第百三十一話~婚儀~
挿話に近いかもしれません。
第百三十一話~婚儀~
建安二年(百九十七年)
劉逞が豫州鎮定から無事に洛陽へ戻ってから暫く時が経ち最早晩秋と言っても差支えがない頃、洛陽のとある屋敷で婚姻の儀が執り行われることとなった。しかして誰と誰の婚姻かというと、それは呂布と蔡琰の二人となる。ただ、呂布の最初の奥さんは既に亡くなっているので、呂布からすれば再婚であった。
何はともあれ挙げられた呂布と蔡琰の婚儀なのだが、そもそも二人の婚儀に関してはもう少し早めに行われる筈だった。しかしながら婚姻が行われる時分の少し前に、蝗害が発生してしまう。これでは流石に婚儀を挙げるわけにもいかなくなり、一まず順延することに決まったのだ。しかしながら蝗害だが、一年で終わらず翌年になっても発生してしまうこととなる。これにより、さらに婚儀は伸びてしまったというわけであった。しかも、そこで話は終わらなかったのである。それは、皇帝が高邑から洛陽へ移動するという話が浮上したからだった。これは事実上の遷都であり、国家事業と言って差し支えがない。それゆえに、どうしてもそちらへ集中せざるを得なくなってしまった。その後、無事に遷都を終えて洛陽へと移動したら移動したで、今度は豫州黄巾賊の討伐を目的とした同州へ派兵するという話が持ち上がってくる。この様な立て続けに起きた事案もあって、呂布と蔡琰の婚儀は伸びに伸び続けていたのだ。
しかし、ここにきて慌ただしかった洛陽も漸く落ち着きを見せたのである。まだ懸念をされていた蝗害だが、三度目も発生するなどといった様子も見られない。また、前述した通り豫州黄巾賊の討伐は首尾よく終わりを見せている。ここに来て、漸くというかついに伸びに延びに延び続けていた呂布と蔡琰両名の婚儀が執り行わることとなったのであった。
なお、この婚儀では、丁原が呂布の父親代わりとして出席している。これには理由があり、一つは呂布の両親が既に鬼籍へと入っていることにあった。実は呂布の両親だが、彼が若い頃に死亡している。その後、丁原に呂布は仕官したわけだが、その丁原が彼を息子の様にかわいがった。流石に実の親子というほどではなかったにしろ、その関係に近い間柄ではあったことに違いはない。そしてもう一つの理由だが、丁原が一時期呂布を養子にしようと考えていたことに起因している。これは前にも述べたことだが、丁原には男の実子がいない。正確に言えば嘗てはいたのだが、戦などといった理由で男子全員が死亡しているのだ。かくて最終的に生き残った丁原の子供というのが、劉逞の側室となった丁茜だけだったのである。しかしその側室となった丁茜だが、劉逞との間に子供を儲けたことでその後継者が丁家にいないという事態も避けられた。現在、数えで四歳になる男の子であり、丁原の丁家、唯一の男児である。その為か、丁原も殊の外、可愛がっていた。
ともあれ、丁茜が男児を生んだことで呂布の丁家への養子縁組という話も立ち消えとなってしまったというわけである。とは言うものの、以前から目を掛けていた呂布である。その彼から親代わりを頼まれたのだから、丁原としては否などなかったのだ。ただ、そこには若干の罪滅ぼしの気持ちがないとは言えなかったのも事実である。一時は、養子縁組をしてでも丁家の後継者にしようかと画策していたこともあるからだ。しかも丁原は、まだ確定していなかったとはいえ、呂布へ匂わせるかの様な言葉を述べたこともある。結果としては男の孫が生まれており、その生まれた子供も劉逞との話し合いの結果、正式に丁家の後継者となることが決まっているのだから、その様な詫びの気持ちを丁原が抱いたとしても何ら不思議はなかった。
「本当は、我こそがそなたに詫びねばならぬのかも知れぬ」
「建陽様。その件については、今さらにございます。それよりも大事なのは、両親を失っていた我に目を掛けていただいたという事実にございます。それであるからこそ、こうしてお願いしたのです」
「……そうか……親代わりの大役、果たして見せようぞ」
こうして、丁原が役目を果たすこととなったわけであった。
因みに古代中国での婚姻の儀だが、いわゆる六礼に従って行われる。そしてその名が示す通り、六つの段階を踏んで婚儀は行われるのだ。
さてこの六礼だが、成立したのは周の時代と言われている。最悪でも、秦の始皇帝が現れる頃には完成していたとされていた。果たしてその六礼の儀式の手順だが、まず納采からはじまり、次いで問名、納吉、納徴または納幣が行われ、それから請期、親迎と続く。ここまできて、漸く夫婦となることが出来るというわけであった。
そして言わずもがなであるが、これらの儀式が一日や二日。いや、それどころか一週間かけたところで、終わる筈もない。それこそ古式に乗っ取って真面に行えばとても手間が掛かってしまうので、この時代……即ち後漢(東漢)の時代では、簡略化された儀式で執り行われることが通例となっていた。なお、劉逞と崔儷の婚儀であるが、正式に六礼の手順を踏んで行われている。ゆえに話が持ち上がってから、実際に夫婦となるまでに時間が掛かっているのだ。劉逞は皇族であり、しかも次期常山王が確約されている。そして崔儷にしても、甘陵王の孫となる。つまり二人とも高貴の出であり、彼らほどとなると簡略化された手順ではなく正式に六礼の手順に従って華燭の典が執り行われたのだ。
