第百二十八話~豫州遠征 三~
第百二十八話~豫州遠征 三~
建安二年(百九十七年)
羊山から何曼が、とても意気揚々と出陣した。その彼が間もなく布陣したのは、劉逞が率いる討伐軍本隊の前である。しかしてその何曼だが、副将の一人など少数の配下を従えて自軍の前に立つと、口火を切るのであった。
「我が名は何曼! 黄巾一の武勇を持つ者なり!! 劉逞よ! 我を恐れぬのであるならば、我が前に立つがよい」
豫州黄巾賊の中では一応名を知られているとはいえ、言うまでもなく彼は平民である。その彼が劉逞を名指しする当たり、あからさまな挑発なのは明らかであった。ただ、あまりにもあからさま過ぎて、指名された劉逞も挑発に乗る気すら起きない。とは言え、名指しされたことは変わりがない。いささか呆れた表情を浮かべつつも劉逞は、趙雲と夏候蘭を伴って進み出たのであった。
「そなたが、何曼か」
「いかにも。刹天夜叉の何曼とは、我のことよ!」
何曼がその様に名乗ったその時、劉逞が浮かべたのは訝し気な表情であった。何せ「刹天夜叉」などという二つ名など、全く知らなかったからである。確かに劉逞は、何曼と言う名は知っている。曲がりなりにも彼は、豫州で活動を続けていた黄巾賊を率いる将の一人であったからだ。
既に亡くなっている豫州の黄巾賊を束ねていた劉辟は無論のこと、彼が亡きあとにその地位を継ぐ形となった黄邵。そして、その黄邵を補佐している何儀と並んで、豫州黄巾賊内でそれなりの地位にあった何曼について調べていない理由がないのである。しかしその調査においても、何曼が「刹天夜叉」などと名乗ったことは、ただの一度もない。事実、その証拠に何曼の率いている軍勢のさらに後方に駐屯している黄邵と何儀と龔都が、一様に驚きの表情を浮かべていることからも間違いはないだろう。最も、劉逞のいる場所からかなりの距離があるので確認の仕様もないのだが。
ともあれ、何曼が名乗った二つ名となる「刹天夜叉」など、敵味方関係なく誰も知らないのである。しかし、当事者の一人である筈の何曼は、全く気にしている様子が見られない。彼はさも得意気であり、それこそ一世一代の見せ場に立っているのだと言いたげな雰囲気が現れていたのであった。
「……子龍、知っていたか?」
「はっ。いえ、全く」
「そうか。では衛統も……知らない様だな」
「はい」
名乗った何曼と、彼の周りに少数の配下を除いて、何とも言えない空気が辺りに漂っている。その空気を全く読んでいない何曼やその配下との乖離が、余計に拍車を掛けていた。
「あー、その、うん。何だ……何曼であったな、して何用だ」
「無論、張角様や張宝様や張梁様の墓前に、そなたの首を捧げる為よ」
前述した様に劉逞は、直接、間接は別にして何曼が名を上げた三名に関与している。それゆえに何曼の言っていることの意味が、分からないわけではない。とは言うものの、漢に対して反旗を翻したのは黄巾賊側である。その反旗を翻した黄巾賊の生き残りが敵討ちなど烏滸がましくて、横腹が痛くなるというものである。何であれ名指しされたことで出てきた劉逞であったが、彼の内心はもう呆れ九割、後悔一割で一杯となっていた。
その様な劉逞側の雰囲気など全く頓着せず、何曼は配下の一人を指名する。しかしてその者だが、彼の副将を務めている人物である。その彼はと言えば、手にしている得物を一つ振りながら前に出て来たのだ。そのことが、どのような意味を持つのかなど言われなくても分かる。するとその時、傍らで控えていた夏候蘭が一歩出たのである。その仕草から、彼が出ると宣言しているに等しい。すると劉逞は、少し考えてから許可を出したのであった。
何曼から指名された副将だが、名を理元と言う。その理元と夏候蘭が、対峙していた。しかしてその様子は、全く対照的である。理元はと言うと自身を、あるいは味方を鼓舞でもするかの様に声を張り上げているのだが、その一方で夏候蘭はと言うと、静かに佇んでいる様に見える。最も、あくまでその様に見えるだけでしかない。実際、夏候蘭というと、彼は油断なく対峙している理元の一挙手一投足に注意を払っていたのであった。
その様に見た目的には対象的な二人であったが、やがてどちらからとなく構えを取る。少しの間、睨み合ったかと思ったかと思うと、おもむろに理元が動いた。彼は跨っている馬を走らせ一気に夏候蘭との距離を詰めると、手にしている得物を振り下ろす。しかし夏候蘭は、愛用の武器である鷹頭刀で受け流して見せた。自信を持って放った一撃を容易く受け流されたことに理元は、幾許かの驚きと共に怒りを露にする。すぐに体勢を立て直すと、今度は横薙ぎに得物を振るってきた。しかし夏候蘭は、容易く受け止めたばかりか弾き返している。その事実を前にして理元は、悔しげに奥歯を噛み締めると、あらん限りの力で獲物を振り回し始めた。だが夏候蘭は、時にはいなし、時には避け、またある時は受け止めるなどして完全に防いで見せている。ここまで見事に防がれてしまうと、逆に理元の頭が冷えてくる。手加減なしに得物を振るったことで疲れが出始めていることもあり、理元は一息入れる意味もあって攻勢を止めて距離を取ろうとする。しかしその瞬間をまるで狙っていたかの様に、夏候蘭が動いたのだ。距離を取るべく動いた理元との距離を一瞬で詰めると、大上段から鷹頭刀を振り降ろしてきた。理元は咄嗟の機転で受け止めては見せたものの、その一撃の威力に驚愕の表情を浮かべてしまう。いかに咄嗟であったとはいえ、受け止めた腕に痺れを覚えたからだ。流石に落とすほどではなかったにしても、痺れが拭えるまでは十全に得物を振るえそうにない。そうなると、何とかして避け続けなければならない。しかし、先ほどの一撃を放ってくるような相手に対して攻撃を避け続けるなどいささか自信がなかった。とは言え、こんなところで死にたくもない。理元は、何とか避け続けて見せると心の中で決意をする。だがその決意を嘲笑うかの様な攻撃が、夏候蘭によって齎されることとなった。
