。

 ともあれ、様々さまざまな思惑を孕んだ人事によって劉逞は、使匈奴中郎将としてそして西河郡太守として并州へ移動することになったのであった。

連載中の「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」

併せてよろしくお願いします。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 三国志演技だと演技補正でろくなことをしない十常侍ですが 退廃していたとは言え 一国の政治を牛耳っていたのだから 無能ばかりじゃないはずですよね? 今回の話はそれを改めて思いました
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