話を戻す。
ところでこの簡略化された婚姻の儀であるが、六礼で行われる仲人などを介した贈り物を用意して新婦側へ送り届ける。などといった面倒な手順は踏まない。その様な手順などは飛ばして、新郎が新婦を自身の家へ招き入れるのである。しかもその際に新婦は、薄い絹などを用いてで顔を隠していた。そして新郎が家へ新婦を迎え入れた時に、その顔を隠している絹を取るのである。これで事実上、新婦が新郎の家へ輿入れしたという扱いになるのだ。その後は、輿入れした家の親へ新婦が挨拶をしてそこで晴れて公式に夫婦となるのである。つまり、ここで丁原の出番というわけであった。
とは言うものの、呂布の親代わりを務める丁原は昔から劉逞側の人物である。何せその付き合いだが、劉逞が成人する前にまで遡るのだ。劉逞は師となる盧植の方針もあって、数年掛けて幽州や冀州や青州。兗州や豫州や司隷の一部や并州を巡っている。その時以来の付き合いとなるので、足掛け十数年の間柄となるのだ。そしてこれは、新郎となる呂布を筆頭に以前は丁原の家臣であった高順や張遼も同じであった。
また、蔡琰も父親の蔡邕が劉逞の文官筆頭という立場にある。つまり新郎だろうが新婦だろうが昔からの顔見知りなので、今さらな感がないでもない。それでも儀式は儀式であり、彼らは一連の儀式を滞りなく進めたのであった。
ここに晴れて夫婦となった呂布と蔡琰の二人であったが、数日後には客を招いて婚儀を挙げたことを披露している。その席には、父親代わりの丁原を筆頭に呂布が并州にいた頃から付き合いのある高順や張遼などが連ねていた。しかしながら、それらの者たちも、ある意味では霞んでしまっているだろう。しかしてその理由は何であるのかというと、それは丞相である劉逞が正室の崔儷と側室の丁茜を伴って参加者に名が挙がっているからだった。無論、公的な立場ではなく、私的な立場で披露宴の参加者に名を連ねている。だがそれでも、漢の丞相となる劉逞が正室と側室を伴って名を連ねていることは、仮にあるとすれば披露宴の格というものを上げていたのであった。その劉逞だが、彼も黙って座っているだけではない。新郎の呂布に対して手ずから祝い酒を注ぎつつ、祝いの言葉を贈っていた。
「奉先。漸く婚儀、誠にめでたい」
「これは丞相様からのお言葉を祝いの言葉をいただけるとはこの呂奉先、望外の喜びにございます」
「奉先。相変わらずなところだな、そういった人を食ったところは」
「これは失礼をば」
彼も何だかんだと、長く公儀に勤めているので、若かった頃に比べて失礼とも取れる様な態度を取ることは少なくなっている。それでも時より、出てくることがある。そして今回のことも、まさしくその類であった。劉逞が丞相という公的な立場ではなく、十数年の付き合いがある一人の友として名を連ねていることは承知している。それであるにも関わらず、彼は今回の様な返答を劉逞にしているのだ。その際、呂布は人を食ったような笑みすら浮かべている。だからこそ劉逞も呂布の意図は理解し、小さく苦笑を浮かべながら前述の様に返答したのだった。
その一方で、崔儷と蔡琰の二人の交わす言葉は劉逞と呂布とは違って、言葉巧みである。崔儷は甘陵王の孫としてふさわしい教育を受けているし、蔡琰もあの蔡邕の娘としての教育を受けている。その様な二人の交わす挨拶であるから、言葉が巧みであったのは勿論、優雅さや気品に溢れたものであったという。だが、揃って挨拶をした丁茜は、崔琰と違って蔡琰に対して酒を注いでいない。彼女は、祝いの言葉を送るだけに留めていた。これは劉逞の正室である崔儷が、前述した様に祝いの酒と言葉を贈っているからである。既に正室によって行われているのだから、側室である自分か同じことを二度もする必要がないだろうと引いた形であった。
その後、呂布と蔡琰の二人は参加者から祝いの言葉などをいただいている。元から酒に強い呂布は、最後まで挨拶と祝い酒を受け切ったが、流石に蔡琰には無理であった。途中で幾度か退席することもあったというが、それは仕方がないというものであった。なお、この呂布と蔡琰の婚儀に際し、劉逞と崔儷から祝いの贈り物が二人に与えられている。呂布には新たに汗血馬が劉逞より贈られており、蔡琰には崔儷より翡翠の玉の装飾品が贈られている。そして丁茜からも、崔儷から比べればいささか落ちるがそれでも豪華な装飾品が贈られたのであった。
兎にも角にも、こうして夫婦となった呂布と蔡琰だが、のちに二人の間には二人の男児と一人の女児が授かることとなる。そして長男が呂家を継ぎ、次男が丁原と同じく男の実子がいない蔡邕の養子となって蔡家を継ぐこととなるのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。
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「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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