夏候蘭は決して大きくはないものの、掛け声と共に鷹頭刀を続けて振るっていく。見た目的には、理元が先ほど夏候蘭に対して行った乱撃に近い様に見える。だが、獲物が振るわれる速度は段違いに速い。それでも理元は、先ほどの決意があったからこそ三回ほど攻撃を避けている。だがそれ以上、回避を続けることは流石に難しかった。四度目の攻撃が、いよいよ理元を捉えたのだ。しかし身に着けていた鎧のお陰で、致命傷とはならない。黄巾賊とは言え彼も将としては上級となるので、一応鎧を身に付けているのだ。とは言え、無視できるほど浅い傷というわけでもない。その為か、動きから精彩を欠いてしまうことになる。そうなれば、避けることなど無理だ。そのことを証明するかのように、連続して次々と一撃が入っていく。その一撃が理元を捉えるたびに傷が生まれ、そして血が流れていく。ついには動くこともままならなくなると、止めとばかりに夏候蘭は大きく鷹頭刀を薙ぎ払ったのだ。しかし理元には、最早攻撃を避けるだけの力もなく、自身に迫ってくるよう鷹頭の刃を見詰めるしかない。そして間もなく、鷹頭刀が降りぬかれた瞬間、理元の意識は闇へと沈んだのだ。
「……敵将、討ち取ったり!」
振り抜いた愛用の獲物である鷹頭刀を戻しつつ夏候蘭は、力強くそしてはっきりとした口調で勝利を宣言する。そして次の瞬間、劉逞の軍勢から歓声が起こり、何曼率いる黄巾賊からは落胆の声が上がっていた。豫州黄巾賊の中では名が通る何曼の副将を務めているぐらいなので、彼らの中では理元もそれなりに名は通っている。その理元がこうも容易く討たれてしまったことが、黄巾賊の雰囲気を生み出した原因であった。その様な中、夏候蘭は頓着せず跨っていた馬を進ませている。そして切り飛ばした理元の首が転がっているところまで歩み寄ると、馬から降りて首を拾いそして掲げる。それは改めて、勝利を宣言するかの様であった。
「おのれっ! 張角様たちだけでなく、理元まで!! この恨み、劉逞の首で賄ってくれるわっ!」
悲嘆にくれる黄巾賊の中にあって、ただ一人何曼だけは違っていた。元々、張角と張宝と張梁の墓前に劉逞の首を捧げると息巻いていた何曼である。そこにきて、自らの副将が討たれたことで、より劉逞の命を取ることの決意を固めたようである。しかしながら、現状において意気軒昂であるのは彼だけであると言っていい。他の者たちは、理元が討たれたことで落胆しているからだ。その為、動いたのは彼一人である。何曼は跨っていた馬を走らせると、真直ぐ劉逞の元へと向かっていく。その動きに気付いた夏候蘭は、すぐに馬に跨ると駆け寄ろうとする。しかし、彼はなぜか小さく頷いたかのような仕草を見せると馬を走らせなかった。邪魔が入らないのであれば、当然ながら何曼と劉逞の距離は一気に近づくこととなる。そしてもうすぐ肉薄するという地点にまで到達した正にその時、彼の動きは強制的に止められることとなる。その理由は何であるのかというと、文字通りの意味で横槍が入ったせいとなる。果たして横槍を入れたのが誰かというと、夏候蘭と共に劉逞の傍に控えていた人物であった。
「おのれ!! 邪魔をするか!」
「無論。主君を守るのは当然であろう」
何曼の怒りが籠った怒声を受けながら、全く表情を変えずに返答した人物は趙雲子龍である。そして夏候蘭が、すぐに劉逞の元へ駆けよらなかった理由もまた彼にあった。夏候蘭が頷く様な仕草をしたのは、趙雲からの目配せを受けたからである。劉逞と趙雲と夏候蘭は、子供の頃より兄弟同然に育った幼馴染である。しかも彼らは、趙雲の父である趙伯に武を学んだ同門でもあった。それだけに彼らは、お互いのことはよく分かっている。ゆえに先ほどの様に、視線だけでお互いの意思疎通を図るなどさほど難しいことでもなかった。何より、お互いの力量は微に入り細に入り把握している。ゆえに目配せを受けた夏候蘭が、すぐに動きを止めたのであった。
「ええい! 邪魔をするではない!!」
「断る」
激情のままに愛用の獲物である鉄棒を振るった何曼であるが、趙雲は巧みに愛用の獲物である涯角槍を操り勢いを殺す。まともに受け止めれば相手の獲物すら壊してしまいかねない鉄棒の一撃を、趙雲は見事に受け止めて見せた上で弾き返す。思わずのけぞってしまった何曼であったが、そこは今まで幾度の戦いを経験している猛者でもある。彼は落馬することなく体勢を立て直すと、殺気を込めた視線を趙雲へと向ける。だが当の趙雲は、顔色一つ変えることもなく静かに身構えたのであった。
何曼の副将「理元」ですが、オリジナルです。
ご一読いただき、ありがとうございました。
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「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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